ルールを無くしていく

私の経営におけるポリシーとして、「出来るだけルールを無くしていく」ということに挑戦しています。

 

なんの話かと言うとですね、例えば当社には「出張宿泊時における宿泊費の上限」って、無いんですね。

 

普通の会社には「一律1万円まで」などのルールがあると思うんですが、当社には、無いです。

 

ルールが無いと、どうなるか?

 

 ・社員が好き勝手に高いホテルに泊まり、会社の経費がかさんでいく

 

と、思いますでしょうか?

 

そうなるかも、知れませんね。

 

あるいは

 

 ・真面目に安いホテルを探す社員と、わがままに高いホテルに泊まる社員が発生し、不公平が生じる

 

と、考える人もいるでしょうね。

 

どちらも、経営者としては悲しいお話です。

 

ですので、普通の会社ではルールを作ります。

 

例えば、「宿泊費としては一律1万円を支給します」というルールにする、と

 

【ルールによる思考】
 ・安いホテルに泊まり、残りを小遣いにしても、よし
 ・支給額限界まで利用して、少しでも良いホテルに泊まる
 ・差額を自分で負担して、とても良いホテルに泊まる

 

というような事を、社員が自分で考える。これなら不平等でもないし、不公正でもない・・・・


・・・・という事が、私は好ましくないと、考えるのですね。

 

何が好ましくないかと言うと、折角の「会社の経費、不平等」などに対して、社員が考えるチャンスを、奪っていると思うんですよ。ルールが。

 

【ここ重要】ルールが思考停止を産んでいるわけです。

 

例えばですね、当社で社員が出張することになり、宿泊することになる。

 

社員は宿泊するホテルを探します。宿泊費は経費で落ちるので、「いくらくらいまでの宿泊費なら許されるのかな?」と、社内のルールを捜します。

 

でも、ルールはない。

 

そこで、私や上司に、聞きます。「いくらくらいまでの宿泊費なら許されますかね?」

 

で、私はこう答える

 

【指導による思考喚起】
 ・経費は貴方や同僚の皆さんが一生懸命働いて得た利益を取り崩すものですから、少ないほうが良いですよね
 ・でもあまりにもチープな宿泊場所を選んで、まともに寝れなかったり、現場へのアクセスが悪かったりすれば、仕事のパフォーマンスに影響しますよね
 ・行く地域によってもホテルの金額は様々ですから、よく調べて、旅慣れてもらうのもビジネススキルですね。
 ・ちなみに私(齋藤)は、こういうビジネスホテルをよく使いますよ

 

こんな感じ


私が指導のポイントとして置きたいのは「会社とのエンゲージメント」と「自主性」と「自立的思考」です。

 

先の【ルールによる思考】と【指導による思考喚起】において、「会社とのエンゲージメント」と「自主性」と「自立的思考」のレベルが、大きく違うのが、おわかりいただけますでしょうか?


少なくとも【ルール】の場合、社員が「どうやって自分がお得な状況を作るか」でしか思考していないのに対し、

 

後者はエンゲージメントなどを喚起し自分で考えなければならないというテーマを、与えるわけです。


これが私の、「ルールを無くしていきたい」理由です。

 

わかりますでしょうか?

 

「ルール」って、主に効率化の為の、ノウハウの凝縮だと思うんですよね。

 

すごく簡単に言うと、「ルール(やマニュアル)に従うだけで、誰でも仕事の品質を担保できる」

 

だから優れたノウハウを持った企業には、沢山のルールやマニュアルが存在し、それらが運用され、社員はそれに従い、品質を高めている。

 

まあそれは、良い事です。

 

ただ私は、私の会社では、それをしたくないんですね。

 

なぜならば当社の理念は「社員の成長」だからです。


ルールがないと、すごく困ります。

 

現に、当社に社員はすごく困る。特に中間管理職になると、本当に困る。

 

だって「部下を叱る」よりどころであるところの「ルール」が存在しないから。


例えばある時、社員が出張して、一泊30万円のスイートルームに経費で泊まったとしましょう。

 

普通の会社なら、「それはルール違反だよ」と言って、叱れるでしょうね。

 

でも当社だったら、当該社員に
「え?だって宿泊費の上限とか、そういう決まりないでしょ?だから良いのかと思って」と言われたら、「ルール違反」とは言い返せない。

 

だから上司は、困るわけです(どうやって、叱ろうか・・・)

 

そこで上司は(例えば)こういう事を話さなければならない

 

 ・会社の経費とは何か
 ・そのような(経費を使って自己欲を満たす)レベルで生きず、もっとプライドをもって生きろ
 ・目先の損得よりも、誰かに貢献する喜びを感じられる大人になれ

 

わかりますでしょうか?

 

これ、大変ですよね?

 

ルールさえあれば、上司は「ルール違反だよ」程度の事を言えばいいのですが、ルールがないので、その人の「生き方」や「美学」にまで立ち入って指導をしなければならない

 

大変です


大変だから「成長」するんですよね。だからこれ(ルールを無くしていく)が理念に通じる考え方だと、思っているんです。

 

ちなみに今、私は、当社(株式会社ソノリテ)の、「定年制度」というルールを無くしたいなと考えていて、法的整合性などを検証しながら、検討していこうと思っています。

 

多くの会社に、「定年制度」というルール、ありますよね?

 

これ、「なぜ人は60歳になったら仕事をリタイヤするのか?(リタイヤする必要があるのか?)」を、説明できる人いますか?

 

あるいは「人は60歳(あるいは65歳)になったら、仕事が出来ない」という理由でもいいです。説明出来ますか?

 

すくなくとも私は説明できない。

 

「何歳まで働くか」なんて、自分で決めればいいことだと思うんです。

 

確かに例えば年金や生命保険などの社会インフラは「多くの社会人は60歳でリタイヤする」ということを前提に合理化されてはいますが、それって後付の理由で、本質ではない。

 

だから私は、自分が理解もしていないし説明も出来ない慣習である「定年制度」というルールを、当社から撤廃しようとして、思考中です。

 

もちろん定年に代わる、何がしかの「リタイヤプラン」を作る必要がありますが、それは社員の自律的な選択を喚起するようなものにしたい、少なくとも思考停止を産み出すルールにはしたくないな、と思っています。

 

もっと人に迷惑をかけろ

若いころ、親や先生に

 

「人に迷惑をかける人間になるな」

 

とか

 

「人様に迷惑をかけなければ、何をやっても良い」

 

などと、よく言われませんでしたか?

 

私も、「人に迷惑をかける人間、最低!」と思って生きて来ました。

 

今でも、電車の中で大騒ぎをする人や、道路に平気でゴミを捨てる人は、大嫌いです。

 

本当に、メイワク。迷惑。あーいやだいやだ。不快です。不快!

 


「迷惑をかける」という言葉には、以下の意味があるようです

 

 ・その行為によって、他の人が不利益を受ける

 ・その行為によって、他の人が不快を感じる


つまり、「不利益/不快」を産み出すということですね。

 

道路に平気でゴミを捨てたり、不適切な場所で喫煙したりする人は、私に不快感情を与えます。つまり迷惑です。だから、嫌い。

 

あと例えば、私達のビジネスに悪影響を与える人がいたとしますね。そうすると私は、その人から不利益を蒙りますから、つまり迷惑ですね。


「人に迷惑をかける人間になるな」


を、言い換えると

 

「人に不快感情や不利益を与える人間になるな」

 

と、いう事でしょう

 

まあ、その通りかな・・・


その通り・・・


その通りかな・・・という点について、アマノジャクな私は、最近こんなことを考えるのですよね

 

 「人に迷惑をかけるな」と、言われて育っているうちに、

 

 「人に頼るな/人に助けを求めるな」と、言われているように思い、

 

  それを追及するうちに、まるで

 

 「人に頼るのは全部悪!」と


 なんか、そんな風になってやしませんかね・・・そんな気がするんです。

 


人に何かを頼むのは、いろいろと、大変ですよね。

 

 ・買い物行ってきて

 ・背中かいて

 ・どいて

 ・静かにして

 ・ちゃんとお風呂に入って


みんな、頼むの、大変です

 

頼むと、嫌な顔をされるかも知れません。見返りも、必要ですね。

 

相手の感情と、お付き合いをしなければいけない


だからですね、相手に嫌な感情を持ってもらいたくないから、頭のいい人は、全部自分でやるんです。自分でやってしまう。

 

 買い物だって自分で行くし、

 背中がカユければ孫の手を買ってくる。

 どいて欲しくても自分の方が移動するし、

 静かにしてもらいたいけど我慢して耳栓をする。

 ちゃんとお風呂に入って欲しいけど、これ言ったら嫌な顔するだろうから、こっちが匂いを我慢して一日過ごすのが正解だ・・・


そうなんですかね?

 

そんな調子で、良いんでしょうか?

 

これっていわゆる、「傷付け合わない事だけを保障しあっている楽な関係」なだけで、

 

これ、本当にいいのでしょうか?

 

最近、本当にコレ、思うんです。

 

この

 「人に迷惑をかけるな」

が、

 「傷付け合わない事だけを保障しあっている楽な関係」

を、作り過ぎてはいないだろうか?


極端に大袈裟に言うと、これってもしかして人間の関係性の稀薄を産む原因だったりして、それが高じて自意識の低さや承認欲求の渇望を産み出してやしないかとすら思うのですが・・・


少なからずこの、「傷付け合わない事だけを保障しあっている楽な関係」からは


 ・何の助け合いも生まれないし

 ・何の議論も生まれないし

 ・何の変化も起きない


ような気がして、ならんのですよね・・・


なんででしょう?

 

いつからこんな風になっちゃったんでしょうかね?

 

私、いっつも気持ち悪いんですけれど


例えば社内の会議で、5人、いるとしますね

 

Aさんが、「商品Zを作りました」

Bさん「いいね!」

Cさん「いいね!」

Dさん「いいね!」

Eさん(えーぜんぜん良いと思わない。少なくともココ直した方が良い。あーでもみんないいね!って言っているし、ここは空気壊さないように、私は黙っておこう・・・)


これ、全然ダメな会議じゃないですか?

 

でもけっこうこれ、組織の中で起こりがちなことで、


ほんとうに気持ち悪い!


   ほ ん と う に 気 持 ち 悪 い !!


もうね

 

もっとこう、迷惑をかけあうべきだと思うんですよ。少なくとも、クリエイティブならば。


 迷惑もかけるし、

 人も傷つけるし、

 助けられたら、全力で有難う、言うし

 自分も全力で、助けるし

 傷つけられても、そこから何かを得て、リベンジしながら、成長する
 (むしろ傷つけてくれた人に、感謝!)


そういう事が、なんというかワリとこう・・・

 

 「人に迷惑をかけるな」

 

と、育てられた人には、課題となってしまい、


例えば何か議論すべき場がササクレ立つと、そのササクレからの熱で何かが産み出される、その産み出される前に、熱をさまさせてしまったり・・・


そうじゃない


もっと迷惑をかけあわないと


もっともっと、仲間に迷惑をかけて、自分を主張して、でも助けて、その輪を質の高いものにしていかないと、成長はない


だから私はおもうんですね。迷惑をかけましょう。迷惑をかけあいましょう。と

 

私の会社株式会社ソノリテには、いろいろな人がいます。尖がっている人もいるし、優しい人もいます。

 

その色々な人の中に、けっこう「人に迷惑をかけるな!」と考えて生きてきた人がいて、それは素晴らしい事なんですけれど、前述のような課題もあるな・・・と

 

どうでしょうかね?賛同していただけますでしょうか?

 

だから私は会社のなかで、言い続けようと思っています。

 

 「もっと人に迷惑をかけろ」

 

もちろん、会社の中で、ゴミをポイ捨てしてもいいよって事ではないですよ。

遠慮/ディスカッション/怒っている話

  • 今、ここは会社で、同僚が10人ほどいる
  • 会社の退勤時間になろうとしていて、皆帰り支度をしている。
  • 常連のお客様から急な電話が来て、明日の朝までに(そうだなぁ…例えば)「恰好のいい男性の絵」を描いて、納品してほしいと、頼まれた。
  • この「絵を描く仕事」という事を、この会社では誰もやったことがない。ですが「どうしても御社でやってくれ!」と常連のお客様が言っています。

 

さて、アナタは、お客様からの電話を受けた人です。

 

電話を受けてしまったからには、誰かにこの仕事を振らないといけません。


どうしますか?


答え1)

「申し訳ありませんが当社はもう終業時刻が近くなっておりまして、また、そのようなお仕事をお受けしたことは前例がなく、このお仕事をお受けすることはできません」


まあこれも、答えですね。

 

どのような仕事をしているかにもよりますが、この答えでは、あまり優れたサービス業の姿勢とは言えないかも知れないですね。

 

このお客さま常連です。この会社が何時が定時かくらい、だいたい知っているでしょう。「絵を描く仕事をしていない」という事も知っているでしょう。

 

その常連のお客様が、急に電話をかけてきたのですから、ちゃんとお話を聞いて、解決してあげようと考えるのが、まあ、優れたサービス業の姿と言っていいでしょうね。

 

アナタが答え1)のような回答をしたことで、この常連は会社を嫌いになるかも知れませんね。

 


答え2)

 (皆、帰りたいだろうから、私がお話を聞いて、私が出来る事だったらやろう。私が出来ない事だったら、丁重に謝ろう)


こういう人、けっこう、居ますね

 

なんとなく、他の社員想いの、やさしい社員なんじゃないですかね。アナタは。

 

でもこれ、正解なんでしょうかね?

 

アナタは、八方美人に成りたいだけで、お客様のことなんてちっとも考えてはいないですね。

 

だってアナタには出来ない事でも、今まさに帰ろうとしている社員Aさんだったら、簡単に出来るお仕事かも知れないのですからね。

 

アナタは、他の社員から嫌われることを恐れているだけで、他の社員達に遠慮して、お客様の事なんて、ちっとも考えていないのかも知れません。

 

こういう会社は、社内は仲が良くて居心地が良いのかも知れませんが、競合他社には負けてしまいますよね。

 

だって社員が総力で戦っていませんからね。電話を受けたアナタが出来る範囲のサービスしか提供しないわけですから。

 


答え3)

  • アナタ「みんなちょっと待って!常連のお客様から”恰好のいい男性の絵を描いて、納品してほしい”っていうご依頼です!」
  • アナタ「だれかこの件を対応してくれる人、いませんか!?」
  • Aさん「あ、なら僕がやりますよ。ぼく今日アフター5の予定ないですし。絵も描いてみたかったんです。みなさん帰ってください。僕やっときます。」
  • アナタ「わかりました。お願いしますね」


さてこれどうでしょう?

 

とりあえずアナタの第一声は、すこし進歩しました。「情報の共有」を行いましたね。

 

しかしその後、「意思決定」をする段階において、またもアナタは「顧客無視」を行いました。意識の高い社員の挙手に頼って、お客様に最適なサービスを提供出来る人財の選択をする行為をサボったわけですからね。

 

結局こういう会社も、社内における「挙手」だけがディシジョンメイキングの観点でしかなく、挙手した人財の能力だけがサービスの規定になってしまうので、答え2)とあまり状況は変わらず、アナタの会社は競合他社に負けてしまうでしょう。

 


答え4)

  • アナタ「みんなちょっと待って!(以下同文)」
  • アナタ「恰好のいい男性の絵 を描くのが得意な人、いませんか??」
  • Aさん「やってみたいけど、描いたことはないです」
  • Bさん「私、得意ですよ」
  • Cさん「みなさんがお得意なら、私はたいした絵は描けませんので」
  • Dさん「一口にカッコイイといっても色々価値判断があるじゃないか、そんなもの、わからないよ」
  • アナタ「じゃあ、Bさん。お願いします」


さて、また少し進化しました。

 

ですがまあ、「意思決定」においては、まだまだ問題がありそうですね。わかりますで
しょうか。

 

これは意思決定の怠慢です。ですがこのような意思決定の怠慢は多くの仕事の局面で沢山行われているように思います。

 

何が怠慢かといえば・・・

 

この辺りから言語化するのはなかなか難しい話になってきますが、私だったらという
話をしますね。私だったら、この段階

  • Aさん「やってみたいけど、描いたことはないです」
  • Bさん「私、得意ですよ」
  • Cさん「みなさんがお得意なら、私はたいした絵は描けませんので」
  • Dさん「一口にカッコイイといっても色々価値判断があるじゃないか、そんなもの、わからないよ」

というヒアリングをした段階ですと、少なくとも、

 

 「だれにお願いするべきか、わからない」

 

というのが、答えのハズだ、と、思うわけです。

 

ここでいう、「だれに(お願いすべきか)」の、「だれに」は、オフィスに残っている10人のうち、発言しているABCDさん以外の人達も含みます・・・

 

ヒントはCさんの発言ですかね

 

 「みなさんがお得意なら、私はたいした絵は描けませんので」


これも、日本人の美徳 「遠慮」 ですよね。

 

■回答のまとめ

 

私が今回のblogでお話ししたかったテーマは、「遠慮」です。

 

「遠慮」という日本人の美徳は、ビジネスのチームワークにおいてとても難しいテーマ
だと、私は常々感じています。

 

私達は例題のように、ビジネスのさまざまな局面で、「メンバーを選ぶ」という意思決定をしなければなりません。

 

その「メンバーを選ぶ」という意思決定を、「遠慮」は邪魔をします。

 

遠慮は往々にして、目の前の相手に対し、「慮(おもんばかる)」という事をします。つまり日本人は、目の前の相手を「不快な気持ちにさせない」という事に長けており、

 

かつこの「目の前の相手を不快な気持ちにさせない」という概念は、「社内(社員同士)」と「社外(お客様)」というコミュニケーションにおいて、近しい、目の前の存在(つまり社員同士)との関係性やルールを優先してしまい、

 

ディスカッションをすることをせず、社内に「馴れ合い」の状態を作り、結果としてお客様(通り存在)に、最適なサービスを提供することを拒むからです。

 

一般的にこのような企業は変化に弱いのではないかと思います。


強い会社、変化に強い会社、協創を行う会社に必要なのは「ディスカッション」です。

 

例の話に戻しますと

答え1)~4)どの答えをみても、「ディスカッション」に至っていません。

 

この事例では

  • 明日の朝まで、火急のお話
  • お得意様からのお話なのでマストウィン
  • 要求事項が曖昧(カッコイイとは何か)
  • 自社や社員に実績のない仕事(誰がスキラーか不明)

 

ざっと考えても、これぐらい難易度のある仕事、です。

 

こういった課題に対して、ベストソリューションを提供するには、「ディスカッション」が必須だと思います。

 

「ディスカッション」をすることを「遠慮」しているから、答え1)~4)のような、「顧客無視の思考停止の意思決定」をしがちなのではないかと、思う所があります。

 

「ディスカッション」は、主張、尊重、統合などの必要がありますよね。もしかしたら感情の機微に対する感受性の高い日本人は得意ではないのかも知れない・・・

 

私は


会社の中で。「ディスカッション」が出来ていない、皆が遠慮し合って、怠惰で妥協だらけの付き合いをしているのを見ると


   ***めっちゃ怒ります***


怒ることを、遠慮しません


この「怒る」っていうマネジメントは、基本的にあまり高級な物ではないかも知れないと、自分でも思うんですけどね・・・

 

 


思うんですけど・・・

 

 


効くんですよねwww

 

 

 

もうね・・・ほんと・・・効く

 

 


私の「怒り」がなくても、皆が心地よく遠慮なく「ディスカッション」出来るわが社に、早くならないかな~と思いながら、毎日のようにオデコに血管を浮かべて、怒ってます。

 

なんなんでしょうね?

 

皆さん、ちゃんとディスカッション出来る能力を、お持ちなんですよ。うちの社員って、ほんと凄い力を持っている人、ばっかりなんです

 

でもね、ちょっとほっておくと、ディスカッションを「遠慮」する人、多いです。

 

それでも、ちょっと自慢ですが、うちの会社って他の会社に比べたら、「すごく意見の出し合いが出来ている会社」なんだと思います。けっこう褒められますからね。

 

でもですね、もっともっと!

 

もっともっと!私の理想と思える「ディスカッション出来る」会社になるまで、私は怒り続けます!!

弱い人間たちの為に何をするのか

人間は弱い。

 

会社の社長をやっていると、本当にそれを感じる。

 

「人間は弱い。弱いから、理解できない人を、恐がり、恐い相手を嫌い、嫌いといい遠ざける。」

 

特に若い人は弱い。

 

  **弱いから、すぐ人を嫌う。**


人を嫌う事で、自分が傷つくことから逃げる。


逃げ、弱いままでいる。


弱いままでいるから、嫌いな人が、増える・・・

 

 

本当は、強くなって欲しい


強い人は、もっともっと、強くなってほしい

 

強い人だらけになれば、傷付け合いながらも、お互いを理解し合い、また、強くなれる。

 

嫌いあう状況が生まれず、お互いの強みを尊重しあえる

 

尊重し合う事で、お互いに器が大きくなり、そしてまた、強くなれる

 

それが多様性が統合された組織、なのだと思う。

 

あるいは、その拡大が、民度の高い、成熟した、平和な社会。 

 

 

当社も多様性組織を目指している

 

まだ外国籍の社員は数名だが、留学経験や外国生活の長い社員は、少し増えてきた。

 

LGBTについてもオープンだし、出来る限りのフリーを実行している。

 

でも、やはり

 人間の弱さに直面する

 

弱さゆえに人を嫌い、同質性の殻に閉じこもり、成長機会に背を向ける

 

残念、挫折

 

「社員の成長」を経営理念に据えた会社、株式会社ソノリテの代表として、挫折も多い、です。


ほんと、もう、「ニッポン人、どげんかせんといかん!!」です

 

・・・強くなってほしい

 

 


でもですね


弱さ、も、また、価値です


多様性の中に、弱さのインテグレーションも、必要 と私は思っています。


前提としているロジックとして、前述したとおり

 

「人間は弱い。弱いから、理解できない人を、恐がり、恐い相手を嫌い、嫌いといい遠ざける。」


ですから、つまり

「理解できない」という問題を、内包しています

 

 

したがって私は、株式会社ソノリテの「多様性組織化」に向けては

 

 ・社員に強くなってほしい

 

と、願望する事だけでなく

 

 ・お互いを(自分と価値観の違う人を)理解して欲しい

 

という事において、積極的に何か働きかけようと、思っています


理解とは、情報を知る、ということだけではなく、悟るとか、和解する、とか、尊重する、ということを、含み、意味します

 

会社が提供するサムシングで、社員が「今まで理解できなかった人を、理解できるようになった」という経験を好感情と共に成功体験として経験出来れば、

 

それはきっと将来、「社員が強くなる」という順回転に、結び付いていくのではないかな?

 

そう、思うんですね


私が代表を務める株式会社ソノリテは、今、50人の壁を乗り越えようと、四苦八苦しております。

 

多様性組織にならず、小さな同質性コミュニティが多在するだけの、弱い組織であるという原状。

 

そしてそれを打破できていないという問題を抱えていると、私は思っております。

 

それを打破するためには、社員に「強くなってくれ」と念仏を唱えるのではなく、

「理解し合う経験を積ませるためのサムシング」に投資していこうと、私は考え始めています。

 

そのキーワードは、つまりそれは情緒の育成であり、結局はメディアなんじゃないかな・・・

 

当社はICTによる社内コミュニケーションを活性化することに、特化したテクノロジーの会社なんですが、

 

コミュニケーションでは情緒の醸成は、なかなかに、難しく、

 

やはり次に、会社を成長させるのは、エンゲージメント、そのエンゲージメントの基礎となる情緒は、ブランドとかカリスマという言葉で定義が曖昧化された、エンターテイメント的な意味合いを強めたメディア生成能力なのではないかな・・・

 

つまりコミュニケーション活性化能力やメディア製造能力は、やはり中小企業改革の武器なんですよね・・・

 

あれ?

 

脱線したかな?

 

まあいいや、脱線でも、まあ、最近考えている事でした。ほんともう、ニッポン人どげんかせんといかんです。おわり

 

 

あ、おまけ

president.jp

ALSアイスバケツチャレンジと不謹慎狩り

株式会社ソノリテの記者、ピーターメロス君と、定期対談をしています。

 

先日は、「不謹慎狩り」というテーマについて、お話をしました。

peter-melos.com

 

私が「不謹慎狩り」という風潮について考えている事は、そちらの記事をぜひお読みいただいて、

 

今日は、私の不謹慎な話をします。

 

今さらですが、また「ALSアイスバケツチャレンジ」をやりました。3回目、です。


一回目(2014年8月22日)は、こちら

www.youtube.com


これはまさに、2014年の「ALSアイスバケツチャレンジ」ブームの時に行ったものなのですが、

 

テーマとして「セレブぶってかっこつけて話そうとする前に皆に水をかけられちゃう」という感じで、行いました。

 

なんでそんな風に行いたかったかと言うと、セレブぶりたかったわけですよ。私、本当は。

 

ネット上のノリのいいセレブと、友達っぽいところを見せたかったわけです。ダサいですね。

 

だからそんなダサイ私の感性を、皆さんに笑ってもらうくらいが身の丈にあって良いかなぁと、そんなくらいがダサカッコイイかなぁと思って、そうしました。

 


二回目(2015年1月30日)は、こちら

www.youtube.com

 

これはですね、そのシーズンの冬に、雪が降りましたので、その中でやりました。

 

このテーマはですね、

 

「ALSアイスバケツチャレンジやったセレブって、あれ夏だからやってたんだよな。冬にやる根性ねえよな」

 

とか、

 

「ああいったブームってのは病気のことを何も知らない浮かれた連中が売名行為のためにやって、ブームが過ぎたらもうやらねえんだよな」

 

っていう、不謹慎狩り達へのアンチとして、

 

ブームが去った後にもまだALSバケツやっているヤツがいるよ。バカだね。と、言われたくて、やりました。

 

 


そして今回は、三回目(2016年5月12日)

 

三回目はこれです。

www.youtube.com

 

これは、どういった趣旨で行ったかというと、それは是非youtubeを見てもらいたいのですが、

 

ようするにALSという病気に対していまだ差別的な排除行為が、よりにもよって厚生労働委員会において行われてしまったという事実に対し、

(というか本当は、岡部 宏生さんかっけえな! って思ったからなんですけどね)

 

俺は氷水をかぶった。わけです。

 

そしてこれはですね、ある一つの誰かさんのTweetがキッカケでして、そのTweetは偶然見かけたものなんですけれど、


それは、たしかこんなことが書いてあった

 

「(厚生労働委員会ALS患者に対して行った差別に対し)数年前にALS氷バケツチャレンジやった連中にもしっかりと反省してもらいたいもんだぜ!」

 

ああ出たわ不謹慎狩り

 

そうなるとですね、こういう不謹慎狩り的発言を見つけちゃうとですね。俺は思うんですよね。

 

 「何かやろう」「この不謹慎狩り君が出来ないことをやろう」

  出来れば俺らしく、もちろん良い事を。

 

そういう事、です。


今回映像を撮ってくれた当社の

 

 映画監督山下君

 英訳など手伝ってくれたマーケティング櫛島君

 盛り上げてくれたソノリテ公式アカウントその子さん

 同じく盛り上げてくれたわがままーと店長

 

どうもありがとう。また何かの機会にやるんで、よろしく。

 

なんかこうなるともう、俺の芸風みたいにしようかな。氷バケツ


次回ですが(ALSアイスバケツチャレンジに次回もクソもないですが)

折角なので神田明神の 寒中禊(かんちゅうみそぎ)なんかに挑戦しようかな?って、思ってます

www.youtube.com

 

 

趣旨代わってますねwww

 

わらしべ長者+α

皆さんは「ヤマハの歴史」というコピペをご存知でしょうか?

ヤマハとは (ヤマハとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

内容としては、ヤマハ株式会社さんが、最初の「輸入ピアノの修理」という事業から、様々な多角経営を行っていくプロセスを、面白く表現しているコピペなのですが

 

とても面白いのは、一つ前の事業で得たノウハウや技術や販路などを利用して、次の事業を行っている。ということ

(もちろん面白おかしいコピペですので、事実かどうかはわかりませんが)

 

これですね、とても、私の事業に対する考え方に近しくて

 

経営者をやっていて・・・いや、その前、ビジネスマンだったころに、新規事業を立ち上げたり、ビジネスアイデアを皆で考えたり、そのころから感じていた事なんですが

 

人間とは、近い事は見えすぎて、遠い事には憧れる、傾向がありますね

 

 

どういう事かと、言いますと

 

例えば私が、ジャガイモを作る事業をしているとして

今までジャガイモ事業で、とても苦労してきたとします。

 

そんなときにですね、若い社員が入って来て、「今度は、別の品種のジャガイモを作りませんか?」と、言ったとしますね?

 

そうしたら、私は、こんな事を言うでしょう

「ばかやろう。イモってのはな、そんな甘いもんじゃねえんだ。土から作って、何年も苦労して、やっと出来上がる。あの品種は、XXという病気に弱いんだ。そういう事を勉強してからモノを言え」

 

でも、ですね

 

ある日、例えば、どこからか「ビジネスマン」がやってきて

 

「イモを使った化粧品を作り、販売したいから、協同出資してくれませんか?この事業は絶対に売れます。化粧品を作る事と、それを売ることに関しては我々に任せてくれれば良いです。我々はこの化粧品業界ではトップの実力を持っているから大丈夫。御社は良い品質のイモを作ってさえしてくれればOKです」

 

何てことを、言われると

 

意外とこれ、信じてしまう・・・

 

これはですね、

 

ジャガイモを作るビジネスをしている私にとって、「新品種のジャガイモ」よりも、「化粧品」の方が、遠い存在なんですね。

 

そしてこの「遠い存在」の方が、人は信じやすい(というか、夢見やすい)という事があります。

 

だから、言うなれば、騙されやすい

 

脱サラしたいサラリーマンを対象にした、起業させ屋商売なんかが使う手でもあるんですが・・・普段あまり馴染のない分野のビジネスを「有力ベンチャー」などと偽り、出資させる・・・

 

これ、なじみがないから、眼が効かないわけなんですね。信じるしかない。

(そして背景には、知っているビジネスに疲れ果てていて、そこから逃れたいという願望もあり、それが後押ししてしまう)

 

それでは、リスキーなんです

 

人間と言うのは、ついつい現実に対しての不満から逃げ、「目新しい事」に吸い寄せられていきます。

 

それは非常に非効率で、リスキー。

 

今までやってきたことを前提に、「そのノウハウ」をちょっとづつ育て、成長していくことが、重要です。

 

これを僕は「わらしべ長者作戦」と、呼んでいるんですけれどね

 

つまり最初は「拾った藁しべ」を、だんだんと育てて行き、価値のある物と交換していき、大きくしていく。

 

これが事業の基本だと、思うわけです。

 

例えば当社であれば、

 ・優秀なシステムエンジニアのいる企業

 ・そのエンジニアに強みを持たせる(Microsoft SharePoint

 ・その強みを、商品メニュー化し、ダイレクトマーケティングを行う(SSS)

 ・その強みで得たお客様に、アップセルを行う(メディア事業

 ・その強みに、ちょい足しして、クラウド対応し、新マーケットを狙う(テラスク365)

 

などなど・・・

 

こんな風に、事業拡大していくのが、良いのですね

 

はい、これがセオリー

 

 

所が、人間は・・・というか現実のマーケットは

 

それだけでは、すまない

 

私たちが得て来たノウハウや技術や販路、を、ストレートに拡大していくだけでは、時代の変化やニーズの多様化には対応出来ない、硬直化した会社になっていってしまう

 

というのが、モダン経営の悩み処・・・なのではないかと、私は考えています。

 

ですので、「わらしべ長者」をやりながら、余ったもう一つの手で、「新しい藁」を捜す努力を、しなければいけません。

 

ただそれは、無秩序にリビドーに従ってというと、先の起業させ屋などにダマされるような、精神構造の方向に、進んでしまいます。

 

だから、

 ・少しでもノウハウがある

 ・漸進出来る(というか、する)

 

という前提、設計、覚悟を持ちながら

 

それでも(見かた次第では)まったく異なる新分野のような事を、やっていく

 

という「新しい藁を捜す」事を、多様性人財などの後押しを受けながら、進めて行くのが、「会社を硬直化させず過リスク状況に追い込まない」手段なのではないかなと、私は考えています

 

ですので株式会社ソノリテ(私の会社)は、

 

(見かた次第では)既存のSE企業が行わないような、色々な面白い取り組みを、今後も行っていきます。

 

これが私の「わらしべ長者+α」経営、です

 

+αの中の一つ、をご紹介

 ・おもしろメディア

 

当社の社員発、蛇足販売「わがままーと」

ネコ専務をあしらった商品「トートバッグ」

 

こちらから購入出来ます 

 

 

さてこの、「藁」は、どうやってお宝になっていくのでしょう。私は本気です。今から楽しみです。

長所と短所。得意と苦手。感情を除外して考える

当社「株式会社ソノリテ」の経営理念には「社員の成長」があり、社員には「長所を生かした仕事をしてほしい」と思っています。

 

ここで「長所」とは何か?という話になりますが

 

例えば

 

 「あの人の長所は、我慢強さで、お客に信頼を得る事だ」

 「あの人の長所は、マシンガントークで、場の空気を盛り上げる事だ」

 「あの人の長所は、全てのお客様の生年月日を記憶して、アフターフォローしている事だ」

 

など、

 

なんとなく、僕の定義では、「長所」というのは

 

 ・対象となる事柄(仕事など)に対するものである

 ・第三者の評価であったり、定量的に測れたりするものである

 

というのが、「長所」なのかな?と思っています。

 

これが、例えば「対象となる事柄(仕事など)」が、変わるとですね


例えば、おしゃべりな人がいて、司会者のような仕事があったとして

 

 「あの人の長所はマシンガントークで場の空気を盛り上げる事ですね」

 

となるのかも知れませんが

 

逆に、例えば同じおしゃべりな人が、弁護士のような仕事をすると

 

 「あの人の短所は、おしゃべりのしすぎでお客様に信頼感を与えられない」

 

なんてことも、あるんじゃないかな?


つまり対象に対して、自分の「特徴」をどう生かすか・・・という所が、「長所あるいは短所」なのではないかなと思うんですね。

 

 

で、うちの会社は、社員の皆さんが「長所」を活かしてもらいたいので、社員の「長所あるいは短所」を知りたいわけなんですけれど・・・


まあ単純に「あなたの長所は何ですか?」と、聞きますよね?(まあこういう質問をする私も良くないのですけれど)

 

そうすると、

 

 「暗算が得意です」

 「体力には自信が有ります」

 「数字に強いです」

 「手先が器用です」

 

いろいろとお返事が返ってきます

 

でもこれみんな、「得意」な話であって、先の定義でいう所の「長所」ではない。


え?


「長所」と「得意」って違うんですか? と思われたかも知れないのですが、

 

私の定義では、違います。

 

私の定義

 長所:やると、良い成果が出るもの

 得意:やると、上手く出来て楽しい事

 

むむむ?似たような、似て非なる物のような・・・

 

では、逆に「短所」と「苦手」に関する、私の定義を書きましょう。こっちの方がわかりやすいと思うので

 

 短所:やると、悪い成果が出るもの

 苦手:やると、上手く出来ず苦しい事


・・・あんまりわかりやすくないかな

 


要するに言いたいのは(あくまでも私の定義ですが)

 

 長所/短所:客観的な成果となって現れる

 得意/苦手:主体的な感情が中心となっている


ということ

 

だから例えば、先に言った「おしゃべりな人」にとって、「おしゃべり」は「得意」
なんじゃないかなって、思うんです。

 

 おしゃべりが「得意」 -> 仕事Aにとっては「長所」
 おしゃべりが「得意」 -> 仕事Bにとっては「短所」

 

こんな感じ


な~んだ、そんな事か~


そう。そんな事なんですね。そんな事なんですけど、これとても重要な事で・・・


私は、「長所は」と聞いて「得意」な事を喋る人は、ちょっと足りてないなと思うんです


だから例えば「長所は」と聞いて

 

 「私の長所はおしゃべりです」

 

と答えた人がいるとすると・・・ああ・・・こいつ足りてないわ・・・と思う


 「それはおまえ、おまえが喋るのが好きなだけちゃうんか?」と、思う


例えば、アナタの周りにもいませんか?自分の喋りたい事だけ好きなように喋って、相手の話なんか全然聞かないし、相手が自分のおしゃべりに対してどう思っているかについて、すごく鈍感な人。


そういう人にとって、「おしゃべりが必要な仕事」は実は「長所に成り得る場面」では、無いかも知れないんですよね


それに本来(ここ重要)


 「長所は」と問われて、自分が何をやることが「楽しいのか?」と考えている時点で、自分本位でしかない。


わけです


ドラえもんに出て来るジャイアンに「何が長所ですか?」と聞いたら、「歌を唄う事」と答えた・・・ようなもんです


長所は、おそらく過去に自分が出したことがある「成果」を起点にして、語るべきかと思うんですね

 

 「私は過去にこういう成果を出したことがある。その時私はこのような評価を受けた。よって私の長所はそういう所にあると思う」

 

これが恐らく、思考するフレームワークとしては正解じゃないかな

 

(まあそれでもジャイアンなら「私は過去に町中の少年たちを集めてリサイタルを成功させ、少年たちから喝さいを浴びたので、私の歌は長所だと思う」と言うだろうけれど)

 

つまりは、ですね(ここも重要)


 私は「アナタが何を楽しいと思っているか」なんて聞いてないよ


って事に、よく注意してもらいたいんですよね。

 
さっきの、私の定義

 長所:やると、良い成果が出るもの

 得意:やると、上手く出来て楽しい事


つまり、私の質問は

 

 「アナタはどんな成果が出せる人なのか」

 

であって、

 

 「アナタが何を楽しいと思っているか」

 

という質問は(基本的には)していないよ! って事なんです。


(基本的には)と記したのは、先の「長所」「得意」議論の外枠で、「人は得意な事を仕事にしたほうが、楽しいし捗るし成果が出やすいハズ」という、ちょっと浅めの仕事論があるので、(基本的には)を付けているわけですが


だから改めて書きますが、私が「あなたの長所は?」と聞いたら、あなたはうちの会社に、どんなメリット(成果)をもたらしてくれますか?という事を聞いているのであって、あなたが何を楽しいと思っているか?なんてことは、基本的には聞いていない。

 


おいおい

 

とんでもねえ、ブラック社長だな? ソノリテの齋藤って野郎は

 

社員が、どんな仕事を楽しいと思うのか?ということは無視して、どんな成果が出せるのかしか、興味がないってさ。コイツは?


・・・と、


思われたかも知れませんね。

 

もちろん、必ずしも、そんなことはないです。

 

「必ずしも」です。


もう少し、「仕事」を、深く考えましょう。


皆さんは「仕事」に、何を求めているのでしょうか?それはそれは、色々な事があると思います。


 生活の糧/楽しみ/暇つぶし/やりがい

 /人の役に立つ感触を得たい/自分の力を試す場/修行の場

 /家族を安心させたい/組織に帰属したい/etc


色々な立場の人が、いろいろな物を求めて、働いている。そういった中で、「得意な事を仕事にしたい」という一局面だけで会社のスタンスを、単純に評価しては、いけませんね。

 

組織は、運命共同体。パフォーマンスが重要。会社は遊び場ではありません。

 

私は、社員の皆さんに「長所を生かした仕事をしてほしい」と思っています。これは、本当です。

 

それは何より、会社のパフォーマンスが最大化するからです。会社にとって唯一無二の尺度は成果であり、社員がなぜ働くかは、先に示したように多くの事柄があるのですから、

それは何であれ(例えばひまつぶしであれ)「成果」を出してくれれば、私は「社員がなぜ働くのか?」にまで、本質的に立ち入るべきではないと考えています。


だからそれで、いいはずだと、これが私の定義

 長所:やると、良い成果が出るもの

 得意:やると、上手く出来て楽しい事


の違い、でした。

 

 

 

追:

ちなみに私は、当社に入社面談をしに来てくれる人たちに、私は、色々な言葉を使って質問をしています


 「あなたの長所は?」

 「あなたは何が得意ですか?」

 「あなたは何をやっているときが楽しい?」

 「あなたはどんなことがやりたいですか?」

 「あなたの嫌いな事はなんですか?」


その質問に対して、例えはこのblogに書いているように

「齋藤という人間は、長所という言葉と、得意という言葉を、使い分けて考えているようだぞ。面談の質問も注意深く聞いていないと、間違った答えをしてしまいそうだな」

 

などとは、考えていただかなくて結構ですよ。

 

言葉の定義なんて人それぞれだし、質問に対する一問一答よりも、もう少し深い所で人間観察しているつもりですので

 

ただ、最近ちょっと思うのは・・・どうも

 

「自分にあった仕事をする」

 

という事を、短絡的に

 

「やったら楽しそうな仕事をする」

 

と、考えがちな人が、けっこういるな・・・って感じているところから、こんなblogを書いてしまった齋藤です

 


ビジネスというゲームに勝つには、自分の感情に左右されず、まるでポーカーをやっているように計算高く、表情にださず・・・そんな勝ち方も、ありますよね。

 

また、自分が「苦手だな」と思うような事は、大抵の人達もやっぱり「苦手」であって、この「苦手」な事をやってあげれば、人助けと言うビジネスが成立するという、基本的なサービスの原点も、あります。

 


どうも最近、「仕事と感情」っていうテーマが続いている齋藤blogです

 

 

纏めの二言

 

 「自分の長所は、自分にとって楽しい事とは、限らない」

 「自分が楽しい事が、成果を出せるとは、限らない」

 

 

感情を除外して、自分が仕事で何が出来るのか、考えてみても良いのではないでしょうか