2017年7月1日付けで、うちの会社(株式会社ソノリテ)は、役職制度をやめました。
役職制度ってなんのことかと言うと、部長とか課長とか係長とか、執行役員とか、そういうものを、廃止しました。
だから今月から、うちの会社には上司もいないし、部下もいません
(一部希望者は、上司を自分で選び、部下になれる)
2017年3月1日から、4ヶ月にわたり戦略会議を行い、社員の有志と検討を重ね、結果、そうしました。
なんでそうしたかと言うと・・・結論から言うとですね。
・・・いや、結論からよりも
やっぱりゼロベース思考が好きだから、ゼロベース思考で説明しようと思うんですが、
会社ってただの人間の集合だと思うんですけれど、それで、なんとなく「ミンナで金儲けしようぜ~」っていう集合だとしますね?
ここ大事なんでもう一回言いますけど
「ミンナで金儲けしようぜ~」
って集合だと、します。
(本当は株式会社ソノリテの経営理念は「社員の成長」なんで、「ミンナで成長しようぜ~」なんですけど、成長だとなんだか偽善っぽいので、 ここでは「金儲け」にしておきます)
で、
「ミンナで金儲けしようぜ~」
って集団が出来上がった時に、
「じゃあお前が係長ね。お前課長ね。お前一番年長者だから部長やって。」
とかね、なるんかと。
ならんような、気がするんですよね
どうなるかというと、
「おまえ友達多いから営業やって。おれ手先が器用だから開発やるわ。おまえリーダーシップあるから全体監督やってよ」
とか・・・まあそうなりますよね。たぶん。
だから
じゃあなんで「会社」となるとですね、部長とか課長とか係長とかそういう、役職がいるんだろうな~と思うわけですよ。うちの会社もやっぱ「 役職」あったわけだし
なんでやねん?
なんで会社には「役職」があるんだろうか?
習慣? 模倣? 過去の成功体験の模倣・・・
昔から会社というものには組織というものがあり、組織にはそれぞれの「階層」にHUBのピン止めとなる「役職者」が必要である。これが情報 伝達や意思決定のカナメとなるのである。
と、
まあそう思って、たぶん多くの会社には「役職」があるのだろう。
ではその「役職」ってやつは・・・、なぜゼロベースで「ミンナで金儲けしようぜ~」としたときに思考した時には、必要と思わないのだろうか?
まあ、そこの話ですね
恐らくは、こんな答えが一般的な脊髄反射の答えなのではないだろうか?
「良い時はいい。組織や会社には良い事ばかりではなく悪いことも起きる。想定外の事も起きる。そういう時に責任者や権限者をはっきりさせて おかないと意思決定が鈍る。だから組織には役職者が必要だ」
こんな感じ
例えばこれが、会社ではなくて、政治だとしましょうか?
政治だと、自治体の長(村長、町長、市区長、知事)なんかがいますね。
これらの役職者に、その自治体の自治権が委ねられます。その自治体のなかで、どうやって富を分配するか、負を負担しあうか、そういう事を、決定します
だから人の集合には、なんらかの「長」が必要で、持っている資産や負債について「管理」する・・・
はい出ました「管理」
(中央集権的管理において配下が平均的安住を享受するといったような感覚・・・)
これってどちらかというと、「複数の人間が多様な立場で存在し、それらがどう共生するかをジャッジメントする責任者権限者があった方がよく、それが必要で、それは選挙のような民主的な手段で決定する」みたいな世界だから・・・
「ミンナで金儲けしようぜ~」というフィーリングと重ねてみると
「金儲け」したらそこに「資産」が生まれるし、そもそも「労働」というものを、皆で「分担してやっていく」という「負担し合い」が発生するから
「やっぱほら、儲けた金をどう分配するかとか、そもそも労働をどう分担するかというような事を決めるときに、「長」が必要で、その「長」が 「管理」するんじゃないの?」って、話になる
・・・と、なると
最初の「ミンナで金儲けしようぜ~」の話に戻ると
「おまえ友達多いから営業やって。おれ手先が器用だから開発やるわ。おまえリーダーシップあるから全体監督やってよ」
「ああいいよ」「わかったよ」「楽しそうだね」
となって
会社をはじめて、働き出す
と、すぐにこういう事がおきる
「なんだよ営業サボりすぎだよ!」
「うるせえな開発の品質が悪すぎるから売れねえんだろう!」
「売れるものが少ないし売れないものが余り過ぎなんだよ!監督の監督責任が問われるよ!」
「違うだろう営業の販売予測が大きく違ったからだろう!」
そして、それぞれが、会社活動を行った上で得た利益について
「会社の利益の源泉は営業。開発は不良を出し、監督は不良在庫を出した」
「開発は現在持ちうるリソースで最高の結果を出した。営業はもっと利益を出せたはず」
「不良在庫は各部署の予測と実績の乖離によるもの。監督部署はベストをつくした」
などと、それぞれにポジショントークを始めるわけですよね
で、それを纏め、分配や分担を決定するために、「長」が必要なわけだと・・・
だから
「ミンナで金儲けしようぜ~」
と、集合した段階では、「役職」は必要ないんだけど、動きたしたらすぐに、「長」が必要になってくる・・・
というような説明は、いったん成立するわけです。
・・・
・・・多くの会社が、上記のような理論で、「組織」「役職」のようなものを設けているのではないでしょうか?
・・・(好きじゃない)
・・・ダメ押しで、もうちょっと極端な例を、放り込みますと
戦場における軍隊が、やはり説明としてはすごく適切です
(以下、戦争を模した例えをします。心情に合わない方はご自身の判断で読まないでください)
軍隊組織の単純な例を、以下にあげます
1)一万人の軍隊がいる
2)一人の軍隊長がいる
3)軍隊長の命令は、絶対である
4)2千人毎、5つの部隊に分かれている。A/B/C/D/E部隊とする
5)それぞれに、a部隊長、b部隊長、c部隊長、d部隊長、e部隊長、がいる
6)部隊長の命令は、それぞれの部隊の中で、絶対である
軍隊って、こんな感じで組織、したいわけです
なぜか?
答えは明解です。戦場では人が死ぬからです。
ここに戦場があるとします
敵が3つに分かれています
・右に谷があります。右には、たぶん3千人くらいの敵がいるように見えます
・左に山があります。左には、たぶん2千人くらいの敵がいるように見えます
・真ん中には平地があります。真ん中の平地に1万人くらい敵がいるように見えます
敵は総勢で1万5千人
こちらは1万人
だから勝てない・・・ではなく
軍隊長が左の山を攻め落とそうという作戦を立てます。
山の上からの攻撃は山の下からの攻撃にくらべとても有利で、もし山の上を攻略出来れば、この人数的に不利な戦いに勝てるかも知れないからです
計算を単純化するために、山の上にいると、平地の人より2倍強く、谷の人より4倍強いとしましょう
さて軍隊長は、
・山の戦に強い、A部隊とB部隊、併せて4千人を、左の山に向かわせます
・山の上にいる敵は2千人で、A部隊とB部隊は合わせて4千人ですから、山の上にいるほうが2倍強いとして、双方が全滅します
・そして残るCDE部隊(合計6千人)で山の上を占拠し、平地の1万人と谷の3千人に対し、山の上から攻撃をします
・計算上は、CDE部隊の500人が生き残る形で、戦闘が終了します
ここまで、良いでしょうか?
つまり軍隊とは、上記のようなことを前提に、組織を組成するわけですね
(ものすごく単純化しているし、齋藤は軍隊の専門家ではないので、一つの例えとして、理解していただきたいのですが)
で、ここで「長」の話に戻したいのですけれど、ようするに上記のような事をやろうと
すると、組織に重要なのは、先ほどの
3)軍隊長の命令は、絶対である
6)部隊長の命令は、それぞれの部隊の中で、絶対である
という部分がないと、この「500人が生き残る(つまり勝つ)」という事が、行えないという事ですね
これらの軍隊に「絶対的な権限をもつ組織長」がいなければ、上記のような「作戦」は、そもそも成立しないわけですし、みな「死にたくない」と思えば、「何も出来ない」わけです
「何も出来ない」組織であったとすると、圧倒的に人数が多く、かつ山の上という有利なポジションを既得している敵に、勝てるわけがないわけです
・・・
・・・だから組織には「長」が必要になってくる
・・・多くの会社が、上記のような理論で、「組織」「役職」のようなものを設けているのではないでしょうか?
・・・
・・・
・・・ということが
・・・という事が、全部嫌なんです
と、いう訳で、2017年7月1日付けで、うちの会社(株式会社ソノリテ)は、役職制度をやめました。
つまり結論は「全部嫌だから」
例えば
前述したような、こういう事がおきる
「なんだよ営業サボりすぎだよ!」
「うるせえな開発の品質が悪すぎるから売れねえんだろう!」
「売れるものが少ないし売れないものが余り過ぎなんだよ!監督の監督責任が問われるよ!」
「違うだろう営業の販売予測が大きく違ったからだろう!」
これ、組織や組織長、管理者、役職者 のようなものが「抑え込まないと」こういうことが***起きる***
また、先の軍隊長、部隊長のような「絶対的な権限者」がいないと、組織は全体的勝利に***向かわない***
この、
***起きる***
***向かわない***
の、本質的な原因をみようとせず、これらを「おさえこもう」とする組織論が、こう、薄気味悪いと言えばいいのか、前世代的であると言えばいいのか・・・
思ったんです。私は常日頃、社員の皆さんに以下のような事を言い、会社を経営しています。
・私は社員の皆さんに、「自主性」を期待しています
・また「多様性に対する理解」や、「哲学的地頭」を期待しています
そういう、インテリジェンシの高い人間であることを期待しているのに
なに抑え込んどんのじゃと?
なに組織で抑え込んどんのじゃと!
私はうちの会社(株式会社ソノリテ)の新入社員の皆さんに
「うちの会社は性善説で経営しています」
と言っているのですね。この気持ちにウソはないんです
ところが管理職的組織論はどちらかといえば命令優位の抑え込み型、比較的性善説とは反りが悪い
この疑問に気が付いた時に、
社員の「自主性」、「多様性に対する理解」、「哲学的地頭」らの成長を、阻害する組織を作っているのは、この私ではないか!と、思えてしまったわけです
どうですかね?
どうでしょうか?
わかってもらえたでしょうか?
ホラクラシー経営などを参考にしました。
かっこいいでしょうか?
・・・とんでもないです
・・・ほんと、とんでもない。カッコ悪いことばかりです
先にも記載しましたが、今年の3月から、4ヶ月をかけて、会社の戦略をみんなで考えました。
そこにあがった「現状に対する社員の不平不満」などは、本当に質の低いもので
・社員同士の「不平等感」
・管理職処遇者への低質な愚痴
・管理職者における困惑と為体
でした
(擁護しますと、うちの会社が酷いと言うよりも、日本の会社の平均的な姿ではないかと思いもします)
して、この根本を見るに・・・
その根本は、「私(齋藤和政:会社の代表)が、本質的に社員を信じていないからだ」という結論を見出さずにはいられませんでした。
また、昨今外国籍の方や、海外在住経験の長い方の、自主的な生き方をみるにつけ、
彼らが日本に対して「息苦しい」と感じるサムシングが、この「前時代的な管理社会的従属強要感」であることが否めず
結果としてそれらがすべてに対し、遠慮と言うベールに上手く隠した「無為無常」的な「指示待ち体質」を産んでいるという概念に突入していると理解した時に
【ここ重要】もう、自分の会社を変えざるを得ないと、確信したんですね。
もちろん、3月から行われた経営戦略会議において、思慮深い社員から
「(組織のフラット化は)性善説過ぎるのではないか」
という疑問の声が、多数上がりました
でも、
「性善説、いいじゃないか、何がいけないんだ」
です
私も自覚しており、今回の改革は痛みを伴う改革になろうことは、必至だと考えています。
が、しかし
・もう一歩、ソノリテという会社が、理想に近づき
・「社員の成長」という経営理念に愚直に従い
・性善説を経営の根幹とし
・「理想的な社員において理想的な会社」で、あるためには
今回この「役職の廃止」を行う事と、したわけです
というわけで
役職制度 を 止めた理由
それは 性善説
です
さあ、改革じゃ!! 頑張ろう!!齋藤和政50歳!!!!