粘り強さとプロデュース

相撲の極意は、粘り腰


土俵際でも重心を崩さず、しっかりと腰が座っていれば、逆転の勝機もやってくる。


粘れば、チャンスもやってくる。


粘れば、相手は疲弊し、自滅する。


「粘ること」によって成功した、成功体験のある人は、幸せです。


人生は有限です。人は毎年歳を取り、時が来れば天寿を全うします。


生きているうちに、成功したい


はやく、結果を出したい


スピードこそ正義


たしかにその感情は理解できます。とっとと答えが出なければ、飽きてしまいます。


でも、粘ること これが最強です。


私は過去に「継続こそ力」などと表して、類似の事を書きました


継続こそ力なり|共鳴指向で設計する

 

 

やはり、「一つ事に粘ることが出来る人」を尊敬しますし、私もそういう人になりたい。


ここで一つ、確認です、が


考え違いをしてほしくないのは、「思考停止して、そこに立ち止っている」ことと「粘ること」は違います。


例え土俵際でも、土俵を割らない様に頑張ることが「粘ること」です


「思考停止」は、同じ番付に居ることに安住し、向上心を持てない人です。


それと「粘り」は、180度違います。


例え同じ番付に居ても「いつかチャンスが来る」と、自分の強みの技を磨き、それに執着し、その技を磨き続けるのが、粘ることです。


ちょっとやってダメだったら「違う技を試してみよう」とか「作戦を変えよう」とか「相撲を辞めよう」とか、そういう事ではなく、簡単に答えの出ない戦いに、自らの信念だけを頼りに、粘り続ける。


ブレない


そういう力が、最強です。

 

 

で、ちょっと現実的な話ですが~

 

そういう人(粘っている人)に、等しくチャンスが来るとは、限りませんよね?

 

粘り強い人は最強ですが、最強だからといって成功する保障はない。


だから皆が言います。「もう諦めて、普通の生活をしようよ」

 


「粘る」ということには


 ・一つの技能、コンテンツ、サービス の質を高め続ける事

 ・チャンスを待つこと


この二つの意味があります。


技能が向上することは当然ですが、「チャンス」については、運不運があります。


が、「粘り」は、この運を高めるために「時間」を味方にします。


 3時間、釣りをしていて、一匹も釣れなかった


 でも一週間、釣竿を垂らしていれば、一匹は釣れるでしょう


同じ釣竿、同じ餌、同じ釣り場であっても、時間をかければ可能性は上がります。当然です。

 

ですからこの「粘る」という行為には、「時間をかける」ということでチャンスを得ようとする積極的な方法論がインプリメントされています。

 

 

で、さらに、

 

 

私はプロデュースの話がしたいんですね。

 

 

プロデュースの話をする前に、「粘る人」というか「粘れる人」の弱点の話をしたいのですが

 

「粘る人」は、「技能を磨く」必要がありますから、ついつい、内にコモるんですね。

 

「粘りたい人」は大抵、「もう諦めて、普通の生活をしようよ」と言う人が、出来るだけ少ない場所を探し、邪魔をされない場所で、技能を磨きます。


そこが問題で


チャンスというのは普通、人間関係の間から産まれますから、この「粘る」体質の人がどこかにコモっていると、チャンスに巡り合い辛い。

 

こもった場所で、何年待とうと、チャンスは来ない

 

こういう事がたくさん起きています。

 


ですので私は「プロデューサー」が必要ではないかと、思うのですね

 

「粘っている人」は、必然的に「粘りやすい環境」にコモって居ることが多く、そこは多様な社交性の場とは言い辛い場合が多く、その為チャンスが訪れやすい場所とは言い辛い。


これが私の仮説です。

 

私はこの仮説をもって、ソノリテのメディア戦略の骨子を考えており、メディア戦略の使命として、当社は多くの才能ある人達の「プロデューサー」になるべきだと思っています。

 

多くの「チャンスをまって、粘っている人達」。ソノリテにチャンスを探させてもらえませんか?

 

 

参考「町人チャンネル」(ニコ生コミュニティ)


宝塚男組(町人ちゃんねる)-ニコニコミュニティ