■しらけ鳥音頭
しらけ鳥~ 飛んでゆく~ 南の空へ
みじめ みじめ
しらけないで~ しらけないで~ しらけたけれど
みじめ みじめ~
引用:「しらけ鳥音頭(1976)」
唐突に「しらけ鳥音頭(1976)」を引用させていただきましたが、先日ふと
「さいきん“みじめ”って言葉を聞かないな~」と思ったので、今日はそんな事から、ブログを書きたいなぁと思ったんですが
みなさん、最近、聞きますか?「みじめ」
「おまえミジメだよな~」
とか
「わたしミジメだな~」
とか、
最近言いますか? 聞きますか?
なんとなく、最近、聞かないな~と思って・・・
で、「ところで ミジメ って何だっけ?」と思いましたので、調べますと、例えばweblioには、このように書かれています。
「見ていられないほど、あわれ」ってのがポイントのようですね。
語源も、どうやら「みじ」は「見じ」で、「見たくない」という事から来ているようです
と、いうことは
「みじめ」って言うのを、聞かなくなったな~と、私が感じたのは、「見ていられないほど憐れな人が、いなくなったな~」と言う事かも知れない。
うん。そうか、確かに。
たぶん世の中って、私が子供の頃(私は1967年生まれ)よりは、ずっと豊かになっている。
豊かになったから、ミジメな人を、見なくなったのか・・・
そこで、私より古い世代、例えば私の親の世代の事を考えてみます。
私の親は、戦争や戦後を経験している世代です。
だから私が感じるに、私の親の世代は、私の世代より、それはそれは貧乏だったり、世の中が荒れ狂っていたり、していたはず。
それはきっと、リアル「火垂るの墓」
例えば私の母親は、東京大空襲の時に赤ちゃんで、お姉ちゃんの背中にオンブされながら逃げ回り、空襲の火の粉が背中について、ギャン泣きしたらしいんだよ~みたいな戦争話を持ちネタとしてもっています。
私の親たちの世代は、そんなリアル火垂るの墓の世界で、とてもみじめな思いもしただろうし、みじめな人達も見てきたでしょう。
私はそれよりは豊かな世代です。なんたって青年期にはバブルも経験していますし。
だから「ミジメな人」を見るってのは、年代によって、だんだん少なくなっているのかも知れませんね・・・
まあでも、私が小学生くらいのころは、まだまだ日本には戦後や貧困の残骸がありましたし、
そんなころ(私が小学生のころ)、テレビのお笑い番組からメチャクチャ面白いテレビ番組があり、そしてその中で、小松政夫さんが歌っていたんです。
しらけ鳥~ 飛んでゆく~ 南の空へ
みじめ みじめ
しらけないで~ しらけないで~ しらけたけれど
みじめ みじめ~
引用:「しらけ鳥音頭(1976)」
この歌、当時の小学生に大流行しました。
誰かが何かを失敗すると、はやし立てるように言いましたね!
ミージメ! ミージメ!!
■ミジメになりたくない
なにかで失敗したり、ボロボロになっていたり、見るのが辛いくらい極貧状態であったり・・・
そういうのが「みじめ」
「みじめ」な人は、見たくない
でも、そんな「みじめなひと」を見たら、どう思うか
「ああは成りたくは ないなぁ・・・」
私はだいたい、そう思っていた気がします
「あんなにミジメな姿には、なりたくないなぁ・・・」
■自分自身への疑問
話は変わりますが、私は、自分が本当に「成功したい」と思っているのだろうか?と思う事が有ります。
私は会社を経営しています。そして会社の経営には主導的な活動を行うための衝動が必要だと思っています。
多くの「働いている人」は、何らかの命令や、何かのミッションを与えられて、それを「受け、こなしている」のだと思います。
ですが会社の経営は、先導し、牽引し、決断し、場合により引責する事です。「言われたことをやる」というのとは本質的に違います。
ですので受動的な行動力よりも主導的な活動力が必要で、そのためには何らかのパッションが必要だと、私は考えています。
そしてそのパッションが、私の場合、「成功したい」とか「金持ちになりたい」とか「社会を良くしたい」とかそういう使命を起点にしたものかというと・・・ちょっと自分自身に疑問があるんですよね。
私は、自分は比較的、反骨心の強い人間なんじゃないかな~と思っているんです。
ですから私の企業経営者パッションの源泉は、反骨。
「なにくそ」とか「ふざけんなこら」みたいなモノから来ている気がしてます。
なにかこう、何かに対して「なにくそ」みたいな怒りがあり、それがエネルギー。
そしてこの「パッションの源泉」とか「エネルギー」って、もしかしたら「みじめ」と関係しているんじゃないか?そんな気が、ちょっとばかり、します。
「ミジメな思いはしたくない。ああは成りたくない。」
- バカにされたり
- ケンカに負けたり、カツアゲのような事をされたり
- 人前で恥かしいおもいをしたり
- プライドなく人の施しを求めたり
- こそドロのような真似をしたり
そういうのが「ミジメだなぁ」「ああは成りたくないなぁ・・・」
ところがですね・・・
私はこの「ああは成りたくない」っていうのは、明確に人権を侵害されたりする事を除けば、
自分のプライドや、人格を貶められるような事ではないかと思っていたのですけれども・・・
ですから「人格を貶められる」事に対して、「なにくそ!」「ふざけんなこら」みたいなことを反動力として、エネルギーだったりパッションに、している・・・
そんな感じが、ちょっとあって
と言う事は、私は「ミジメな思い」をしたくないから「経営者やってます」みたいな感じで繋がるんですよね。
ミジメな人生を送りたくないから、経営者やっていますキリッ
ここでいう「ミジメな人生」っていうのは、ミジメの意味をひっくり返すと良いと思うので、言いたい事は
誰に見られても恥ずかしくない人生を送りたいから、経営者やっていますキリッ
って感じになります。
ある意味「ハングリー」みたいな事なんだけど・・・
まあ、でも
こういう「ハングリー」みたいなものは、きっと古い。
きっと古い・・・気がするんだが、
なぜなら・・・そう、ここがわからなかった。なぜ?
だってみんな、誰に見られても恥ずかしくない人生を送りたくない?
いや、どうもそうは思えないんですよね。
卑怯だったり、だらしなかったり、ウソつきだったり、甘えん坊だったり、すぐ逃げたり・・・
■フィルターバブルの話
見たくない物、見ます?
私は今、ビジネス上のコミュニケーションの大半をネットで行っています。
私は、私の同世代の中ではネットの利用が高い方だと思います。
そして私はIT企業の社長なので、ある程度はネット界隈に起きている事象について興味を持っておく必要があり、それを実践しています。
時によりネットの利用による企業の働き方改革ついて講演もしています。
そんな私が、本当に心配に思う事の一つに、「フィルターバブル」というキーワードがあります。
フィルターバブル
ネット社会は急速に「情報の検索」が容易となったことと同時に、「見なくても良いモノを見なくて良い社会」を創り上げた気がします。
そしてこの「見なくても良いモノを見ない」という状況が、人々を、本当に幼稚にしているような気がしてなりません。
「情報皮膜で知的孤立」する人々が、幼稚な情緒や正義から成長する為の挫折に出逢う事なく、自分で作った被膜から出る事を「しなくてよい自由」が確立されて来ている。
これは情報化に対する老害的見方かも知れません。
ですが本当に心配なのは、どのような原因であれ、「人は長い孤独によって反社会的人格を形成する」事はさまざまに研究されており、そのような肌感もある。
私たちは、見たくないものを見ないでよいという情報被膜と同時に、情報化孤独という問題を持ち始めているのではないかと言う気がしているんです。
■ミジメな人は、本当にいなくなったのか?
ここまでで、私は
「みじめ」な物は、
- 世の中が豊かになったから、目の前から消えたのか?
- 見なくても良いモノを見なくて良くなったから、見ていないのか?
が、わからなくなり、そして私のハングリーが
- もし「ミジメな思いをしたくない」ことに源泉があるなら、それと同じものをこれからの人達に期待する事はナンセンスなのではないか?
と、考えるに至るわけですよね。
うーん
「みじめ」
本当に、無くなったんですかね?
「ミジメな人」
本当は沢山いるんじゃないでしょうかね?
フィルターバブルで、見えなくなっただけなんじゃ???
いや、もっと言えば
フィルターバブルで、自分が「みじめ」だと、認めなくても良くなったから、自分が「ミジメだという自覚のない人」が、増えたのかも
卑怯だったり、だらしなかったり、ウソつきだったり、甘えん坊だったり、すぐ逃げたり・・・
それって、そんな人生って、ミジメだよね?そうでしょ?そうじゃないの??
なんかねぇ
見たくないんですよ・・・私・・・
Twitterなどに、どんどん増してくる、匿名垢、裏垢などで、ネットに不毛でクソな社会に対する愚痴や、不労所得を得ようとすることにだけ興味があったり、有名垢に対して嫌がらせDMすることだけを生きがいにしているような、下賤なる魂・・・
ほんと、見たくない・・・
匿名だから、恥かしくもないのだろうか???
人間の魂に貴賤は無い・・・とは思えない。それはきっと、情報被膜の中で幼稚なまま生きる事を許されているから。そしてそれは孤独と言う最悪の状況を加速させ、反社会的人格が芽生えている事を誰にも悟られない。
それは、「ミジメな人」なのでは ないか?
卑怯だったり、だらしなかったり、ウソつきだったり、甘えん坊だったり、すぐ逃げたり・・・
見たくない、残念な人・・・
まあ、でも
見なきゃダメなんじゃないか。お互いに。現実を。
会社の社長として、この「現実を見る」っていうことを、自責的に考えると
あらゆる人が「現実との向き合い」という事を、「しなければならない」理由として、「仕事」とか「働かなきゃいけない」ってのは、まだ機能していると思うんですよね。
- 世の中、豊かにはなった
- でもまだ、やっぱり基本的には、働かなければ生きてはいけない。普通は。
- そして働くからには、自分で情報被膜からでなければならない
そんな所に、会社の役割っていうのが、一つあるような気もする。
私は、ハングリーで会社を経営している人間デス。
そんな私が、これからのトレンドとなっていくであろう「情報被膜内に居る事を許された、私より豊かな社会に生きている人達」を、「社会との接点を作る“仕事”」を提供する側となり、孤独を脱出させ、させながら会社としての機能を成長させる・・・
そんな未来像を予測し、これからの会社の在り方を考え・・・
・・・
う~ん
そんな現実、見たくないなぁ・・・
出来るのかしらん?
・・・まあ、やるけどな。俺は
こんな時代に会社の社長になったんだもの、やってみるよ
「見ていられないほど、あわれな現実」を、目ん玉ひんむいて、見て行きます
現実世界の無常に、しらけていないで、見て行こう!!