「オープンダイアログ」という精神疾患に対する方法論を知ったんです。
で、まあ何を感じたかと言うと
やっぱ「対話」なんだなと
人間にとっての「薬」の一つに、「対話」があるんだよな…
いや
もしかしたら「薬」じゃなくて「ごはん」かも…
昨日、こういうニュースがあって
私たちは、もっと「人間」というものを知らなければ
そして「対話」というものを知らなければ
こういう不幸は、続くのではないかと、考えてしまう。
いつもこういうニュースがあったときに
「同じことを繰り返さないように、社会全体で、この問題を考えていきたい」
などと、ニュースは締めくくりますが
誰も考えていない
誰もは、いいすぎかな
でも、そんな感触があって
「対話」の反対に「孤独」があるとすると
人はついつい、「傷つきたくない」とか「考えたくない」とか「楽がしたい」とかいう感情の先に「孤独」を求めがちで
でもそれは「対話」の拒否でもあって
「対話の拒否」が、様々な不幸を産み出す源泉でもあるわけですが
とはいえ逆に、「対話(というか未熟な会話、のほうがいいかな)」が産み出す様々な不幸 というものもあって、
例えば「いじめ」なんていうのもそれなわけですが
「いじめ」みたいなものの原点にあるのが「異質の排除」だったりすると
もういいかげん「異質の排除」を悪とすることは、だいぶ「常識」になってはきたけれど
とはいえ「人間」は利己的であってもよくて、それが正解とは言わないけど、利己的であることを「悪」とはまだ言い切れない世の中なんだけれども
「異質を排除」することの意味は「利己」、というか「自己の防衛」「集団の防衛」だから、
そういう気持ちを飛び越えて、「対話」するということは
かなり利害関係の少ない間柄でしか、実行できないような気がするんですよね
あるいはかなり徳が高い、悟りレベルが神クラスの人でないと、利害関係のある間柄で、「対話」が出来るとは、思いにくい
まあその話題を抜きにしても、「対話」が行える人というのは、
知的な意味で、様々な能力の高さが必要なわけだ。
よく「やさしい人」とか「自由な人」というのが、対話相手としては適しているような誤解をしがちだけど
それは「利害関係において損を受けることを許しているやさしさ」か「利害関係をもとうとしない放任的自由」なわけだから
本質的に、違う
それは「犠牲」または「無関心」だから、違う。
「対話」が行える人、かつ「対話」による恩恵をうけるべき人と言うのが、定義される必要があり
その一つは「医者」だと思うんですが
知的な意味で、様々な能力の高さをもつ「医者」が、「孤独」に対して「(オープンダイアログのような)対話」を、先のような不幸な事件がおこらない世の中になるよう、十分な数、行えるようになる という社会 は
考えにくい
で、私はIT屋であるので
IT、あるいは AIが
何か出来ないか
まあ、とりあえずそんなことを思っていたりするんですが
ところが、私はどちらかというと、ITは「孤独」を作り出す方に、加担していると考えていますので
もう少しオルタナティブなアプローチで、脳を使わないとな…
こういう 話題の
対話相手が欲しいですね~
おしまい