イジメられネタ

久しぶりにブログ書きます

 

例によって思うがままに書きますし、誤字脱字もそのままにします

 

何となく書きたいことが産まれたので、書きます

 

数年前の話なんですけども、飼っていた猫が死んだときの話です

 

私はその当時、自転車で会社に通勤していました

 

猫が死んだ翌日の朝も、住んでいるマンションの駐輪場で、通勤するために自転車に乗ろうとしていました

 

そこに、マンションの管理人が居ました

 

そのマンションの管理人は、私よりもだいぶ年上の、オジイサンでした(今は違う人が管理人をしています)

 

その管理人のオジイサンは人懐っこい、話が好きな人で、私を見つけると話しかけてきました

 

その管理人とは前から顔を合わせるとよく話をしていました。彼は私がネコを飼っていることも知っていました。

 

管理人「ネコちゃんは元気」

 

私「実は昨晩、亡くなったんです」

 

管理人「そうなんだ」

 

私「ええ」

 

管理人「で、次はいつ?(飼うの)」

 

 

私はちょっと苦笑いして、その話題をやりすごしました

 

管理人は「ああ、ごめんなさい。私、思った事すぐ口にしちゃうんですよね。ごめんなさい」

 

まあ、こんな会話をしました

 

 

なんてデリカシーのない大人なんだろうな

 

なんて

 

なんていうか、ちょっと軽蔑するな

 

なんて

 

まあ、そういう

 

そういう事を、私は思ったのだろうか?

 

いや、昨晩亡くなったペットの悲しみも癒えない人に、そんなデリカシーのないことを言うなよ

 

まあ、

 

普通に考えればそういう事をね、言っても良いね

 

そう、この「言っても良い」

 

これがね、今日、書きたかったことかな

 

いや、正直私、この管理人のおじいさんのことなんて、どうも思っていない

 

前からデリカシーのない人だなと思っていたし

 

デリカシーのない人だとしても、自分が住んでいるマンションの管理人だし、ゴミ掃除やらなんやらキチンとやってくれる人だし、

 

デリカシーのない人だとしても、人にはだれだって欠点はあるし

 

まあ「ウザイなぁ」と思う事はありますけど、しょせん住人と管理人の関係性なんて、たまに顔を合わせる程度ですからね

 

本当は、なんも思ってない。

 

「ああまたデリカシーの無い事言ってるな」程度の感じです

 

ただ、私、こうも思ったんですよね

 

「いい歳して、私より年上のくせに、常識ないのかよ。ありえんよな」

 

これ、シャーデンフロイデだと思うんですよ

 

私は別に、この人に傷つけられたわけではない

 

ただ、「傷つけられた」と言っても良い立場ではある

 

そして、「世の中には、こういうデリカシーの無い人がいないほうが、良い」という正義感的感情に感情が支配された

 

よって私は、

 

この人に傷つけられたという立場をとることで、世の中に対して「デリカシーの無い事は良くないことです」という持論をふりまいたり、

 

あるいは「へんなオジイサンいたキモイ」みたいなネタとして、自分が被害者的立場を取りながら、発表する権利とネタを得た

 

まあ、そんな感じ

 

その辺のシャーデンフロイデ感がね

 

私は、私がキライ

 

まあ、何しろ

 

大抵の弱者は、本当の弱者ではない。

 

「弱者的に世の中に承認欲求を求めるネタ」を持っているだけの、普通の人

 

ほんと、嫌だわ

 

自分が嫌。こういう凡人的感情を持っている、自分が嫌

 

 

世の中、

 

「自称被害者」が多すぎですね

 

カッコワル

 

自分がそうならないように、気をつけなきゃですね

 

 

 

おしまい

ウソとお芝居と迷惑と猫

「ウソとお芝居と迷惑と猫」のAI画像


「嘘をつかれるのが嫌い」というblogを書いたことがあります

 

これです

saitoukazumasa.hatenablog.com

 

どんなことを書いたのかな~思い出せないな~ということで、読み返してみましたら、

 

なんか「花街の母(はなまちのはは)」なんていう古い演歌まで持ち出していましたw

 

まあ、なんとなく、嘘に対して

  • 信用できなくなる
  • なめんなヨ(私がその程度の嘘が見破れないとでも思ってんの?)
  • 被害者ぶるんじゃねえよ

 

みたいなことが書いてありました

 

まあ、私の信念は、今でもあんまり変わらないかな~

 

今でもやっぱり、嘘をつかれるのが嫌い…ですね~ はい~

 

 

で、 話変わりますけれど

 

先日、お芝居を観に行きました

 

イルカ団、「C.R.E.A.M.!!!!!」

 

 

どんなお芝居だったかというと

 

(ちょっとですがネタバレしますので、以下ご注意ください)

 

いろいろな登場人物が、いろいろな、小さな嘘をついていて

 

その嘘がまあ、絡み合ったり、誤解を産んだりして、ドタバタと、なる

 

そしてまあ、その根底には、

 

「嫌われたくないから、嘘をついた」みたいなものがあって

 

最後には、それらを告白したり、許しあったりする

 

許すことが、愛する事なのかもな

 

許すことが、繋がるということなのかもな、などと思わされたりする

 

 

そういう、面白くて、かわいらしいお話し

 

 

で、私はそのお芝居を見ながら、嘘が嫌いな私は

 

なんとかしてその、「最後は繋がるような嘘」が暴かれて、「嘘をついていた人は不幸になれば良いんだ!」と、思いながら

 

そのお芝居を観て…

 

…いや、そうでもなかった

 

まあ、お芝居だからね

 

最初からすごく面白くて、ハイテンションで、コメディータッチの

 

間違いなく楽しいお芝居だからさ

 

ヒロインは、私が今一番好きな女優さんで

 

そんなお芝居だから、嘘つきが出てきても、許しちゃって、楽しく観ていた…

 

 

…いや、そうでもないな

 

…そうでもない

 

ヒロインは、嘘つきでダラシがなくて、見栄っ張りの彼氏に、嘘をつかれて傷ついて…

 

それでもその、他愛もない嘘を許しあい、最後にはまた手をつなぎ…

 

まあ

 

ええんちゃう?

 

本人同士が「それでいい」って思うなら、ええんちゃう?

 

「あんたね~そんな一時の感情でそんな風に許しちゃって~あの男はまた絶対嘘をつくよ~これからだって同じように見栄を張ったりして~問題起こすに決まってんだよ~だから別れるなら今だよ~」

 

ってね

 

まあ、そんな風に思わなくても

 

人間なんて、人間同士なんて、そんなもんでしょ?

 

ダメな人間と、ダメな人間が、なんか一生懸命にウソをついて、出来もしない約束をしたり、もってもいない力を振りかざしたりして、

 

んでいざウソがバレたら、逃げたりしてね

 

逃げて、置いて行かれた人たちは、すごく迷惑をこうむってね

 

迷惑を、こうむる

 

迷惑ですよ

 

迷惑

 

 

 

 

猫を飼っていた時に

 

あ、話また変わってます

 

猫を飼っていた時に、よく思ったんですね

 

よく、猫の仕事って

 

  寝るのと、かわいいのが、猫の仕事だ!

 

って、言うじゃないですか?

 

あとですね

 

先ほどの「嘘をつかれるのが嫌い」っていうblogを書いたのが、2023年4月のようなんですが

 

その年、2023年の8月に、猫が死んだんです

 

 

腎臓が悪かったので、

 

8月に永眠する、半年…いや一年くらい前から、皮下輸液ってやつで、毎日注射したり、そんなことをやってたんですけどね

 

まあ、最後はダメで

 

一度、ちょっとビックリするくらい吐いて、その後ヨロヨロするようになり、逝っちゃったんですけど

 

迷惑だったかというと

 

いろいろ治療とかね、吐いたら掃除したりね

 

迷惑だったかというと、迷惑だったわけもなく

 

まあ、いままで一緒に居てくれてありがとう。それしかない。感謝しかない。

 

というか、あんまりちゃんとお世話出来るオレじゃなくてすまなかった。いろいろなエサをあげるとかオモチャで遊ぶとか、そういう事をぜんぜんしないオレで申し訳なかったという気持ちが、今でもある

 

寝ると、カワイイしかしなくて、まああとは治療かな

 

「迷惑」っていうのは、なんなんだろうね?

 

 

「ウソ」は俺に「迷惑」をかけるんだけれども

 

「迷惑」っていうのは、まあ「損得」で言うと、「損」なんだろうけれど

 

何が「得」で、何が「損」なのか

 

 

迷惑をかける人間が、近くにいると「損」なのか?

 

猫は、いくらでも迷惑をかけていいから、もっと一緒にいてほしかったよ。俺は

 

 

本当に、わからないですね

 

「損」っていうのは、なんなんだろうか?

 

ただ、自分と、自分の大好きな人たちが、「有利」になるか「不利」になるか

 

その「不利」の予感が、嘘にはあって

 

だから「嘘」が怖いと、単純な学習をしている

 

「不利」かどうかは、解釈次第

 

そんな学習や解釈を、コメディーという形で、ごちゃごちゃにしてスピーディーに浴びせられると、それは作品になっていくんですね

 

 

私は経営者だから

 

単純な「利益」「不利益」で、毎年決算という採点表で裁かれる身ですので

 

「有利」「不利」は単純な公式のほうが良くて、ビジネスなんていう単純なゲームは、無感情な判断の積み重ねで出来れば良さそうなモノですが

 

やっぱり人と人の関係が介在してしまうので、どうしても人の理解やコミュニケーション能力というものを必要としてしまう

 

だから私は

 

「嘘が嫌いだ」なんていっているうちは、一流ではないですね

 

一流の…なんだ?一流の人間にでもなれれば???

 

 

ん?

 

あれ?

 

私は、もし私が一流の「ネコ」になったとしたなら、働かなくても生きていけるのにとでも言おうとしていたのかな?

 

まあ、それはないな

 

ない

 

凡庸だからな

 

凡庸な人間として、あくせく働いたり、利益を求めたり、その過程で人の業を悟ったりしながら

 

ウソを憎みながら

 

人間という「ウソの塊」を憎みながら

 

なにがしかのロマンを紡いでいこうと思います

 

 

いつかそこに、何か、人を魅了する「ストーリー」が産まれたら、いいなぁ

 

いまのところ、

 

まあすくなくとも、私と私の人生の魅力は、

 

 

猫一匹に遠く及ばない

 

 

 

 

なんだこりゃ?

 

 

 

今日はいつになく意味がわからないblogになりました

 

 

おしまい

 

ラクをして儲けたい

ラクをして儲けたい人」の生成AI画像


例によって下書き無し、見直し無し、事前準備無しで書き始めます。誤字脱字見直しもしません。申し訳ない。

 

で、まあ、タイトルですけれど

 

先日ある人たちと飲み会をしておりまして、上記のワードが出て

 

「みんなラクをして儲けたいですよね」

 

という話になりまして

 

なんとなく違和感を覚えたんですよ

 

別に私は、好きこのんで苦労したいと思っているわけでもないし、私の中に根性主義っぽいところは確かにあるんですが、

 

努力は裏切らない。みたいなことを信じているわけでもないですし

 

ラクして儲けたい」と、思うところもあるんですが

 

(う~ん果たして私はそう思っているのかな?)と、思う所もあって

 

違和感を覚えたんです。モヤっとしたというか

 

で、まあよくよく考えてみたんですが

 

私は「勝つ」ことが、どうも好きみたいでして、

 

だからまあ、勝ちたいんですよね。

 

でもまあ、「楽して勝てる」なら、それでもいいわけです。

 

でもでも、「楽して勝った」として、私、その時に、「ああ、楽して勝ったな。楽しかったな」と、思えるかと言うと

 

それよりも、難しい対戦で勝ったほうが、たぶん「楽しかった」と思えると思うんですよね。

 

だからまあ、「ラクして勝っちゃった。楽勝だった。」っていうのは、たぶん「つまらなかった」と言う風に、感じるんじゃないかと。

 

 

となると「ラクして儲ける」の話に戻しますが

 

ラクして儲ける」ってのは、私の「勝つ」の方程式を当てはめると

 

「つまらない」のか…

 

いや、そんなわけない。

 

ラクして儲ける」ってのは、とても難しいわけで

 

ラクして儲ける」っていうのをちょっとだけ堀下げて考えてみたいんですが、

 

まず「ラクして儲ける」っていうのを、「ラクして沢山の金を得る」って言い換えまして、

 

ラクして沢山の金を得る」っていうのは、例えば

 

  1. 金持ちの家に生まれ、何もしなくても金がある
  2. 詐欺や銀行強盗などの犯罪をし、他人の金を盗む、奪う
  3. 宝くじ、ギャンブル、株取引などの不労所得で成功する
  4. 「儲かっている」組織に入社したり、玉の輿になって、ご相伴に預かる
  5. ラクして儲ける」ビジネスを産み出す

 

くらいかな。これくらいでMESEかな?まあまだあるかもだけど

 

で、私は金持ちの家に生まれていないから1は×

犯罪はやりたくないっていう情緒の持ち主だから2は×

ギャンブルは苦手だから3は×

4は…

 

まあみんな考えることは4だと思うんですよ。大抵の人は。

 

で、まあ、私は4はヤダなと

 

なんで4はヤダなと思ったかと言うと、そうだな、それ、書かなきゃダメかな?

 

あんま今その話を書きたくないんで、4が嫌な理由はやめます。

 

なので、「5.「ラクして儲ける」ビジネスを産み出す」になるんですよ

 

で、私は1~4は嫌なんだけど、5なら良いのね。5はやりたいんですよ。

 

なぜなら、「5.「ラクして儲ける」ビジネスを産み出す」は

 

  • とても難しい(ラクして儲かるビジネスはすでに他の権力者に奪われている)
  • 頭脳戦である(ザックリ言うと勝ち負けがある)

 

わけですよね

 

だから、私のような「勝つことが好きだけど、ラクして勝っても面白くない」人間にとって、「ラクして儲けられるようなビジネスを考えること」は、「ラクじゃない」から「とても面白い」わけですね。

 

大脳はとてもサボりたがる臓器らしいんですが、私はどうも、ある面においてはそうでは無いようです。

 

だから私は、考えることが好きだし、考えている人が好きですね。

 

なので

 

先日「みんなラクをして儲けたいですよね」という話題が出た時に

 

この人たちは

 

  •  「何にも考えないでラクをして生きていきたい人たち」なのか
  •  「ラクに設けるというとてつもなく難しい命題にチャレンジしたい人たち」なのか

 

ということが、同時に頭に浮かび、

 

それでモヤっとしたということですね

 

あ、

 

先ほどの4の答えを書いてしまった気がしますが

 

 4.「儲かっている」組織に入社したり、玉の輿になって、ご相伴に預かる

 

みたいな事ばかり考えている人って、どうなんだろうね

 

まあ、嫌いなんだよね。私ね。

 

私は「株式会社ソノリテ」っていう会社の社長なんだけどね

 

そんな私は「ラクして儲ける」ビジネスを追求していきます

 

でもですね、私はその「ラクして儲ける」っていうビジネスモデルを追求するために、すごく頭を使っているつもりです。

 

そんな私に、4.「儲かっている」組織に入社したり~ のタイプの人が、入社してきたり…

 

まあ、そりゃ、人間だれしも、もういう部分があるとは思うけども

 

まあ

 

好きか嫌いかと言えば、どうしたって、嫌いですな

 

ラクしたくない。もっともっと脳を鍛えたい。

 

どうやって脳を鍛えるかというと、「ラクして儲ける」ことを考えることによって、鍛える。

 

これ

 

分かり辛いですかね?

 

まあ自分でも一瞬モヤっとしたくらいだから、分かり辛いかなわははは

 

 

おしまい

 

タイパの先

タイパを重視する人のAI画像


タイパの話が出るたびに、感じてしまうことがあって

 

一定の成果や満足度を得ようとするときに、より「かけた時間」という尺度が重要だということは、まあ当然というか

 

時間は重要な資源ですから、かける資源が少ないほうが、いいに決まっている。

 

そんなもんはまあ、コスパだろうがタイパだろうが、決まりきったことです。

 

タイパって言葉はZ世代の保有物のように言われているのかも知れませんが、でもまあ世の中全体にタイパが重要視されてて、良いんじゃないかと思うんです。

 

で、その先なんですよね。

 

タイパという概念をあらためて定着させた先に何があるのか?

 

いくつか考えられるが、とりあえず2つ。

 

一つ目に思う事は、タイパ重視という概念が、「時間がかかるものを避ける文化が産まれている」のではないか?ということ

 

おなじ成果を上げられるなら、かける時間は短いほうが良い。これはわかる。

 

例えば車を一台作るとして、すべて手作業で組み立てるのと、自動化され高速に動く機械を利用して組み立てるのでは、完成までの時間がぜんぜん違うとする。もちろん手作業より自動化のほうが圧倒的に早いとする。

 

これは良い事(というか、価値のある事)という解釈で、良い

 

が、

 

じゃあ試しに

 

「ここに車一台分の部品と、手で組み立てるための手順書があります。組み立ててみましょう」

 

と、言われたら、どうなのか?どう思うのか?

 

  • 「おもしろそう」と思えるのか?
  • 「タイパが悪すぎる」と思われるのか?

 

この話。

 

まあ、もちろん、論点がズレている。

 

この場合、「車一台をつくる行為」の話をしているのか、「何かを作る面白さ」の話をしているのか、論点ズラシが起こっている。

 

だからまあ、そう思うなら、別に良いんです。

 

良いんですが…

 

前にですね、現役を引退した世代の人が、趣味を始める時に、「そば打ち」が人気で、「うどん」は人気が無い、っていう話を聞いたことがあるんですが

 

それがなぜかというと、「うどん」は比較的簡単で、「そば」は難しいらしい。

 

だから「そば打ち」が人気がある。ということらしいんです。

 

「現役を引退した世代」の中には、「競争して勝つ」という勝ち癖があり、よって「苦労して何かを勝ち取る」とか「難しいことに熱中する」ということに、まあ、慣れている。というのかな

 

たぶんそういう話だと思うんですね。

 

だから私には、タイパの先にあるものの、ちょっと怖いモノの一つとして

 

「苦労して何かを勝ち取る」ということを、タイパの悪いものとして一蹴する というような概念が、あるような気がしてならないんです。

 

どうですかね?

 

老害の説教みたいに聞こえるでしょうか?

 

いや、まあ、そういう風に聞こえるかもしれないけれど

 

私は別に、社会に対してモノを言いたいわけじゃなくて、まあ、世の中はそういう風に変化していくものだからさ

 

例えば私だって、お蕎麦食べたくなったらお蕎麦屋さんに行くか、コンビニでレンチンするソバを買って食べます。わざわざ「そば打ち」しない。

 

だからそういう話をしているのではなくて

 

「タイパ」っていうのは社会の堕落であるわけですよ。そして堕落というのは進化なわけ。当然の事であって、それが理想の社会であるわけ。

 

私が言いたいのは

 

私は経営者なので

 

私はその社会の変化の中で、自分の会社を「金持ち会社」にしたいんです。

 

自分の会社の社員を「成功者」「金持ち」にしてあげたいわけ。

 

だから私には、世の中の「タイパ基調」というのは、「ビジネスチャンス」にしか見えない。

 

みんなは、消費者は「タイパ重視」だから、何かを堪えて我慢して、時間をかけて、産み出すような事が出来ない。

 

なら

 

みんなが出来ないことを、うちの会社が出来るならば、それはオンリーワンのソリューションを産み出す原動力になるわけだ。

 

だから私は

 

私にとって消費者である社会の皆さんは、どうぞタイパ重視でいてください

 

私と一緒に生産者、発明者になろうという皆さん(社員の皆さん)には、解決すべきテーマに対して徹底的にくらいつく粘り強よさや、多方面に対し興味関心をもって探求する探求心など、を求める。

 

言うならばタイパ的には不正解な方向に行動することを求める

 

と、いうような話ですね。

 

まあ、そんなことを感じたりしています。

 

それが一つ目の話でした。


そして、タイパに対して感じる二つ目の事は、「あいた時間で何するの?」ということ

 

タイパ重視。けっこうな事じゃないですか?

 

で、その空いた時間に、何をするの?

 

タイパ重視であけた時間で

 

何をしているの?

 

何をしたいの?

 

って話ですね。

 

これですね~


どうも、タイパの話の中には、そのモチベーションには、「空けた時間でXXがしたいから」という話ではなく

 

「自分の時間を自分の好きなように利用したいから」というようなモチベで語られていることのほうが、多い気がします。

 

そしてですね、意地が悪い私は、さらに突っ込む

 

「自分の時間を自分の好きなように利用したいから」の、「好きなように」とは、なに?

 

そうすると、そのあたりの問いから

 

  • 自分が何に対して価値を感じているのか?

というよりも

 

  • 自分が何に対して反発を感じているのか?

 

という「刷り込み」があることに、気がついてきて欲しいんですよね

 

私は超人志向なので、人間がどうやったら超人的な思考にたどり着けるのか?みたいなことがとても気になるんですけれど

 

タイパという思考が、実は単に「嫌いなこと」を増やしているだけで、「価値のある事」を増やしていないという事が、気になるわけです。

 

人間は、生産したりチャレンジしたりする事よりも、自分が何かを盗まれることを防ぐことに興味が出てしまう。

 

まあ私は、それは凡人の思考だと思うんですが

 

だからですね

 

タイパと言う言葉に敏感な人は、たいてい凡人で

 

凡人に、やりたいこと なんて、ない

 

ただ「自分の時間」というリソースが奪われることが怖いだけ。

 

なんて風に、感じちゃうんですよね。

 

だから

 

問います

 

あなたは「あいた時間で何するの?」

 


前半の問いに対し、纏めます

 

タイパという概念をあらためて定着させた先に、何があるのか?

 

私は、人が「凡人」であることを肯定する、都合のよい進化が、また一つ産まれてしまった

 

なんて感じてます。違いますかね?

 

だから私、「タイパ」って言葉を聞くと、


( ´艸`)


↑この絵文字みたいな感情になります。


おしまい

パーパスステートメントと生成AI

生成AIにパーパスステートメントを考えさせている人の生成AI画像


パソコンで資料をつくって、その資料を投影しながら、それを読むという局面。

 

まあプレゼンなんかの局面。

 

その時に、自分で書いたはずの文章に使っている漢字が、読めなかったりする。

 

どうでしょうか?

 

私は、そういう事、よくあります。

 

私は一般の50代男性にくらべて、漢字が弱いです。まあそういう事も理由ではあります。

 

プレゼン資料っていうのは、いろいろなものを再利用したりしますから、そういう事が起こります。

 

それで、

 

私が例えばプレゼン中に、投影された資料中の漢字が読めなかったりすると、聞いている人が、「あれ?この人、この資料、自分で作ったんじゃないのかな?」と思うんじゃないかな?と感じます。

 

基本的に私は自分のプレゼン内容には全責任をとりますし、人が作った資料を適当にしゃべる、みたいなことはしません。

 

しませんが、漢字は読めないんです。スミマセン。

 

漢字は読めませんでしたが、内容については全責任を、私が取ります。

 

でも、漢字が読めなかった時点で、なんというか、信ぴょう性薄くなりますよね。

 

ほんと、情けない…

 

 

話を変えます。

 

今、会社の評価制度のバージョンアップをしているのですが、その中で、これからは、社員の皆さんにパーパスステートメントを書いてもらおう。という改善を検討しています。

 

パーパスステートメントですね。社会的存在価値とでも言いましょうか

 

私は、このソノリテと言う会社で、こういう仕事をして、社会に貢献し、社会的存在価値を高めるんじゃ!!

 

というようなステートメントを宣言してもらい、それに向かって仕事をしていこうぜ!っていう感じです。

 

まあ今日は、当社の評価制度について、良いとか悪いとか、そういう話をしたいわけじゃないんです。

 

みんなにパーパスステートメントを書いてもらおうと考えています。

 

そうしたら

 

当社の社員の一定数は、生成AIを利用して、自分のパーパスステートメントを書くんじゃないかな~ と、予想しているんです。

 

まあ、その方が、カッコイイ文章が作れるからね。

 

で、自分の考えも、入れやすいんじゃないかな。

 

生成AIに何度も何度もプロンプトをぶち込んで、自分が納得できるパーパスステートメントを作ればいい と 思うんです。

 

ただですね

 

私、ちょっと心配なのは

 

さっきの私の例だったら「漢字が読めない」みたいなね

 

そのパーパスステートメントは、自分がプロンプトをなんどもぶち込んで、生成したもののはずで、だから自分が気に入るまでなんども頑張ったわけで、

 

うーん

 

生成AIに自分の理想や、会社の理念や、まあそういう材料なんかをいろいろと入れて、

 

出来上がったパーパスステートメント

 

うーん

 

やっぱ、ちょっと心配なんですけどね

 

 

まあでも…

 

 

心配って言うのは、アレかもです

 

昔よく、就活シーンなんかで、「履歴書は手書き」みたいなのがあってですね

 

あるいは、謝罪文

 

謝罪文や始末書なんていうのは、手書きで書きやがれ。みたいのがあって

 

そういうのが文章に魂を込めるっていうことなんだと

 

あーヤダヤダそんなん非合理的だなぁ

 

あ、でも齋藤は

 

「自分のパーパスステートメントを生成AIに書かせるなんて、一字一句魂こもってないんじゃない?」って、言ってんじゃないか?

 

わ、ダサッ!!

 

 

うーん

 

 

どうなんでしょう?

 

 

なんとなく思うのは、パーパスステートメントに対してどれくらいコミットしているのかとか?どれくらい自分のステートメントを愛しているのか?とか、どれくらい自分のパーパスに入れこんでいるのかとか、そういう所なんだけれども…

 

 

まあ、

 

 

そういう「行間」みたいなものを、文章の完成度とかそういったところから、読み取ろうとするのが、まあもう古いって事でしょうね

 

 

それは昔の人が、手書きの文章を、キチンと書かれているのか?とか、殴り書きなのか?とか、そういう部分で、その人の性格や、愛や、入れこみ具合を測ろうとしようとして、まあそれが、古いって事で

 

そういう所は、アンラーニングしないとなぁ…

 

 

難しいですね~ 気を付けます

 

 

おしまい

飴ちゃん

飴ちゃんいる? の生成AI画像


よく「大阪のオバちゃんはカバンに飴ちゃんもってて、くれる」って、言うじゃないですか?

 

実際のところは私は知らないのですが、「ありそうな話だなぁ」とは思います。

 

そもそも「飴」じゃなくて「飴ちゃん」って言うのも、関西の文化なのかな?

 

まあ、飴ちゃん。飴ちゃんをくれる。

 

よく考えたら、これ、スゴイ事なんじゃないかな~と思ったんですよね

 

コミュニケーション的に、スゴイ

 

スゴイ文化

 

まあ、まずですね。飴ですよ。飴。飴っていうところがスゴイ。

 

飴、嫌いな人って、そんないないでしょ?

 

しょせん飴ですよ?

 

甘いものが嫌いな人もいるでしょうけれど、しょせん飴ですよ。ちっちゃいもんです。飴くらい、甘いものが嫌いといっても、まあ、毛嫌いするほどのものじゃないです。

 

なんなら後で、子供にあげたっていいわけだし。

 

で、飴って、個包装されているじゃないですか?

 

個包装されている食べ物の中で、たぶん、最小じゃないですかね?

 

個包装されているから、シェアしやすい。人にあげやすい。

 

潔癖症な人でも、個包装されているから、安心。

 

消費期限も、長い。

 

それと、安い。

 

飴一粒くらいだったら、すごく安い。すごく安いから、あげやすいし、もらいやすい。

 

ほら、すごいでしょう?

 

基本、糖だから、脳に快感情を与えるし、

 

飴は固いから、カバンの中で変形したりしないし

 

冷やしたり温めたりしなくても美味しいし

 

美味しいと言ってもめっちゃ美味しい主張があるわけじゃないから、食事の前とかそういう事を気にしなくていいし

 

すごい

 

すごいんじゃないかな飴ちゃんって

 

飴って基本的に袋で買うじゃないですか?

 

袋の中に、まあ、普通に考えたら一人で全部食べたら飽きるよね~っていうくらいの数が、入っているじゃないですか?

 

だからシェアしたくなりますよね?

 

人にあげたくなりますよね?

 

ほらほら、コミュニケーションを誘発してくるわけですよ。

 

一人じゃ食べきれないほどの量を買って、それをあげる。

 

もらうほうも、まあ別に飴ちゃんくらいなら、気にせずもらえる。

 

別にすぐ食べなくても良いし、なんなら別の誰かにあげたっていい。そんな気にしなくていいんですよ。飴ちゃんだもの。

 

で、まあ普通に考えたら、飴ちゃんもらったら「ありがとう」くらいは言いますよね?

 

スゴイ

 

「ありがとう」が出ちゃうんですよ?

 

みなさん人に「ありがとう」って言われたりしてます?

 

飴ちゃん一袋持ってれば、それ出来るんですよ?

 

んで自分も飴ちゃんもらったりして、カバンの中にちょっとした飴アソート状態が出来たりして

 

飴アソート状態こそが自分の交友関係の広さのバロメーターだったりして

 

すげえ

 

すげえぞ飴ちゃん!!

 

 

やー

 

 

なんか出来ないかな?

 

飴ちゃんっていうアプリ作ったら売れるかな?売れないか?

 

 

以上、飴ちゃんってすごくない?っていうお話でした。この話にオチはありません。

 

おしまい

理解を深める 解像度が上がる

ランボー潜入監視シーンの生成AI画像


例によって思いつくままに、誤字など直さない感じで書きます。

 

最近思うんですけれど、当社の社員さん達と話すときに、よく

 

  • XXの解像度が高まりました
  • まだYYに関しては解像度が低いです

 

みたいな言い方をされるときがあって、最近はそういう言い方をするのだな~、あ、最近じゃなくて結構前からですよ~、とか

 

そんなことを思うのですが

 

「理解が深まった」みたいなことが「よくわかるようになった」→「よく見えるようになった」→「解像度が上がった」って事だと思うんです

 

誰かが言い出したのかな?出所わかんないですけど

 

「理解が深まった」って言うより「解像度が上がった」って言ったほうが、なんとなくカッコイイですね。なんとなくですけど。

 

だから最近私も使うようになりました。「解像度が上がった~」

 

で、

 

なんでこういう表現が出てくるのかな~と思ってですね

 

だって「理解が深まった」で、いいじゃん?なんでわざわざ「解像度が上がった」なんて言うのか?

 

まあこういうのは、様々な、小さい理由の集合だと思うんですけれど

 

私が着目したいのは、

 

 「理解が深まった」

 

より

 

 「解像度が上がった」

 

のほうが、自分が対象より遠くに居る気がするんですよね。なんとなく

 

「理解が深まった」という言葉からくる私の心象風景は、なんとなく

 

目の前にいる対象について、ずっと理解できなかったことが、理解できるようになったというか、もうちょっというと「理解しあえるようになった」とか「より対象の中に入っていけるようになった」というのかな?

 

「深まった」というところがポイントだと思うんですよ。「深まる」というからには、中に入っていくとか、深い所に沈んでいくとか、そういう感じ。

 

コアに近づいていく。とか、核心に触れる。というニュアンス

 

さらに言うと

 

よりディープな世界に入っていくのならば、というか、そのためには、というか

 

なんとなく「ここから先は後戻りできないよ」とか「ここから先は覚悟しなよ」みたいなモノに近づいていくフィーリング

 

そういうモノを、感じるんですよね「理解を深める」という言葉には

 

ところが「解像度を上げる」には、それを感じないところがあるというか

 

「深める」よりも比較的遠くから、自分の位置や、対象との距離感はあまり変えず、より高度なレンズを使ったり、より多くの情報を収集することで、対象に対する理解を高めるといった感じ

 

私の心象風景的には、「理解が深まった」と「解像度が上がった」には、この違いがある。

 

感覚的に似ていると、私が思う事で言うと

 

「敵陣に乗り込んで、人質を救出する」

 

みたいな時に

 

ランボーみたいな感じで、潜入し、奮闘する感じというのが、「理解を深める」で

 

ドローンを飛ばして敵陣内に催眠ガスを充満させて、無血で結果を出す、そんな感じというのが「解像度が上がる」

 

 

そういう感じ

 

 

どうでしょうね?

 

 

どっちがいいとかそういう事ではないと思うんですが、みなさんが「理解を深める」というより「解像度が上がる」という言葉のほうがしっくり来ているとするなら

 

まあやっぱり世の中ドローンですよね。ランボーとかやり方古いです。って感じでしょうね。

 

例えば、感度の高い思春期や青年期を、コロナでずっと在宅で過ごした人たちなんかは、どうなんでしょうか?

 

やっぱり解像度のほうがしっくりくるんでしょうけれど

 

でも心の中には、ランボー的に深めたい何かが潜んでいたりして

 

そんなことも、あるんか、ないんか…

 

とまあ

 

 

ちょっと「解像度が上がる」という言葉に対して、理解を深めてみましたw

 

 

おしまい