私はだらしがない

私は、だらしがないんです。


約束を忘れる。メモを取らない。メモを取ったとしてもメモが見つからない。


机の上が汚い。汚い上に何がどこにあるか覚えていられない。たまに片付けでも、またすぐに汚くなってしまう。


何かを途中まで進めて、途中で飽きてしまう。買った本を読まない。読んでも途中で飽きてしまう。


物を駄目にしてしまう。物を丁寧に扱えない。借りた本を汚してしまう。

 

まあ、何しろいろいろ、ある。 私はだらしがない。

 

 

でも、だらしがない という性格にも、利点はあります。

 

 

だから私は、だらしがない性格のままで居ようと思っています。

 

 

先にも書きましたが、私はメモを取らないです。

 

人間の脳というものは、自分にとって大切な物事は、深層心理が分別して、必ず覚えているそうです。

逆に言えば自分にとって大切じゃないことは、メモをとらなければ覚えていられない。


だから私は、ほとんどメモをとらない・・・です。


でもだからといって、約束したことを、自分には「重要ではないから」といって忘れて良いワケはないですよね?


例えば誰かに「明日マンガを貸して」と言われて、「良いよ」と答えて、翌日になってすっかり忘れている。なんてことしょっちゅうで、かつ、それは例えば私にとって「その人にマンガを貸す事」が、あまり重要に思えていなかったから忘れているわけですが、でもそれで相手はガッカリするわけです。


普通そういう「だらしがない」人は、

 

   ダメ!

 

ですよね?


でも私は、だらしがない性格のままで居ようって思ってます


利点があるからです


例えば「だらしがなくない人」というのは、

 

 ・「マンガを貸してくれ」と言われたら、ちゃんと記憶したり、メモをとって、きっちり、貸す

 

でも、例えば

 

 ・「マンガを返してくれ」と言って、ちゃんと返してくれなかったら、ストレス


なんじゃないかな?


だから、「だらしがなくない人」にとって、「マンガを貸す」ということは、ある種のストレスをもったタスクなんじゃないかと思います。


ある種のストレスとは

 

 ・マンガをきちんと持って来よう

 ・マンガが返されなかったら嫌だなぁ


と、いう事ですが、他にも、もしかしたら

 

 ・そのマンガが傷んでいないか、先にチェックしておこうかな?

 ・カバーを汚されたら嫌だから、代わりのカバーを付けておこうかな?


とか、そういう、「気を使う」と、いうことがありますよね


「気を使う」というのは、とても良い事です。


でも「気を使う」というのは文字通り「気を使う」のですから、疲れます。


疲れる=というストレスなわけです。

 

でも、私のようなだらしのない人にとって「本を貸して」「いいよ」ってのは何のストレスでもありません。


翌日になって「あ、忘れた、ごめーーーん!」なんて言っていますが、それも口先で謝ってはいますが、また、すぐ忘れる。だから翌日も持ってこないwww


まあ酷い人間です


マンガを貸すくらいの話だと良いですが、さすがに仕事だとそうも言ってばっかり
いられないので


じゃあどうするかと言えば、


答えは簡単で、「そんな私をサポートしてくれる仲間」と、仕事をしたいわけですね。


 ・私はノーストレスで、いろいろな約束事などをする

 ・それを実行するのは、信頼のおける仲間たち


これが、いちばん良いわけです

 

なんだかご都合主義の、お気楽な人間のように思いますでしょうか?


私も、そう思いますwww

 

 

一応、言い訳をしますと

 


私は、会社の総責任者なんですね。

 

代表取締役で、社長なわけで、かつ、筆頭株主です。

 

ですから当社の行う事すべてに対して、私は、全ての責任を背負っています。


こればっかりは、誰にも背負わせることの出来ない、逃げ場のない、責任です。

 

責任だけではなく、会社が破産すれば私も破産します。一連托生です。

 

だから私は、「自分にとって、一番大切な事」に、集中する必要があるのですね?

 

 

だって 私=会社 ですから。

 


私のような「だらしがない」人間でも、「自分にとって大切な事」は深層心理がかならず覚えさせてくれています


というかむしろそれは、会社経営者にとって

 

  忘れられなくて寝られないくらいの大きなストレスです(苦笑)

 

そんな私は、代表であるがゆえに、「だらしがなく」生きたい。


「会社と一蓮托生である自分が、本当に大切だと思う事」に集中するために、多くの
タスクに対しては、だらしがなく接したい。

 

そしてそのタスク達については、仲間たちがキチンとサポートしてくれる、チームであり会社になっており、私はその仲間たちに感謝を惜しまない。

 

これが私の理想とする、私の「だらしない」経営なんです

 

 

追:

ソノリテとお取引をさせていただいている皆様、斯様なことで、私はだらしがない人間ですが、当社はしっかりした社員が揃っておりますので、どうか御贔屓に

 

 

追2:

そんなだらしのない私ですから、当blogにおける誤字脱字なども酷いもので、いつも醜聞ご迷惑をおかけしております

「攻めてるな~」「攻めてなきゃいけないのかな~」

最近よく、「攻めてるな~」って言うんですよね。私も。


なんとなく、誰かが面白い事をやっていたり、ちょっとエッジな感じを出していたりすると、「攻めてるな~」って思うし、そう言います。


実は昨日、

 

ある社内会議で、誰かがポツリと、「攻めてるな~って言うけど、攻めてなきゃいけないのかなぁ」というような意味の事を、言ったんですよね。


(・・・そういわれると、確かにそうだなぁ)


と、その時は思ったものの、何か上手い返答を会議でしたわけでもなく、ただなんとなくその言葉が頭に残っていて、一晩、頭の中で整理していたんですけれど

 

「攻めている」について、二つの解釈があるんじゃないかなと、思ったんですよね

 

解釈1

「攻めている」が、オフェンス(攻撃)と、ディフェンス(防御)の、オフェンスを意味する場合


ディフェンスって言うモノの重要性について、「攻めだけじゃなく、護りも重要」ですからね、「攻めてなきゃいけないのかな~」の意味は


例えば


 「比較的、攻めは派手で、眼を惹くが、護りも重要なんですよ」


と、解釈出来るので、


う~んその通り

 

護り、重要です。うんうん。

 


解釈2

「攻めている」が、突破している(変化している)と、動かない(じっとしている、何もしていない)の、突破しているを意味する場合


これはもう、「突破する」という意味において、ブレイクスルー思考でいて欲しいわけですから、現状に佇まず、突破思考をもってもらいたいわけです。


 「現状にあまんじて立ち止まらず、攻めろ」


と、こう、言いたい。

 

 

つまり解釈によって、「攻めてなきゃいけないのかな~」に対する回答は、違うなぁという事に、気が付きました。

 

 

ちょっと複合した例を言うとですね。

 

例えばサッカーで、相手方が攻めてきていて、自陣のキーパーと、相手方のフォワードの、ちょうど真ん中に、ボールが落ちてきたとします。


キーパーが、とっさに判断


自陣のゴールがガラ空きになるのを承知で、キーパーはボールに向かってダッシュ、相手のフォワードがボールに辿り着くより早く、すんでのところでそのボールをクリアして、自陣のピンチを救う


そんな光景を思い浮かべてもらえると、

 

ディフェンスであるキーパー、よく判断したな! って思えるわけですよね。


それをまあ、こう言いたいです「キーパー攻めてるなぁ!」って。

 

 

また、別に「なんでもカンでも攻めりゃ派手、攻めりゃカッコイイ」って話でもないですね。


ディフェンス陣までみんなが、ボールをゴールしようとして攻め込むようなサッカーをしたら、ふつう、グダグダです。

 

ただ


「おれはディフェンスなんで、相手が攻めてきたら護るのが仕事、それ以外は俺の仕事じゃない。」などと、決めつけている選手がいたら、きっとそのチームは、良いパフォーマンスが出ないし、ミラクルなプレイも起り辛いでしょう。

 

攻め思考は


 ・チャンスに貪欲

 ・常識に対して破壊的

 ・恐れを、知らない

 

などといった、思考形態をさすのではないかと考えます。

 

でもですね、例えば良い意味での逆発想を言えば


 ・リスクに敏感

 ・論理的に判断

 ・感情で、動かない


などといった、「良さ」があるわけですから、そういった「反攻め思考」は、素晴らしい。

 

熟練してくると、そのあたり(無邪気な攻めと、理性的な護り)の複合が、技の魅力や個性となってくるのだと思います。

 

 

それとは違う所で、悪い意味で、「攻めてない」思考方法は


 ・自分で自分の枠を決めてしまい、そこから出ない

 ・頭を使わない、判断しない

 ・事なかれ主義


なのだと思いますね。それはあまり、人生を楽しんでいるスタンスとは言えないのではないかと思います。

 

以上、「攻めてなきゃいけないのかな~」に対して、私が思った事、でした。

ALS Ice Bucket Challenge 冬版

本日、2015年1月30日。天気予報通り、東京も雪になりました。


ここで、かねて自分内懸案でありました、ALS Ice Bucket Challenge 冬版 を行いました


動画これです


20150130 ALS Ice Buket Challenge 2 - YouTube


夏に行いました時は、いわゆるバトンを受け取りまして、いわば正式に行いまして、
日本ALS教会に寄付もさせていただきました。


その時のblogはこれ

ALS Ice Bucket Challenge 自論」


ALS Ice Bucket Challenge 自論|共鳴指向で設計する

 

が、まあ今回のは、ぶっちゃけ遊びです。

 

夏にALS Ice Bucket Challengeが流行して、角界のセレブやタレントなども次々と、氷水バケツを被っていたときに、こんな風評を聞いたんですね。


「こいつら、今は夏だから楽しいだろうけど、冬にリレーが回ってきたら、やれんのかね?」


誰ともなしに、そういうシニカルな目線を注いでいる人もいて、それは別に個々人の考え方だから、誰がどういう考えを持とうが、良しだと思うのですが


私がいかに、バカな人間か、という事なんですけれど


「やれんのかね?」と言われたら、やりたくなっちゃうわけです。


だから、「冬に、雪が降ったらバケツの水をかぶろう」と決めてまして、やりました。

 

むしろ「冬にやれんのかね?」と問われて、「じゃあ雪が降ったらやってやろう」と発案し、ワクワクするわけなんですね。

 

撮影などで協力してくれた社員の皆さん。ありがとう。
(「心臓の準備運動大丈夫ですか?」とか「やっぱりこっそりお湯にしますか?」とか、心配してくれて嬉しかったです)

 

何と言うのかな。私はバカがしたいんですよね。

 

バカ、にも色々あると思うんですが、例えば若さのエネルギーの中には、不適切な行為(暴力、覚せい剤など)を行いたいというような、バカもあって、それはやはり、絶対に良くないわけですが


かといって「真面目」に生きるだけというのは、人生を味気のないものにしてしまうのではないかと、思ったりします。


だから色々と、バカを考えて、バカを、“上手く”やると、元気がでる。

 

「祭り」なんて同じようなものかなぁと思います

 

バカを、“上手く”やるというのがポイントなんですよね。バカだからこそ、下品ではなく、上品に、やる。

 

バカは「不謹慎」「不真面目」「不適当」など、ご指摘をいただきます。そうです。その通りです。それわかってますが


でも自分で考える自分のバランス感覚と、超えちゃいけないラインに関して哲学と美学をもって、私はいろいろなバカをやっていきたいな。と思います。

 

理由は、バカは楽しいから。


それが何か、当社の社員や関係者に、何らかの共鳴を与えることに繋がらないかな。などとも、思ってます。

 

みなさん、私と一緒にバカをやりませんか?

事務的

「事務」をwikipediaで引くと「主に役所や会社などの場で、書類の作成や整理などを行う作業全般と、これを専門に行う職業」と、あります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99

 

また「事務作業」や「事務局」というと、どうも一般的なニュアンスとして、「主体的な意思決定や製造」などではなく「付帯的な作業」を行う仕事と捉えられます。

 

では

 

「事務的」というと、どのようなニュアンスが含まれるかと言うと、「非主体的な作業的」というような事になります。

「非主体的」を主たる要因として、「主体者からの指示、マニュアルに絶対的」というような作業という印象を内包します。


 「あの人の対応は事務的だ」


という言葉には、


 ・応用が利かない
 ・血が通っていない、冷たい、ドライ
 ・つまらなそう


などといった意味を含みます。

 

「事務」は、誰かがやらなければいけない仕事、です。(この事務を、人間の代わりにコンピューターにやらせるように
するのが、我々IT屋の仕事なのですが)


そして「主体者」から、「やらなければならない仕事」を剥がし、主体者には主体的な事だけやらせるようにして、主体者の生産性や能力を高めるのが、「事務」を独立した業務にする主たる理由です。


例えばタレントは、タレントとして何かに出演したり、自分の魅力を磨くために努力することが、主体的な仕事です。

スケジュール管理や、契約事などの「事務作業」は、誰かにやってもらえば、タレントがタレントらしい仕事に集中することが出来ますから、「事務屋」が必要ですね。


「事務屋」は「主体者」を成功に導く為、その役割を担う


のですが


なぜか、「事務的」という話になると、先に言ったような「応用が利かない」などのニュアンスに変化していきます。

 

 

ここで、「主体的作業優先」「事務作業優先」という言葉を定義してみたいのですね


 1)主体的作業優先:タレントを生かすために、事務担当が頑張る というようなイメージ

 2)事務作業優先:事務作業を指示通り全うするため、応用がなく、冷たく、つまらなそう


後者については、例えば「事務的な窓口対応」などと言えばわかりやすいでしょう。
ある種の業務をやっている会社では、例えば一定量の事務処理を限られた時間で行わなければならないため、応用や血の通った対応をする余地がなく、対応が「事務的」になる。


また、ある種の業務をやっている会社では、法令に完全準拠した対応をする必要があり、顧客の都合などを重要視する必要もなく、事務的である必要がある。


パスポートセンターで写真を撮りますよね。あの写真って、眼鏡を外させられたり、おでこを出さされたりしますね。

そこでは個人が「こういう風に写真を撮って欲しい」などといった応用がありえず、ただただ事務的に指示され、写真を撮られる。そういう事務が「事務作業優先」。

写真を撮る側の人だって、まあ、特に「楽しい仕事」というわけではないでしょう。でも、誰かがやらなければいけない仕事だし、勝手に応用した写真を撮っていい仕事ではない。

 

この、「事務作業優先」において、おそらく「事務的」な作業が行われる。

 

これはまあ、必然ですね。

 

で、


あってはならないのが

 

 「主体的作業優先」であるべき事務作業を、「事務作業優先」で行ってしまう、事です。


主体性(例:タレント)を生かすために事務を引き受けている人間が、「事務的」に仕事を行ってしまうと、むしろ「主体者」の能力が落ちます。

 

例えば

 ・主体者は、毎週末の17時までに、事務員に対し、利用した交通費を提出する。
 ・事務員は、毎週末17時までに提出された交通費に対し事務作業を行い、交通費を支払う。


こういう、主体者と事務員の関係があったとします。

ここで、ある週、主体者の交通費提出が、17時30分になったとします。
主体者の、交通費提出が遅れた理由は、特命の仕事に急きょ対応する必要があったからだ、と、します。
かつ主体者がその週利用した交通費がとても高額で、交通費が定刻に支払われないと、困る。とします。
その主体者は普段から素行、業務態度等、優れているとします。


さて、

 ・「事務的」に、「定刻を過ぎたので交通費申請は来週分として対応します」と、するか
 ・「いつもご苦労さまです。特命の件社長から聞いています。本件対応します」と、するか


だいたいの方が、「事務的であるべきではない」と、感じるのではないでしょうか?


なぜなら、「事務的」に対応することによって、「主体者」のモチベーションが落ちてしまう可能性があるから ですね

 


ところが

 

事務は、それが「主体的作業優先」であるべきにも関わらず、「事務作業優先」的に、つまり「事務的」になってしまう、ケースが多くあります。


なぜか


それは

 

 「事務が、すごく大変な仕事」

 

だからなんだと、私は思います。


もともと「事務」は、「主体者から剥がすと、主体者の生産性があがること」を、やります。


つまり「めんどくさい」もの それが事務です。


大量の計算、法令遵守、突合せ、整理、一円単位の確認、チェック、チェック、チェック


そういうモノを、「締め切りまでに」やらなければならない。そしてそれは毎日、毎週、毎月、毎年、同じことを、やり続ける。


「事務は、大変」なんです。


そりゃあ、「非人間的」にも なります


タレントが頑張れるために、マネージャーが事務作業を一手に引き受けることが出来るのは、そこに「目的の一致」「達成感」「タレントへの愛」などが含まれるからですね。


普通の会社の普通の「事務方」が、自社の主体者(社員)に対し事務作業を引き受けたとしても、感謝もなければ、目的の一致もない・・・場合が多いでしょうから


事務員は「事務的」に、事務をこなしていくマシーンになりやすい

 

 


これが「事務的」の正体だと、私は思います。


皆さんの会社には、「事務的」に仕事をしている人が、いませんか? それはとても悲しいことで、会社全体の社風や、生産性に、ものすごく影響を与える、残念な事態であると、私は思います。

傲岸不遜

あけましておめでとうございます


株式会社ソノリテ。仕事始めに毎年の恒例行事である書初めをしました。

 

私が本年、書きました四字熟語は、これです

 

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「傲岸不遜」


傲慢で、相手を見下した態度を示す四字熟語です。


いわゆる「上から目線」っていうヤツです。


(ちなみに昨年はこれ「没分暁漢」)


没分暁漢|共鳴指向で設計する

 


 「傲」は傲慢の傲

 「岸」は、いわゆるエッジ

 「不遜」は、へりくだることをしないの意


「高い位置でおごり、へりくだらない」


大変に態度の悪い人のことですね。危ないです。


私は今年、こうなろうと思います。


極めてリスキーですね。普通じゃないです。

 

「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」


人の上に立つものは、謙虚にならなければいけない。奢ってはいけない。


「驕れる者は久しからず」奢り高ぶれば破滅します。

 

 

そうです。そんなこと、誰だって知っています。

 

 

ほんとうか?

 


あるいは

 


それって、安全サイドに倒して、攻めてないんじゃないか?

 


人は人に、強く自分の意見を言うのが苦手である。その「言えない自分」を肯定するときに都合の良い慣用句として「謙虚になれ」を駄用していないか?


そういう問いです

 


私は、今年も、攻めます

 

 ・リスクを恐れず攻める人であり続けたい


 ・世の「常識的意見」に対し常に懐疑的に振舞いたい

 

そういう意味を込めて、「傲岸不遜」を心に置き、攻める一年を過ごしたいと思っております。


関係各位には今年も迷惑をかけ続ける所存です。どうぞよろしくお願いいたします。

顧客満足と規則

私は今、業務用や個人用に、いくつかの場所に駐車場を借りているのですが、

 

今日はその中の一つの駐車場で起きた話を書きます。


まあ、私が悪いっていう話なのですが・・・w


都内で借りている地下立体駐車場なんですが、駐車場の操作盤に専用のカギを差し込むと、通常は二階部分に駐車されている私の車が、一階部分に降りてきて出庫でるという方式の駐車場なんです。

 

とうぜん入庫するときも、カギを差し込んで、自分の駐車パレットを降ろさないと、駐車できないという仕組み。


で、私がやっちゃったのが、ある休日、その駐車場の操作盤にカギを差し込んだまま、出かけちゃったんですね。


出かけた先で気が付いたのですが、駐車場の管理人や、オーナー会社に電話しても、休日なので電話に出ないんです。

(一応休日と夜間の代理電話受付があるのでそちらに連絡もしたのですが、受付だけはするけど、何も対応出来ないただの電話番会社なんです)


その日のうちに駐車場に戻ったのですが、操作盤にもうカギは刺さっていなかったんです。


カギがないと車を駐車場に入れられないので、車は仕方なく、近所のコインパーキングに駐車しました。

 

負落とし物として届いていないか、警察署に電話したり、私の勘違いで例えば車の中に駐車場キーを落としていないか探したりして、(誰か悪い人にカギを取られたのではないかと不安な思いのまま)その日は過ごしました。

 

で、翌日(平日)

管理人と連絡が取れたので、聞いてみたら


「カギは預かっている」

「カギが差し込みっぱなしだと警報がなるので、休日だったが自分(管理人)がカギを取りに行った」

「カギと駐車場契約者リストから、誰がカギの持ち主かはわかるのだが、自分(管理人)は利用者に連絡するという事は出来ない規則になっているので、連絡が来るのを待っていた」

「休日も電話には出なくていいという規則になっている」


とのこと


・・・せめて(管理人が預かっているとかそういう)張り紙でもしてくれていたら良いのに~と思いましたが、その実直な管理人の態度を見ていると、そんなことコイツに言っても無駄だと感じられました。

 

なんかこう、管理人の事務的な対応に、ムシャクシャしました(悪いのは自分なんですけどね)

 

 


話変わります

 

アメリカの航空会社の実話です。

 

これは「顧客満足」の好例題としてMBAのケースワークでよく取り上げられる話題です(詳細は私の記憶違いもあるかも知れないので、細かな部分事実と異なるかも知れませんが、あくまでも例として趣旨ご理解の上読んでください)

 

ある飛行場のチケット売り場。


ある老夫婦が、朝から「キャンセル待ち」のチケットが出ることを待っていた。


混雑する時期で、ほとんどの飛行機が満席、たまにキャンセルが出ても、抽選に外れたり、価格的に手が出なかったりで、老夫婦はずっと飛行機に乗れずにいた。


その様子を見た、航空会社の地上勤務職員が、老夫婦に声をかけた


「どうなさいましたか?」

「XXXに住んでいる息子が倒れたと聞いたので、朝急いで空港に来たんですが、キャンセルも出ず、お金もあまりないので、困っているんです」


その地上勤務職員はすぐあらゆる関係部署に連絡を取り、老夫婦をエコノミーの値段で、ファーストクラスのリザーブシートに乗せる手配をした。

 

こういう話。

 

ヒーロー性を重視する、米国っぽい美談ですね。

 

反面シニカルにみると「他のキャンセル待ちの人や、正規の値段でファーストクラスに乗っている人に、不平等じゃないか!」なんて感じる人もいるでしょう。

 

 

 

規則っていうのは、何かに対して最適化された、いわば法律です。破ると、最適化が壊れます。


「影響範囲」というものがあります。


規則を破れば、何かに影響が出ます。その影響をすべて理解して仕事をすることは困難だと考えられますから、最適化された規則に則って仕事をしていれば、安定した品質が出せます。


例えば先の、駐車場の例でいえば


管理人が規則を破って、カギの操作盤に「カギを忘れた方、こちらに連絡ください 090-xxx」などと、張り紙をしていたら、どんな悪影響があったでしょう?
(何か悪い人がその張り紙をみたら、悪い事、例えば車ドロボウなどを、考え付くかも知れませんね)


ですから管理人は、目の前の顧客(私の事)の顧客満足度を下げるような対応しか、出来なかったんです。影響範囲がわからないから、規則に従うしかない。


この対応は、言うなれば、


 顧客満足 < 規則


ですね。

 

 

では逆に、航空機の例ですが


地上勤務職員は、なぜ、規則を破り、他のお客様からすれば「不公平」とも取れる対応をとったのでしょうか?


この地上勤務職員は、おそらく、自分が規則を破ったとした時(エコノミーの値段で、空席待ちに当選してもいない人を、ファーストに乗せる)の、「影響範囲」をすべて見通せていたのだと思います。


だから


 顧客満足 > 規則


が、出来た


さらにさらに、言うと


こういう対応をしたら、もしかしたら「あの会社は不公平だ!」などと、一般の人々から批判的クレームが集まる可能性だってありますね?


だからこの職員は、方々に連絡を取り、おそらくその全ての回答が「OK」だったのだと思うんです。

 

したがって


 顧客満足 > 規則


という「社風」があったと、僕は考えるんですね。


先の「駐車場」の場合、きっとオーナー会社が、「 顧客満足 < 規則 」 な社風なんじゃないかって思うんです。

 


日本の会社って、やっぱり


 顧客満足 < 規則


まだまだ、多いです。

 

 従業員満足 < 規則


だって、そうだし

 

もしかしたら現在、日本全体の「国風」が、そうなのかも、しれませんね?

 

規則を破って、失敗したヤツを、吊し上げる「国風」

 


改めますが、

 

規則っていうのは、何かに対して最適化された法律です。


この法律を、「誰かの満足の為に、壊す」となれば、そうとうな勇気と、それを支援する風土が必要です。


さらに、


そもそも「ビジネス」の主体が、「規則従属性」を強く必要とするものなのか?「例外柔軟性」を必要とするものなのか?によって、「規則を壊す風土の必要性」は異なるでしょう

 

私は、ソノリテと言う会社を


 「規則従属性」 よりも 「例外柔軟性」 に強い会社にしていきたい と、考えています。

 

なぜならば当社の経営哲学が「共鳴」だからです。

 

ソノリテとは「共鳴」を表すフランス語


お客様の心と共鳴したその先に、我々がやるべきこと、は


我々側の規則をお客様に押し付ける事では、無いはずです

「ゲームが好き」

当社ソノリテでは、代表取締役である私が、採用活動の先陣を切ります。


つまり採用候補者、採用希望者とは、新卒でも転職でも、まず私が合います。私が合ってから、(必要が生じたら)他の社員に合ってもらいます。


合ってもらう社員は私が(候補者と相談して)決めます。


それは何故か(なぜ他社のように人事などが一時面談した後、経営者が最終面談をするような方法をとらないのか?)・・・については、機会があれば別途書きますが


今日は、採用の局面で、最近の20代の人とお話をしていて、感じていることを書きます。


最近の20代の人は、ほぼ、必ず


「好きなものは何ですか?」と問うと、必ず好きな物の中に「ゲーム」が含まれます。


ですから採用の為にお話し(当社では面談という言葉は使いません)をしている時

 

 齋:「好きなものは何ですか?」

 若:「ゲームです」

 

という会話に、よく成ります。


世代的に、それが当たり前なんだと思います。

 


かく言う私は、昭和42年産まれの47歳(平成26年12月現在)


初代ファミコンは昭和58年に産まれたようなので、私が16歳の年ですね。


ですから私だって、学生時代、ファミコンをやっています。ただ、小中学生の頃には、ゲーム機はありませんでした。

インベーダーゲームが流行したのが・・・中学生くらいだったかな)


子供の頃の日常の楽しみは・・・ゲームというよりは、テレビ(テレビアニメやお笑い番組など)でしたね。


だから私は・・・もっぱら「テレビっ子」という世代なんでしょうかね


で、そんな僕から見ると、今の20代以下は、言うなれば皆「ゲームっ子」


「ゲームっ子」の文化としては、小学生の頃からゲームボーイなどの携帯ゲーム機で遊んだり、友達の家でプレステなどの家庭用ゲーム機で遊ぶのが基本的な姿なんじゃないかと思いますから


好きな物の中に「ゲーム」があるのは、当たり前ですよね


私自体はゲームをそれほどやりませんが、ゲーム文化を否定するような気持ちもありません。


だから、今時世代の好きなものが「ゲーム」なのは、良いんです。だって私自身にとっての「テレビ」なんじゃないかな?って思うから。

 

でも私、ちょっと、違和感があるのが・・・


「好きな物は何ですか?」と聞いて、「ゲーム」と答えるのって


なんというか


「好きな食べ物は何ですか?」と聞かれて、「美味しいもの」と答えるのに、近いなって、感じがするんですよね


ゲームの凄い所って、大抵の人が、楽しめるように出来ているところですよね?


 ・時間をかければ、プレイヤーが成長して、強くなるようになっていたり

 ・適切なタイミングで、イベントや謎解きが組み込まれていたり

 ・入門、中級、上級モードが選べたり


「楽しさ」をとことん突き詰めていて、かつ、あまり肉体的な優劣がかかわらないようなコントロールで、脳のみを刺激していくもの。ですよね。


いっちゃえば、ゲームって楽しいにきまってる(いやそりゃもちろん、クソゲーも、いっぱいあるでしょうが)


だから私は、

 「好きな物は何ですか?」「ゲーム」

 「なぜゲームが好きなの?」「楽しいから」


という問答には、何の価値も見いだせないなぁと思うんですよね。

 

ではここで


なぜここで、「好きな物」の話をしているか?という事に、そもそも戻って考えたいのですが


考えるためにちょっと思考実験


皆さん、初めてであった異性(好みのタイプ)と、初めてお話しする時のことを想像してください。


「XXさんは、何が好き?」


って、聞きますよね?


この時、なぜ「好きな物」を聞くのか?というと、たぶん理由はいくつかあって


 ・同じものが好きだったら、仲良くなりやすいかもしれない

 ・自分が嫌いなものを相手が好きだったら、仲良くなれないかもしれない

 ・好きなものがわかれば、楽しいデートや、喜ばれるプレゼントを考えやすい


という、表層上の理由と


 ・その人の、趣味嗜好から、その人の性格を理解する(理解したい)


という深層上の理由があると思うのですね


(読書が好きなんだ。けっこう難しい本を読んでいるらしい。私より頭がいいかな?)

(スポーツが好きなんだ。外交的なのかな?自分は内向的だから、性格があわないかな?)


などと、「好きな物」を聞いてから、相手の性格を推測したりすると思うんです。


それに、


人間って面白いなぁと思うのですが、


 例えば、音楽のXXXというジャンルが好き だとか

 例えば、画家のXXXという人の描く絵が好き だとか

 例えば、アンティーク食器メーカーXXXが好き だとか

 

そういう「好き」っていうのは、その人の個性、特に外面的に「こういう文化圏に属したい」という欲求項目であったりするわけですよね。


洋服、ファッションと同じだと思うんです。言うなれば自分を着飾るもの。


ですから「何が好き?」という質問には、「その人の深層を知りたい」という要求もあれば、「これが好き」と答える側にも、「私と言う人間は、こういう美学を持っています」というような、主張が欲しいんです。

 

私は男性ですので、異性として、女性の例を出させてもらいますと


私が女性に、「何が好き」と聞いて、その女性が「吉○家の牛丼が好き!」と、言ったとしましょう。


私はこの女性が「牛丼が好物である」という表層上の情報を得たというよりも、この女性は「親しみやすい、気さくな性格である」というような、深層の情報を得た、と考えますね。

 

ここで整理


 「好きな物」には


  ・楽しさ、嬉しさ、などの好感情をもたらしてくれるもの

  ・なりたい自分を演出するためのツール


の、2種類があります。

 

したがって、「好きな物」を聞いている人には


  ・対象が、好感情をいだくもの

  ・対象が、自己表現したい分野


の2種を同時に、あるいはどちらかを、知りたいという目的があります。


ということを考えたうえで、例えば「ゲーム」が対象に対し、好感情をもたらすものであるなどという事は、基本的に既知の事実であるわけですから、


誰かとシンクロしたい、あるいは自己表現したいと考えている場合、自分の数多ある「好きな物」の中から、


 ・自分が成りたい分野に対して自己表現として適切な物


を選ぶべきであって

 

それにゲームという選択が適切かどうかを、判断してくれると良いのではないかと思います。