対話

「オープンダイアログ」という精神疾患に対する方法論を知ったんです。

project.nikkeibp.co.jp

 

で、まあ何を感じたかと言うと

 

やっぱ「対話」なんだなと

 

人間にとっての「薬」の一つに、「対話」があるんだよな…

 

 

いや

 

もしかしたら「薬」じゃなくて「ごはん」かも…

 

 

昨日、こういうニュースがあって

news.yahoo.co.jp

 

私たちは、もっと「人間」というものを知らなければ

 

そして「対話」というものを知らなければ

 

こういう不幸は、続くのではないかと、考えてしまう。

 

いつもこういうニュースがあったときに

 

「同じことを繰り返さないように、社会全体で、この問題を考えていきたい」

 

などと、ニュースは締めくくりますが

 

誰も考えていない

 

誰もは、いいすぎかな

 

でも、そんな感触があって

 

「対話」の反対に「孤独」があるとすると

 

人はついつい、「傷つきたくない」とか「考えたくない」とか「楽がしたい」とかいう感情の先に「孤独」を求めがちで

 

でもそれは「対話」の拒否でもあって

 

「対話の拒否」が、様々な不幸を産み出す源泉でもあるわけですが

 

とはいえ逆に、「対話(というか未熟な会話、のほうがいいかな)」が産み出す様々な不幸 というものもあって、

 

例えば「いじめ」なんていうのもそれなわけですが

 

「いじめ」みたいなものの原点にあるのが「異質の排除」だったりすると

 

もういいかげん「異質の排除」を悪とすることは、だいぶ「常識」になってはきたけれど

 

とはいえ「人間」は利己的であってもよくて、それが正解とは言わないけど、利己的であることを「悪」とはまだ言い切れない世の中なんだけれども

 

「異質を排除」することの意味は「利己」、というか「自己の防衛」「集団の防衛」だから、

 

そういう気持ちを飛び越えて、「対話」するということは

 

かなり利害関係の少ない間柄でしか、実行できないような気がするんですよね

 

あるいはかなり徳が高い、悟りレベルが神クラスの人でないと、利害関係のある間柄で、「対話」が出来るとは、思いにくい

 

まあその話題を抜きにしても、「対話」が行える人というのは、

 

知的な意味で、様々な能力の高さが必要なわけだ。

 

よく「やさしい人」とか「自由な人」というのが、対話相手としては適しているような誤解をしがちだけど

 

それは「利害関係において損を受けることを許しているやさしさ」か「利害関係をもとうとしない放任的自由」なわけだから

 

本質的に、違う

 

それは「犠牲」または「無関心」だから、違う。

 

「対話」が行える人、かつ「対話」による恩恵をうけるべき人と言うのが、定義される必要があり

 

その一つは「医者」だと思うんですが

 

知的な意味で、様々な能力の高さをもつ「医者」が、「孤独」に対して「(オープンダイアログのような)対話」を、先のような不幸な事件がおこらない世の中になるよう、十分な数、行えるようになる という社会 は

 

考えにくい

 

で、私はIT屋であるので

 

IT、あるいは AIが

 

何か出来ないか

 

まあ、とりあえずそんなことを思っていたりするんですが

 

ところが、私はどちらかというと、ITは「孤独」を作り出す方に、加担していると考えていますので

 

もう少しオルタナティブなアプローチで、脳を使わないとな…

 

 

 

こういう 話題の

 

 

対話相手が欲しいですね~

 

 

 

おしまい