合理的な判断などレベルの低い課題しか解決できない

最近そんな気がしてならない

 

つまり「合理的な判断」ということであるが

 

私の中には合理性ということばがすごく強いもの・美しいもの・正解・といった種類の分類として存在していて

 

合理性 イコール 最強

 

みたいな感じであって

 

合理的な事が正解だし、合理性がなければ物事は完結しないし、合理的じゃないことはやるべきではない

 

何を判断するにも、何を決断するにも、基本は合理性

 

あるいは論破

 

誰かが誰かを論破するというのは、そのルールとは、どちらが合理的であるかということであって

 

つまり合理的に考えることが出来る人が強い。

 

そんなことは当たり前で

 

みんなが合理性を求めているし、合理的な判断に従うし、合理的なモノには負けを認めるのであると

 

つまり自分が最強になりたければ、合理的な思考回路を徹底的に磨き上げればよし

 

まあ

 

そんな風に考えて生きてきた気がするんですよね。疑うことなしにね

 

ところが

 

いや、ほんとうに「疑うことなしに」生きて来たんで、実はずっとそうだったのかも知れなくて、私が一人で「勘違い」していたのかもしれないんですけれど

 

合理的に考えていい事なんて、合理的な判断が適切だとされる事なんて、すごく

 

すごーーーく

 

小さい事しか無いんじゃないか? という気が、してきたんですよね

 

違いますかね?

 

というか、そんなの当たり前ですかね?

 

何しろ私は、合理的じゃないとオカシイと思ってきたし、人間は何を考えなきゃいけないのかと言えば、合理的な事を考えなきゃいけないのだと思ってきたし

 

いや、もう

 

本当に私は、すごく落ち込んでいるんです

 

私は、合理的に説明がつくことがすべて、「正解」とまではまあ言わないけれど、「美しい」と思っているわけですね

 

だからですね

 

「甘いもの」を食べたいと思っている人が、飴をナメる

 

これは合理的だと思っているし

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人が、飴をナメる

 

これは、非合理的だと思っている

 

ダメですかね?

 

良いですよね?

 

これが「普通」だと思っていました。

 

非合理的な事が、悪いことだと言っているわけではないんです。

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人が、飴をナメることが、悪い事だと言っているわけではなくて

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人は、飴をナメない

 

という事が、美しい正解だ と 思っていたんですよ。

 

いや、今でも思っている。

 

でも、それは間違いなんですよね

 

飴くらいだったら、合理的に考えても良いんだと思うんですよね。

 

じゃあまあ、例えばですけれど

 

 やさしい 人は 戦争を しない

 

は、合理的ですかね?

 

合理的 かも 知れない

 

じゃあ少し変えて

 

 戦争 を する 人は やさしくない

 

は、どうでしょうか?

 

これも 合理的 かも 知れない

 

あれ、この思考例は良くないかな?

 

帰納法とか演繹法の話をしたいんじゃないんですよ

 

どちらかというと、「合理性の説得力」の話がしたいんですね

 

私は「合理性」は、すごいパワーを持つものだと思っていたんですが

 

どうも、どちらかというと「合理性」は、人に嫌われるモノなんじゃないかと気が付いた というのかな…

 

 合理的な 私は 強い人

 

だと思っていたんですが、

 

どうやら

 

 合理的な 私は 嫌われ者

 

の方が、

 

わりとリアリティのある感情論なのかな という気がしています。

 

なぜならば

 

世の中はとても不合理であり、それが世の中だから

 

不合理に対し最適化された性格のほうが、重宝されるし、人気者である。

 

世の中の不合理を、なんとかして生き抜く。迎合するわけではなく、調和するように

 

それが、人気者である

 

それが、「やさしさ」 である

 

私は、自分の正義に対して整合性のあるものについて、それらを許可し、不整合なモノを、憎み

 

それは単なる「正論」でしかなく

 

おそらく「愛」が、無い

 

私は私自身が「愛のない人間」であることは、うすうす気が付いていたんですが

 

その根幹が「合理性」であることに、まったく気が付いていなかった

 

私は「合理」の世界において、正しい

 

そしてその正しさには、愛がない

 

「合理性」などは、「合理的判断」などは、きわめて小さな、小さな、そういう界面でしか機能しない

 

人は合理性では動かない

 

私は間違えている

 

それに気が付いて、ショックを受けている。2023年師走です。

 

私は間違えている。この認知が、来年の私を変えるのだろうか?

 

うーん

 

これはちょっと時間が、かかるぞ。

 

そんな気がしています

 

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人が、飴をナメることが 生きるということだ

 

そんな風に、思える日が、私に来るのだろうか

 

 

 

 

おしまい