「仕事」とか「マジメ」とか「モチベーション」とか、指導、哲学

「仕事なんだからマジメにやれ!」という定型文があって、

 

まあ、多くの良識人にとって、おおむね合意な定型文なわけですが

 

ではなぜ「仕事」は「マジメ」にやらなければいけないか?と問われると

 

例えば「お金をもらっているんだから」と、言うのが、一般回答なのではないかと思うのですね。


まあコレが、いわゆるサラリーマンなわけですよね。あるいは公務員でも良いけれど、ようするにサラリーを貰っている人。

 

例えばこれが、自分の作品を売っているようなアーティストだったりすれば、そんな下らない会話は無いわけです。

 

そういう人は、 売れなければお金が貰えない。このシンプルなルールに従っているだけ。

 

お金を貰うために、努力するならすればいいし、マジメにやりたければ、やればいいわけです。別に誰の責任でもない。

 


でも現代、多くの人は、サラリーマン的に生きていると思うんですよね。その方が安全だし、効率が良いから。

 

その「サラリーマン的に生きる」と言うのが、「就職」だったり、「会社で働く」ってことだったり、するわけです。

 

「会社で働けば」サラリーが貰えるわけですね。

 

そしてその「会社」で、遅刻やら、居眠りやら、サボっていたら言われるわけです

 

「仕事なんだからマジメにやれ!」って

 


サラリーマンだって、アーティストだって、何かをして、お金を得ることは、仕事、です。

 

だから「仕事なんだからマジメにやれ!」は、本質的には、おかしい。しっくりこない。

 

例えばあるアーティストが、悪ふざけで作った作品が、凄く売れたとする。そんな事って、いくらでもある。

 

ではなぜ、

 

 「仕事なんだからマジメにやれ!」

 

が、正解なのか?


それはきっと、「会社」というものの大部分が、チームワークで仕事をすることで、スケールメリットを出そうとする、組織、だからですよね。

 


例えばみんなで、大きな船に乗っている。とする。

 

船といっても、みんなでオールを漕いで、前に進む、人力(じんりき)の船だと、する。


小さなボートで個人で移動するよりも、大きな船をみんなで漕いで移動した方が、何かと安全だし、効率もいい。大きな船なら、高波があっても、大丈夫


だから皆で、大きな船を漕ごう!


誰かがサボっている


「おい!真面目に漕げ!!!」

 

 

まあ、そういう事ですよね?

 

会社はチーム。このチームは一蓮托生。オレが頑張っているのに、お前がサボるのは許せない。

 

 だからマジメにやれ!!!


これが組織人の本質、ではないでしょうかね?

 

 

だとすると

 

「このボートを漕がないならこの船に乗る資格は無い(だからマジメに漕げ)」

 

と、似たような事を言いたい、言いたいのを

 

「お金をもらっているんだから(マジメにやれ)」

 

と言うのは、僕はちょっと、違うように思うんです。

 

 

 

ちょっとだけ話題を変えます

 

「(仕事の)モチベーションが上がりません」

 

これも、良く聞きます。

 

「なんだか仕事へのモチベーションが上がりません」と、ある社員が言ったら、先輩や、同僚が


「そうか、例えば現在の仕事の目標をこういう風に考えて、少しずつ成果を上げて行けば良いんじゃないか?」

 

とか

 

「人間関係に悩んでいるのか?じゃあ、あの人はこういう性格だから、コミュニケーションをこういう風に、とれば良いんじゃないか?」

 

とか


まあ、そういうアドバイスを、しますよね?

 

でも私、


最近なんだか、世の中の人すべて、「モチベーション」って言う言葉を、簡単に使い過ぎなんじゃないかなって、思うようになってきました。

 

そしてその、「モチベーション」ってやつが、何と言うか、イイワケめいていると言うのか、あと、「モチベーション」ってさも、人からもらえる自分の権利・・・社会や会社が用意する必須条件・・・みたいな・・・

 

先の船の話でいうと

 

 「ちょっと、オールを漕ぐモチベーションを失ってしまいました」

 

と、誰かが言ったら

 

 「バカ野郎、じゃあ今すぐ船から降りろ」

 

と言われるのが、普通、なんじゃないか


お金やサラリーの話でいい変えると、

 

もし本当に仕事へのモチベーションを失ったのなら、もう、自分からすぐ船を降りる、つまり会社を辞めるべきなんじゃないかと、僕は思うんです。

 

(いやもちろん、例えば人が減って行けばその船は前に進まないんだから、仲間たちへの責任感として、モチベーションなんて下らないものがあろうとなかろうと、オールを漕ぎ続けるべきだと、僕は思いますけれど。)

 

 

 たぶん、船に乗っている実感が無い

 

 たぶん、働くことによって対価を得ているという実感が無い

 

 たぶん、社会に生きるために何がしかの責任を背負っている実感が無い

 

 

実感が無いから

 

「モチベーション」程度のキーワードが、重要なように思えてしまうし、モチベーションが上がらなければ、役割を果たす必要などないと考えてしまう。

 

さらに、そのモチベーションを誰かが与えてくれるのを待つ・・・

 

これがとても気持ちが悪い


 ・何に対してもやる気が出ません。僕はどう生きたら良いでしょうか?


こんなにも気持ちの悪い質問が、当たり前のように会話される

 

これらはなんというか、「実感の無さ」を起因にしているのではないかと思います。

 

 

なぜ実感が無いか?

 


それは「効率的な世の中」、だからですよね。

 

例えば私だって、鶏肉を食べるときにニワトリをサバくなんてことしませんし、お米を
食べるためにタンボを耕すようなことをしません。

 

だから私だって、尊い生命をイタダいているという実感なく鶏肉を食べていますし、
農家のご苦労に対する実感なく、米を残したり捨てたりします。申し訳ないですが、
そうです。

 

それが効率的な世の中

 

つまり世の中は、どんどん様々な「実感」が持てなくなるように進化する。

 

会社やサラリーマンという生き方も、とても効率的。だから実感は持てない。

 

だから皆さん、仕事に対してもこう思う


 ・なぜ仕事はマジメにしなければいけないのだろう?

 ・なぜモチベーションを感じられない仕事をしなければいけないのだろう?


「仕事=生きる事」という実感は、この効率的な世の中において、もう、絶対に持てない。

 

 

だから

 

私たちは「効率的な世界が提示するルール」に従って、「実感はもてないが役割はある」ことを自分で承認し、実感の無さに対して自分で理屈を作ったり、自分を奮い立たせたり、自分に催眠をかけたりして、生きる必要がある。

 

のだと、僕は思います。

 

例えば私も、生活の為に仕事をしているという実感は、あまりありません。
(経営者なのでサラリーマンよりは遙かに大きなリスクを背負っていますが)

 

どちらかというと、反骨精神などをモチベーションとして、生きていますし、働いて
います。

 

つまりそういう、「理屈付け」によって、仕事というお金貰いゲームに対する、生き様を自分で定義して、それを成功体験に変え、快感を得る努力をしている。

 

のだと、自分で思います。

 

 

・・・ちょっと唐突ですが、これ以上長文を書いてもクドイような気がしてきたので、クロージングに入ります。

 

私も経営者ですので、色々な人の仕事に対する悩みを聞いたりしますし、それなりの指導をします。


 ・なぜ仕事は仕事だからマジメにやらなければいけないと言われるのか

 ・なぜ自分はモチベーションが上がらない仕事をしなければならないのか

 ・自分はなぜ働いているのか


こういう人が、回りにいたら


これらの悩みに対して

 

 ・仕事なんだからマジメにやれ

 ・お金貰っているんだからチャンとやれ

 ・モチベーションが下がっている原因はなに?その原因の対処はこうだよ


といった指導をするのは、指導する側の人間として、思慮が足りないと思います。

 

指導には、ポイントが2つあると思うのです。


 ポイント1)なぜ働くのか、実感の持てる回答はない。自分なりの哲学を持て

 ポイント2)働かないなら、船から降りろ

 

どうですか?共感できますでしょうか?

遠慮に隠される

最近苦しんでいる問題の一つに、「遠慮」というモノがあって・・・

 

つまり私は経営者で、株式会社ソノリテを、良い会社にしたいわけです。

 

そして良い会社にするために、社員の意見を聞き、良いものを取り入れ、磨き、実現していきたい。

 

ちょっと綺麗ごとっぽい言い方をしますが

 

 「社員を愛するソノリテにしたい」んですね。

 

私にとって、それが「良い会社」なんです。

 

当社「株式会社ソノリテ」は、経営理念にも謳っていますが、お客様の為の会社~ではありません(ここ重要)

 

社員の成長を考えて意思決定をする会社なんです。

 

 「社員を愛する」

 

と、書きました。

 

じゃあ? 「愛」ってなんだ?

 

そこですが、ちょっと宇宙刑事ギャバン的な問題提起になりますが

 

 「愛ってなんだ?」


社員にとって、楽ちんで、給料が良くって、怠けても文句を言われなくて、

 

そういう、甘えられる組織

 

もちろんそうじゃないです。

 

「愛ってなんだ?」


私はそこに「成長」を置きました。


弊社の経営理念の全文は、こうです

 

「私たちソノリテは、すべての行動を通して、社員が成長することを第一に考え、意思決定をしてゆく会社です。」

ソノリテの理念・戦略 - 株式会社ソノリテ


人が人を愛するには、様々な形があります

 

私たちはビジネスシーンにおいて、成長することを目的として、愛を形成する。それが私の理想であり、弊社の理念です。

 

言うなれば愛し方です。

 

大変おこがましい、考えかも知れないですね。会社如きが、人を成長させるなどと、

 

まあそこで、私は日々、色々と悩んでいる。苦しんでいる。

 

その一つが、「遠慮」です。

 

うちの社員、けっこう「良い人」が多いです。

 

みんな、遠慮します。

 

遠慮することは、美しいし、遠慮することは、立派だなと、私も思います。

 

が、しかし、遠慮が過ぎると

 

まあ簡単に言えば、何を考えているのかわからない。ということになる。

 

例えば、

 

 「リンゴ、食べますか?」

 「いえ、いりません」

 

そう言われたら、「あれ?リンゴ嫌いなのかな?」と思いますけれど、でも実は、遠慮だったりする。

 

同じことで

 

 「職場に問題ありませんか?」

 「問題ありません」

 

これも、遠慮があると、現実が把握しづらくなる。

 

だからまあ、こう言いますよね?

 

 「遠慮しなくて良いから、言ってごらん?」


さて、ここからです

 

実は、人に問題や課題、あるいは自分の思っている本音などをお話しすることは、とても大変です。

 

場合によりそれは「交渉」や「責任」なども伴いますし、さまざまな「リスク」があります。

 

そもそも人は、現状を維持することで安定した毎日を送りたがる生物であり、変化を好みません。

 

さらに言えば「変化のトリガー」になろうとしません。

 

だから、基本的に何かを変化させるような発言を求められても、


 我慢 することで 遠慮 をし 問題のトリガー になろうとしない


という思考パターンに陥る、場合がある。


私の知る限り、それは


 「良い人」


と、言われる人たちの中に、存在するのですね・・・


だから


 「遠慮しなくて良いから、言ってごらん?」


なんて、薄っぺらい言葉だけで、そのような精神的防壁が崩せようもなく、問題は顕在化しない。

 

悩ましい問題です。でも闘っていきます。


なぜ闘うか、それが私の、そしてソノリテの「共鳴精神」だからでしょう。


言うなれば、良い人には、少し悪い人になってもらって、遠慮をしない人になってもらって、自我を開放してもらいたい。


その次の段階として、それを全員の課題と考えて、全員が自我の違いを尊重しつつ、組織にプラスな変化をもたらせたい。

 

それがきっと、成長なんだと思うんですね。

 

そしてそのような関係性が出来たら、それを「愛」と呼んでも良い様に思うんです。


難しいですかね・・・


ああ、難しいなぁ・・・


とりあえず私は、本当に・・・「とりあえず」なレベルですけれど

 

様々なチャネルを使って「社員の本音」に辿り着くような手段を、これからもやって行こうと思っています。


そしてそこには責任と、問題を背負う覚悟がいると思うんです。

 

でもそれが私が成長する必然に結びつき、私と当社の経営理念の結晶となるわけです

世間

最近、「世間(せけん)」という存在が、気になっているんです

 

「世間が許さない」とか「世間知らず」とか

 

おそらく「社会」みたいなものと、近いのだと思うのですが、この「世間」というのが、結構、恐いっていうのがある。

 

恐い


「世間の常識」とか、超恐い です


例えば僕はヒゲを生やしているのですが、会社員だったころは良く「サラリーマンはヒゲをそれ」と言われました。

 

それが世間の常識だからですね。

 

サラリーマンなのにヒゲを生やしたいなんて、世間知らずと言われちゃう。

 

今でもあると思うんです。先輩から、こういう事を言われる会社、けっこうあるんじゃないですか?

 

  「社会人ならヒゲをソレ」

  「ピアスするな」

  「髪を染めるな」

 

理由は「それが世間の常識だから」


まあ、「常識」などの概念を、いかに自分の人生に取り込むか、あるいは社風に取り込むかは、人それぞれ、会社それぞれですので、

 

私は「ヒゲ、ピアス、髪染めなど」を批判する人を批判したいわけじゃなくて

 

ここで言いたいのは、「世間」ってヤツに、我々翻弄されちゃう事があるんじゃないかな?それって恐いな、って話なんです

 

どういう話かと言うと


 例えば後輩が、髪の毛を染めて会社に来た

 Aさんはそれが不愉快でたまらない


と、した時に


Aさんは「後輩が髪を染めたこと」とか「髪の色」が、気に入らないから、不愉快になったのでは、なくて

 

Aさんは「後輩が世間の常識に反する事をしたこと」が、不愉快だ

 

と、いう事なんです。これが、恐い。


これ、なんなんでしょうね?


例えば僕は、刺青(いれずみ)をしている人を、なんとも思わないんですけれども、

 

でも「世間」では刺青は、あまり良い印象を与えない、良い物ではないものと定義されているから、

 

ぼくもうっかりすると、「刺青を入れるのは良くない!」って、思ってしまう。

 

「世間の常識を逸脱した行為をすると、不利益を蒙る場合が多いから、その不利益に
対して不快感が生じる」とか、そうじゃないんですよ

 

生理的に、直感的に、不快感が生じるときがある

 

それがとても恐いです

 


電車の中で、大声で騒いでいる、学生などが居たとします

 

その時私は、たぶん不快になるんですけれど

 

 >本当にそいつらがウルサイから、その騒音が許せないのか

 >電車の中に「世間の常識に倣っていないヤツがいる」事に許せないのか

 

ちょっとわかんない時が、ありますね


なんなんでしょうね? 恐くないですか? 私はすごく恐い

 


私たちソノリテは、B2B系の事業をしています。ですので、大企業の企業文化や社風に、よりそっています

 

そんな私たちですから、やはりお客様から

 

 ・男性の長髪、髪染め、ヒゲなど禁止


と、言われることは、多いです

 


・・・でもさあ

 

こんだけグローバルグローバル言っている時代にさあ、髪の毛金髪の日本人いたらダメなの?

 

ヒゲだってさ、国によって解釈が違うわけだしさ・・・


ようするに人を見た目で判断するなよ


って、思うんですね


思うんでね


思うんで、お客様にも、言うんです


「どうして長髪、髪染め、ヒゲ禁止なんですか?」


最初お客さんは怒ります


「そんなの非常識だ!俺はそういうチャラチャラしてるのは嫌いだ!」


でも、よくよくお話をすると、

 

「いや、本当は俺自身はそんなに嫌いじゃないんだ。ただなあ・・・・」

 


ただ?

 

ただ、なんなんだ?

 

  な ん な ん だ ?


たぶんこれが「世間が許さない」ってヤツなんじゃないかな?

 

 

みんな、世間を気にして生きています。

 

それは、ぼくは良いんだと思います。


問題は「世間と自分の意見の境界線が曖昧になってはいませんか?」ってところなんですよね。


この話って恐くないですか?

 

最近気になっている、社内での1シーン


 主人公1:先輩上司。世間の常識を部下に叩き込みたい

 主人公2:後輩。上手く世間に合わせられない


この衝突。よく、やりあっています

 

衝突自体は良いんです。どんどんやってほしい。どんどんやっていく中で、双方に何かを掴んだり、何かが成長してくれれば、いい


ところが私、ちょっと気になっているのが、この二名の感情の交流が


 先輩<------>後輩

 

という、衝突になっていなくて

 

 先輩<--->世間の目<--->後輩


と、なっていないかな?ということ


これだともしかしたら、感情の交流にならず、ルールの押し付け合いにしかならないから、成長しないかも知れないなぁ・・・

 

恐い恐い


いろいろと、恐いです。

Make My Day制度、実施から一年

弊社株式会社ソノリテには、「Make My Day制度(略してMMD制度)」というのが有ります


ソノリテのMake My Day制度について

sonorite.co.jp


「何をやっても良い日」なんです


「業務以外の事をやる日」を月一回儲け、社員のクリエイティビティなどを触発していくことを目的に、企画を半年程度社内で議論したうえで、一年前にスタートしました。


自社の事を褒めるのもおこがましいですが、この制度、僕は、素晴らしい制度だと
思っています。



現実って、なかなか、難しい


やはり業務に追われ、皆、MMDを実施できない人が多い。


そこには強い意志や、お客様や周囲の理解、文化の定着が必要なのですね。そういったいわば煩わしさを乗り越えてまで、自分の時間を創る・・・というのは大変な事です。我儘に思えてしまう事もあるでしょう。

 

社員同士協力しながら、どうやってMMDの時間を創るのか、考えてほしいのですが、それも、難題なのでしょう。


あるいは、正直、ガッカリするような実施内容しか、報告できない人たちもいて、


そうですね全ての人に高度なクリエイティビティを期待しているのではないのですが、しかしなんというか、MMDの理念として、なんからの「楽しむ、楽しませる」
あるいは「情緒の成長や感性の向上」などといった物があると思うのですが
(だからMake My Dayなわけだし)、

なんというか、ダラダラと休日を過ごしました・・・というのと、あまり変わらない内容だったりすると(もちろん制度上それで良いのですが)、こう、「人生のある1日を有意義に過ごしてほしい」という事に、なってないかな・・・というのがある。


でもこれ、僕は仕方がない事だって思うんです。


例えばね、自分はバリバリと仕事をやってきた、そういう風に仕事一筋で生きた来た、とする。

 

そんな自分がですね、ある日「仕事以外の事をやれ」と言われたら、「え?」って
成ると思うんです。なったっていいんです。

 

でもですね、私はそういう「え?」から、何か、変化していってほしいんですね。

 

だからスタート地点はそれでいい。でも時間が出来たんだから、何か見つけよう。何か自分を、仕事以外で工場させようっていう、アイデアなどを考える時間を、楽しんでもらいたい。

 

まあまあ、「考えるは易し行うは難し」です。


新制度、いろいろあります


いろいろありますが、絶対に止めません。続けます。

 

この制度は私がソノリテという会社に対しての願い、そのものだからです。

 

 会社は社員から搾取する機構ではないはずです

 当社の理念は「社員の成長」です。


    だから、Make My Day なんです

 

そんな中、

 

今回凄い作品が、MMDから産まれまして、私は驚愕すると共に、本当に嬉しくて

 

 「ああ、MMD制度、未来あるな!」

 

って、感じたんですね


これなんです

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「なんか怖いサイト」ですよね?


これ、何かというと・・・・


弊社のK君が、仲間を何人か集めて、MMD制度にて、社内にサプライズ、ジャック
サイトを作って、皆を驚かせたんです!
(社内サイトなので一般の方はご覧になれません。悪しからず)


K君が主役(彼はバットマンのジョーカーに扮しています)で、その扮装はコスプレが趣味の社員がバックアップして、撮影などにも色々な社員が協力し、


このトップサイトだけではわかりませんが、このサイトの中にいろいろなコンテンツがあって、社内の人々やコンテンツを、愛あるディスリでパロっていて、とても面白い。


社内で大反響!


本当に素晴らしいと思っています

 

 1)クリエイティビティが見事に発揮されているし

 2)人を楽しませたいっていう気持ちも溢れているし

 3)「皆も何かやろうぜ!」っていう気持ちが伝わってくる

 

やはり行動するって素晴らしい、何かを創る。創って表現するって素晴らしいなと思います。


今回はこの、社内におきたサプライズがとても嬉しくて、それを紹介したくて、エントリーをしました。


プライズと言えば、私の誕生日には、社員の皆さんがこんなこともしてくれましたねw

www.youtube.com

 

本当に僕は、自分の会社ですが・・・株式会社ソノリテ、最高だって思ってます!!


当社は、B2B系のSE企業のくせに

 

 1)会社私服 OK

 2)長髪、金髪、ヒゲ OK

 3)社内でタメぐち


そんな会社です


時代はついてきてくれていません。色々なお取引先から

「長髪、私服、金髪・・・NG」って言われます


仕方ありませんから、合わせられるところは、あわせていきますが・・・・


時代は変わっていくのではなく、変えていくのは我々だと思っています。旧世代の常識には、批判的創造の見地から「Why?」を投げかけて行きたい。


MMDも、これからもずっと、お客様の理解を求めていきます。


従順なだけのSEが必要な時代が、これからもずっと続いていくとしたら、日本は破滅するとしか思えない、すくなくとも私はそう考えています。


だからMMD制度、これからももっともっと盛り立てて、必ず定着させ、成功させます。


だって・・・株式会社ソノリテ、最高だし、もっともっと最高にしたいって思ってますから!!

つむな!

言葉は大事だな~と凄く思うんですね

 

「言霊(ことだま)」と言いますが、私、やはり「言語化する」「発話する」事によって、何かが起きると思うんです。だから本当に、言葉は大事。

 

とくに、ネガティブな感情を言葉にするということ、それはとても問題で、大事に

考えなければならない事柄だと、私は思います。


例えば、何かの人や、モノに対して


 (なんとなく、嫌だなぁ・・・)


と、心の中で、思っているのなら、まだ、良いのですが


 「嫌だ」


と、声に出してしまったら、その時点で、全てが確定するような気がするんです。

 

思っているだけなのと、声に出して言うのでは、レベルが全然違う。

 

声に出した瞬間に

 

 「私は、Aが嫌いという人間であることを、コミットする」

 

と、心がFixするのだと思うのですね。

 

Fixをすると、後に戻れなくなります。

 

Fixをした途端に、自分のアイデンティティであるかのような、定義づけになるんですよね。


人間は、自分の過去の定義づけに対して、なかなか裏切れないので、これは、厄介な問題なんです。


最初は例えば、軽い気持ちで

 

 ・私は人参が嫌いだ
 ・私はXXXな人が嫌いだ
 ・私はXX国の人間が嫌いだ

 

などと、発話したとして、

 

でもそれは発話したことによって、発話した時の自分を裏切ることが難しくなるので、外付けのアイデンディディになってしまう。

 

もしかしたら、例えば過去に「嫌いだ」と決めつけてしまった人と、和解したり、理解し合えるチャンスなども、捨て去ってしまう「定義」「主義」になってしまう。

 

だから、本当に、(嫌だ)と思っても「嫌だ」と発話することは、出来るだけしないほうが良いと、私は思うのです。

(逆に(好きだ)という感情は「好きだ」と沢山発話した方が良いわけですが)

 

で、「嫌だ」以外で、私が最近気になっている言葉が、以下です


 つんだ


これ、最近の若い人、よく言います。


私この言葉、大嫌いです(ここでは嫌いとハッキリ言い切るw)


 つんだ

 終わった

 死んだ

 限界だ

 HPが切れた


等々


簡単に諦めの言葉を発話する


状況を良く聞くと、俺からすれば、全然つんでない

 

なんだよまだあの手もこの手があるじゃん!お前の力ってそんなレベルじゃないだろ?まだまだやれるだろ?ガッツ見せろよ!自分の可能性を信じろよ!粘れよ!成功に執着しろよ!

 

そう思いますが、簡単に言いますね「つんだ」


たぶん甘えの心理現象なのだと思うのですね。

 

ココでいう「甘え」自体は、私は否定しないんです。「甘え」や「人に迷惑をかけること」自体は、私は問題ないと思っているんです


でも

 

 「あーつんだわーもう無理だわー」

 

と、自虐的な言葉を使って、人に助けを求める・・・

 

そこには思考停止があるんです。そこが嫌いです。


何に思考停止しているかというと、現実には「つんだ」のではなく


 ・自分の過去の経験では、解法が見いだせない

 ・面白味を感じず、解いていく熱量が続かない

 ・解くプロセスで不快感情をもたらす行為が必要となるので、逃げたい


などなどの、自分の感情に向き合う事をせず、安直に「つんだ」と言う言葉で,

さも終わりの定義をしてしまい、哲学をしない。ここが嫌いなんです。

 

 「あーつんだわーもう無理だわー」

 

ではなく

 

 「あーなぜ自分には答えを導き出す熱量が生まれないんだろうー」

 「あーなぜ自分には答えを見出す引き出しが無いように思えるのだろうー」

 

など、もう一歩その、あきらめの感情がどこから発生するかを追及することと、「終わり」の言葉を使わない事・・・を、してほしいわけです

 


 か ん た ん に あ き ら め る な !

 


って、よく言われますよね?

 

それって、どういう事かと言うと


 か ん た ん に あ き ら め の 言 葉 を 発 話 す る な !


って事だと、私は思います。


 ・簡単に、「嫌い」などの、不快感情の言葉を、発話しない

 ・簡単に、「つんだ」などの、思考停止の言葉を、発話しない

 

この二つについて、心がけると、人生が成長と愛の方面に展開していくはずだと、私は思います。

人を不快な気持ちにさせたくないという気持ちと、人を嫌うという気持ち

(今回、駄文長文で、支離滅裂ですが、そのまま載せます。多様性組織の実践者として、その混乱をそのまま伝えた方がいいかなと・・・)

 

さて、余談から入ります。

 

たしかオーストラリアだったと思うのですが(記憶不確実)、

 

「お風呂でシャワーを浴びながらオシッコをしましょう」という公共CMが流れる国があって、

 

理由は水不足な国だからなんですね。

 

 

これ、どう感じますか?

 

 

日本人は「お風呂でオシッコをするのは不衛生、非常識」と考えるんじゃないですかね?だから日本の平均的な常識とは、ちょっと違うかな。と思います

 

❝自分が常識と思っている事でも、他人が不快に思う事❞は、ありますよね。

 

そしてそんなことは、誰でも知っていますね

 

 


さて、私は会社の組織の責任者なので、会社の話をしますが、

 

会社には色々な価値観の人が居て、それぞれに自分の持ち味でパフォーマンスを出したり、協調してチームで力を出してほしいわけです。

 

そうなると会社には、社員の数だけ「常識」が存在し、その数だけ「(その人の常識を)他人が不快に思う」が、存在してしまいます。

 

つまり人が集まれば、不快な事っておきるわけで、会社だってそう。

 

弊社は現在社員数50名弱の小企業ですが、そんな小企業でも不快な軋轢は山のように生じています。

 

以後、「どうやってそういう、他人との常識の違いにおける不快」と向き合うかという話をしたいのですが・・・

 

**ここからはまず、大前提として、人間には

 ・人から不快な気持ちにさせられたくない

 ・人を不快な気持ちにさせたくない

 という事が、全ての人の気持ちにあるものとして、話をします・・・ね**

 


「Aさんの常識、Bさんの不快」という衝突には、職場だと例えばこんな事がありますよね

 

 ・誰しも目上の人は敬うべき/あるいは先輩後輩の分け隔てなく会話できるほうがいい

 ・職場は静かな方が良い/あるいは活気がある方が良い

 ・職場で(例えば匂いの強い)食事をするのは有り/無し

 ・職場で無駄話はご法度/堅苦しすぎる職場は息苦しい

 ・飲み会は大事/飲みニケーションなど前世代


などなど

 

あえて相反する内容を書いている部分もありますが、快感情/不快感情はそもそも正解がないので、組織に人間が数多く居れば、かならずどこか、常識の歪みが発生します。

 

前述のような具体的な内容だけでなく、もっと子細な行動の一部始終(箸の持ち方、服装の乱れなど)においても、職場と言う環境で共生していると、「不快」な事は結構生まれてしまうものです。


例えば私なども実は「匂い系」が結構ダメで、海外の香水などを強めに付けていらっしゃる人が近辺に居ると、結構不快です。


まあ、言いたいことは、そういう不快なことはたくさん起る。起りえる。

 

さて、

 

ではこういう不快な事が起ったら、どうするか?が本題なんですが

 

まあ普通は下記の二通りではないでしょうか?

 

 1)不快であることを当事者に伝え、正してもらうか、妥協点を見出す

 2)我慢する


私が思う人間の前提として、前述しましたが「人から不快な気持ちにさせられたくない」と同時に「人を不快な気持ちにさせたくない」という感情も持っているハズなので、

 

簡単に考えれば「Aさん、アナタの香水キツすぎて私ちょっと気持ちが悪くなるんですが、職場では少し香水を控えてもらえませんか?」とお願いすれば、相手は「人を不快な気持ちにさせたくない」という感情から、

 

「了解」と、なるのではないかと思うのですね・・・

 


いや、でも、ところが

 


多くの職場やコミュニティにおいて、そうは、ならない。

 


そうはならず、大抵の場合、あまり妥協点を見出す会話が生まれず、「我慢する」がチョイスされる。

 

なぜか?

 

「我慢」になってしまう理由は、私が考えるに、以下5点ではないかと思います。


 A)人から指摘されたことを攻撃だと思ってプライドで対抗してしまう人がいる

 B)人を指摘するということで「その人を不快にしたくない」という感情が強く働いてしまう

 C)サークルクラッシャー的に、秩序を乱して喜ぶタイプの人がいるので、言っても無駄

 D)個々の尊重が行き過ぎ、他人に干渉するべきではないという組織内風土がある
   あるいは「声の大きい人に従うべき」等の強い社風があり、滅私して耐えるべきという組織内風土がある

 E)その相手が嫌いなので、話したくない
 

で、ここにおいてタイプ別に私の考えを述べますと


A)の問題
昔からA)の人はいて、何かと人に喰ってかかる・・・とでも言うのか、こういう人に指摘をするのは本当に大変です。「アナタの為を思って言っているのに」その善意が通じず、「逆恨み」のような状態になってしまう可能性もあります。とても恐ろしいですね。

電車の中でタバコを吸って、注意した人に殴りかかるような人、そういう人には何を言っても通じませんし、おそらくそういう人は組織に居るべき最低限のルールに従えない人でしょうから、何かの強権(警察など)によって除外するしかないでしょう。A)な人は自我を貫いてアーティスティックな方向で頑張るか、自分で自己改善するしかない。

 

B)の問題
わたしはこのB)がとても問題だと思うんです。

そもそも人間の基本に存在する「不快になりたくない」「不快にしたくない」の「不快にしたくない」を土壌として、相手の自尊心に対し過剰にセンシティブになっていたり、コミュニケーションにおいて相手の心情に立ち入ることに恐怖や苦手意識を感じ過ぎていて、何も出来ない。
(極端な例として自分の子供の教育責任を拒否して子供の言いなりになってしまう親、などもこの部類の問題を強化したものではないでしょうかね?)

ちょっとこの問題においていうと、B)だけが問題である場合、B)な意思決定をする人は、出来ればもうちょっとコミュニケーションにおいて外罰的に振舞ってもらって、自分がストレスを抱えない様にする努力をしていただきたいものなのですが・・・この話は後半に続きます。

 

C)の場合
つまりは秩序を自分の力で壊して、場の空気を少し悪い物にすることを、自分が注目される等の基礎的な快感情と錯覚している人が居ますね。
問題児として振舞うことを快感としてしまう人間です。若さがそういう振る舞いを助長したりします。
Twitterに悪ふざけ動画をUPしたりする輩もそうですね。
この人たちについては・・・私はある程度こういった「他愛のない問題児」については、A)とは異なり、組織はどうインテグレーションしていくかを設計していくべきだと考えます。これは後半で少し触れます。

 

D)の場合

これについては、それぞれ組織がどの方向に向かっているかに依存しますので、それが意図したものであるなら問題とは言えません。したがって「私はそういう組織にはしたくない」という意見だけ言うに留めます。

 

E)の問題

これです。

人が集まるとなぜか「人が嫌いあう」という状態が生まれます。

そして私はこの、そもそも人を嫌うという行為について掘り下げて考えたいし、嫌いあう人たちが理解し合ったり、許し合ったりするなかに人の成長が考えらえるので、自分の管理する組織にそういうミラクルに期待したいし、その可能性に対して組織に何が出来るかを、考えていきたいわけです。

 

 

ここまで宜しいでしょうか?

 

 

だから私は、私の組織において(ざっくり言うと)

 

A)は排除する

B)は、出来れば成長してコミュニケーション能力(や、他の何か)を見出してもらいたい

C)は、ある程度組織の結束力や問題点を露呈するために、あえて不確実性を高めるために一定量
インテグレーションしておく

E)について、理解し合い分かち合い助け合うような事を、常に組織のテーマにしていきたい


というような発想と意思決定をしています。

 

 


・・・が

 

 

カッコイイ事を言っておりますが、ぜんぜん、うまくいかない

 

 

だってそうでしょう?

 

 

不快すなはち、やはり、ストレス


皆さん出来れば、似たようなフィーリングをもった仲間と、出来るだけ当たり障りのない人間関係の中で、働きたいと思いますよね?それが人情です。

 

多様性だなんだとか言う綺麗ごとは、大きな声で自己中心的な発言が出来て、自分ワールドを誇示出来る人が受け入れているふりをしているだけで、

 

本当はそんな不確実なものがチームの共創能力を加速したり、チームの変化応力に必然であるだなどと、思えもしないし、直感的に感じられはしない。

 

あえて言うなら多少意識の高い人においても、「好きなタイプの」多様な人達とは触れ合いたいが、「嫌いなタイプの」多様な人達とはわかちあいたくない・・・という程度の多様性に対する憧れ・・・程度の事でしか、無いわけですから。


本来的に、多様な人々が構成する組織に多様な「常識」が存在し、それらが不快を与え合う状況が発生すると、【ここ重要】あまり考えなく


 ・まずE)となる。つまり「アイツ嫌い」となる。

 ・そしてB)のふりをする(あるいは仮想的に相手をA)的な物と解釈する

 ・その連続がやがてD)的な社風、組織風土を育てていく


ということに、なるのではないかと思うんです

 

ぶっちゃけこれが、組織が大きくなっていくと硬直化していく一つのプロセスの正体なのではないかなと・・・

 

 

■ここまでの纏め

 かかわる人が増えると、不快が増し、人を嫌いになる

 

 

で・・・

 

「なぜ、人を嫌いになるのか?」なんですけれども


この、「嫌いになる」という想いの前提にも、実は「不快にされたくない」だけではなく、「人を不快な気持ちにさせたくない」という想いもあるんじゃないかなと、最近思うようになりました。

 

つまり


実は【ここも重要】


 「人を不快にさせるくらいだったら、その人を嫌いになってしまったほうがいい」

 


と言うような心の整理が、何だか、有るんじゃないかなと思うようになってきたのです。

 

どうでしょう?皆さんはどう思いますか???

 


だから・・・なんというか、僕が思うに、


 一見我慢強い人の方

 

 とか

 

 一見とても人に優しい人

 

 の、ほうが

 

 実は、組織において、人をすごく嫌っている

 


ように、思えて来たのです・・・・

 

 


本来、「人を不快にさせたくない」と、思っている人は、心の優しい人・・・ではないかと思うのですが


実はそういう人ほど、影で人を憎んでいたりする

 

 

そしてそういう人は

 

 人を憎みたくないから、多様性の世界に踏み込んでいけない。

 

 

 

どうでしょうか?

 

 

 

 

私はいま、そういう


「人を不快な気持ちにさせたくないという気持ちと、人を嫌うという気持ち」

 

 

の因果関係とその解消について、ソノリテという「共鳴」という名前をもつ会社を経営しながら、考えを深め、ある仮説に行きついて、それを追っています。

 

 

 

・・・・今想っている事は

 

最初のシャワーの話のくだり、要らなかったかなw

キッカケは何でもいい

「キッカケは何でもいい」


ある少女漫画に関する、ファンのシンポジュウムを聴講に行った時に、聞いた言葉です。


その漫画のディープなエバンジェリストさんや、関係者が、その漫画に対する思いや、お勧めなどを語り合うという趣旨のシンポジュウムで。


「(その漫画を)読んだ事がない人に、どうお勧めするか?」


というような、テーマが生まれ、その討論のなかで、出た言葉が


「キッカケは何でもいい」


でした。


と、言いますのも

 

その少女漫画は、内容や心理描写が深く、哲学的な内容なのです。


多くの読者は、その哲学的な物に惹かれ、ディープなファンになっていくのですが

 

でもまあ、「この漫画、すごく哲学的ですよ。」というようなお勧めをすると、普通まあ「そんな重たい内容の物を読むのは大変そうだなぁ。みたくないなぁ。」と、思われてしまうかも知れないじゃないですか

 

そこで、出てくるキーワードが


「キッカケは何でもいい」

 

つまり、少女漫画ですから


 ・絵の好み(かっこいい青年が出てくる・・・とか)

 ・やおい的な嗜好(男性同性愛など)の有る無し

 ・ロリ趣味的なもの

 

など、


要するに「なにか、とっかかり、興味をひくような物事」が有れば、それをきっかけにこの漫画を読み始めてさえくれれば、その本質的な良さに、後からだんだんと惹き込まれるのではないでしょうかね・・・

 

ということで


同少女漫画の

 

 ・かっこいい絵のシーン

 ・やおい的要素のある部分

 ・ロリ的要素のある部分


などを、シンポジュウムでクローズアップして、トークされていた、わけです。

 

それがとても盛り上がったのですね。すごく盛り上がった


本質的には全ての作品が、「重たい話」なのですけれども、シンポジュウムとしては、そういう「軽い話」で盛り上がり、聴衆の興味を喚起したんです。

 

 

エンターテイメントって、そういう部分がありますよね。

 

 

例えば私は、ちょっとミリオタみたいなところがありまして、戦争を題材とした
映画なんかを観る事も、多いんですが


最初は


 ・出てくる銃器、戦車などの武器

 ・血沸き肉躍る戦闘シーンや演出


などを目当てに、観に行くんです

 

でも結果として、何に感動するかというと、それは例えばストーリーにおける生死に
かかわるドラマであったり、人間や戦争の悲哀であったり、そういうモノの描き込まれた内容について、感動するわけですね。

 

つまりキッカケは、軽~い、ミリオタ感覚


別にミリオタ感覚じゃなくっても、例えば主演女優が好みだとか、場合によっては今時間があるから映画なら何でも良いとか、ほんと、「キッカケは何でもいい」と思うのです

 

もしかしたらキッカケとは、というか人の初期衝動を呼び起こす起因になることは、軽い内容のほうが、いきなり重厚なものよりも、そぐうのかも知れないって思ったりもします。

 


では、ここで話を少し変えますが、例えば「恋愛」って、どうでしょう?


私はこれも「キッカケは何でもいい」んじゃないかなって思うんです


 ・週末暇だから彼氏が欲しいな

 ・合コンで前に座ったあの子カワイイな、彼氏いるのかな

 ・親が早く結婚しろってウルサイな

 ・あの人私に気があるみたいだな。暇だし付き合ってもいいかな


程度の、たいした動機じゃなくって、良い


たいした動機じゃなくって良いから、恋愛してみる。


そうすると、人と人が触れ合って、楽しみあったり、場合によっては傷つけあったりしていくなかで、何か感動が有ったり、成長が有ったり


最初から「この人と付き合う事によって、私に何がおこるだろう」と、考えすぎて、何も動かないよりも、簡単な初期衝動によって恋愛をして、それによって、例えば人に優しくなれたり、許しの感情とか、自分だけでなく人の為に生きることの意義とかそういう物事を考えたりして、成長していくほうが、私は良いのではないかと思うんです。

 

どうでしょうか?共感出来ますか?


そう考えると「キッカケは何でもいい」事って、身の回りに多いと感じませんでしょうか?

 


例えば「就職」も、僕は同じように思うんですね。

 

就職も「キッカケは、何でもいい」


 ・家に近い

 ・知っている先輩が居る

 ・親が早く就職しろってウルサイ

 ・この会社に勤めているって言ったら、合コンでモテそう

 ・とりあえずバイト辞めたい

 

つまり初期衝動って、何でもいいと思うんです。


で、そういう初期衝動において就職活動をしたり、実際に就職して仕事を始めていく
中で、いろいろな厳しさや、人間関係などに触れ、自分が成長していけば、良い


私は、本当にそう思っているのです

 


違いますかね?

 


違いませんよね、きっと

 

もちろん「自分はこの分野のプロになって人々に価値を与えるのが夢だったから、
そういう分野に就職するんだ!」と、強い意志をもった人を否定するわけじゃ無いんです。それはとても素晴らしいこと

 

でも

 

やっぱり僕は、「キッカケ」っていうのは何でも良いんだ。軽いもので良いんだ
って思うんです


問題はその後ですよね


軽い気持ちで映画を観に行って構わない。その深いストーリーによって何か情緒が成長すれば良い。そういう感受性の無いままに、映画を観終わったら残念


軽い気持ちで異性と付き合いだして構わない。その後の付き合いの中でお互いが成長出来れば良い。ただお互いがワガママを言い合うだけで別れてしまったなら残念。


軽い気持ちで会社に入って構わない。その後その会社で一生懸命に働いて、色々なストレスに立ち向かって成長出来れば良い。「とりあえず給料がもらえれば良い」とボヤっと日々を過ごすなら残念。

 


そう、思いませんか?

 

そう考えると、人生の大半は、「キッカケは軽い事、でもその後それがその人の
人生において重要なものに育っていく」という事ではないかと思うんですよね。

 

ちょっとクドくなってきたので、もう止めますけれど

 

だから私は、当社株式会社ソノリテの「入社面談」で


 ・当社で何をやりたいですか?

 ・当社の何に魅力を感じますか?

 ・あなたの夢は何ですか?


みたいなこと、あんまり聞きたくないんです


だから当社は「入社面談」という言葉を使わずに、「ソノリテに遊びに来てください」と、言っています。

http://sonorite.co.jp/employment/message.html 

 

 

だってキッカケは、何だって良いじゃないですか?そう、思いませんか?