対話

「オープンダイアログ」という精神疾患に対する方法論を知ったんです。

project.nikkeibp.co.jp

 

で、まあ何を感じたかと言うと

 

やっぱ「対話」なんだなと

 

人間にとっての「薬」の一つに、「対話」があるんだよな…

 

 

いや

 

もしかしたら「薬」じゃなくて「ごはん」かも…

 

 

昨日、こういうニュースがあって

news.yahoo.co.jp

 

私たちは、もっと「人間」というものを知らなければ

 

そして「対話」というものを知らなければ

 

こういう不幸は、続くのではないかと、考えてしまう。

 

いつもこういうニュースがあったときに

 

「同じことを繰り返さないように、社会全体で、この問題を考えていきたい」

 

などと、ニュースは締めくくりますが

 

誰も考えていない

 

誰もは、いいすぎかな

 

でも、そんな感触があって

 

「対話」の反対に「孤独」があるとすると

 

人はついつい、「傷つきたくない」とか「考えたくない」とか「楽がしたい」とかいう感情の先に「孤独」を求めがちで

 

でもそれは「対話」の拒否でもあって

 

「対話の拒否」が、様々な不幸を産み出す源泉でもあるわけですが

 

とはいえ逆に、「対話(というか未熟な会話、のほうがいいかな)」が産み出す様々な不幸 というものもあって、

 

例えば「いじめ」なんていうのもそれなわけですが

 

「いじめ」みたいなものの原点にあるのが「異質の排除」だったりすると

 

もういいかげん「異質の排除」を悪とすることは、だいぶ「常識」になってはきたけれど

 

とはいえ「人間」は利己的であってもよくて、それが正解とは言わないけど、利己的であることを「悪」とはまだ言い切れない世の中なんだけれども

 

「異質を排除」することの意味は「利己」、というか「自己の防衛」「集団の防衛」だから、

 

そういう気持ちを飛び越えて、「対話」するということは

 

かなり利害関係の少ない間柄でしか、実行できないような気がするんですよね

 

あるいはかなり徳が高い、悟りレベルが神クラスの人でないと、利害関係のある間柄で、「対話」が出来るとは、思いにくい

 

まあその話題を抜きにしても、「対話」が行える人というのは、

 

知的な意味で、様々な能力の高さが必要なわけだ。

 

よく「やさしい人」とか「自由な人」というのが、対話相手としては適しているような誤解をしがちだけど

 

それは「利害関係において損を受けることを許しているやさしさ」か「利害関係をもとうとしない放任的自由」なわけだから

 

本質的に、違う

 

それは「犠牲」または「無関心」だから、違う。

 

「対話」が行える人、かつ「対話」による恩恵をうけるべき人と言うのが、定義される必要があり

 

その一つは「医者」だと思うんですが

 

知的な意味で、様々な能力の高さをもつ「医者」が、「孤独」に対して「(オープンダイアログのような)対話」を、先のような不幸な事件がおこらない世の中になるよう、十分な数、行えるようになる という社会 は

 

考えにくい

 

で、私はIT屋であるので

 

IT、あるいは AIが

 

何か出来ないか

 

まあ、とりあえずそんなことを思っていたりするんですが

 

ところが、私はどちらかというと、ITは「孤独」を作り出す方に、加担していると考えていますので

 

もう少しオルタナティブなアプローチで、脳を使わないとな…

 

 

 

こういう 話題の

 

 

対話相手が欲しいですね~

 

 

 

おしまい

 

スクラップアンドビルドはアンドが嘘

スクラップアンドビルドはどうやら和製英語らしいのでカタカナで書きますけど

 

まあ壊して新しいものを作ろうよと

 

そうやって改善していこう。そうやって進化していこう。

 

私は会社の経営をしているので、まあ、何か課題があって、どうにも手に負えないなら損切りして、捨てて、壊して

 

そんで新しいもモノを作ろう

 

スクラップアンドビルドや!!

 

サンクコストに囚われずに、前だけを向くんや!!

 

そう考えるほうで

 

ただですね

 

やっぱキツイですねスクラップは

 

壊したり、捨てるのだって、いろいろ大変です

 

ホント大変

 

それが人間の場合、一番大変

 

まあそれでも

 

癌があるなら外科手術。スパッと切り取る! 切り取って捨てる!!

 

ほんで新しいことを始める。新しい仕組みにする。気持ちも新たに!!

 

やる

 

スクラップアンドビルド

 

スクラップの部分は私が決める。「もうやめる」とか「もう捨てる」とか決定したら、不動の覚悟です。

 

社員のだれが泣こうが、お客さんのだれがクレームを言おうが

 

「決断」とはそういうものだと私は思うので

 

キメタラ、ヤル

 

ステル

 

「もったいない」みたいな概念に縛られない

 

まあ、それは

 

出来るんです。私には

 

ただですね

 

やっぱつらいのは

 

スクラップしてから、ビルドされるまでの、間です。

 

捨てたら、傷が残ります

 

新しいこと、新しい方法、新しいシステムが産み出されるまでには、どうしても時間がかかります。

 

この時間がかかるということを

 

スクラップアンドビルドという言葉は、表現してないね

 

捨てアンド構築 という感じですから

 

まるでスクラップとビルドが同じタイミングでおこせるような、「アンド」と言う言葉がそういうニュアンスを暗喩しているように聞こえる。

 

実際はこの「時間」が辛い

 

この「時間」が

 

(ああ…捨てなきゃよかったな…)

 

みたいな弱気を誘発したり

 

社員からの不信を誘発したり

 

ほんともう

 

アンドじゃないですよ

 

スクラップはスクラップ、そこからビルドされるまでは、ずっとつらい

 

そういうことは

 

実際に経営している人じゃないとわからないですね

 

私は

 

今年、いっぱいスクラップしました

 

来年はビルドの年です

 

だから今つらいんだけど

 

乗り越えて、乗り越えないとね。スクラップアンドビルドにならないからね

 

 

おしまい

合理的な判断などレベルの低い課題しか解決できない

最近そんな気がしてならない

 

つまり「合理的な判断」ということであるが

 

私の中には合理性ということばがすごく強いもの・美しいもの・正解・といった種類の分類として存在していて

 

合理性 イコール 最強

 

みたいな感じであって

 

合理的な事が正解だし、合理性がなければ物事は完結しないし、合理的じゃないことはやるべきではない

 

何を判断するにも、何を決断するにも、基本は合理性

 

あるいは論破

 

誰かが誰かを論破するというのは、そのルールとは、どちらが合理的であるかということであって

 

つまり合理的に考えることが出来る人が強い。

 

そんなことは当たり前で

 

みんなが合理性を求めているし、合理的な判断に従うし、合理的なモノには負けを認めるのであると

 

つまり自分が最強になりたければ、合理的な思考回路を徹底的に磨き上げればよし

 

まあ

 

そんな風に考えて生きてきた気がするんですよね。疑うことなしにね

 

ところが

 

いや、ほんとうに「疑うことなしに」生きて来たんで、実はずっとそうだったのかも知れなくて、私が一人で「勘違い」していたのかもしれないんですけれど

 

合理的に考えていい事なんて、合理的な判断が適切だとされる事なんて、すごく

 

すごーーーく

 

小さい事しか無いんじゃないか? という気が、してきたんですよね

 

違いますかね?

 

というか、そんなの当たり前ですかね?

 

何しろ私は、合理的じゃないとオカシイと思ってきたし、人間は何を考えなきゃいけないのかと言えば、合理的な事を考えなきゃいけないのだと思ってきたし

 

いや、もう

 

本当に私は、すごく落ち込んでいるんです

 

私は、合理的に説明がつくことがすべて、「正解」とまではまあ言わないけれど、「美しい」と思っているわけですね

 

だからですね

 

「甘いもの」を食べたいと思っている人が、飴をナメる

 

これは合理的だと思っているし

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人が、飴をナメる

 

これは、非合理的だと思っている

 

ダメですかね?

 

良いですよね?

 

これが「普通」だと思っていました。

 

非合理的な事が、悪いことだと言っているわけではないんです。

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人が、飴をナメることが、悪い事だと言っているわけではなくて

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人は、飴をナメない

 

という事が、美しい正解だ と 思っていたんですよ。

 

いや、今でも思っている。

 

でも、それは間違いなんですよね

 

飴くらいだったら、合理的に考えても良いんだと思うんですよね。

 

じゃあまあ、例えばですけれど

 

 やさしい 人は 戦争を しない

 

は、合理的ですかね?

 

合理的 かも 知れない

 

じゃあ少し変えて

 

 戦争 を する 人は やさしくない

 

は、どうでしょうか?

 

これも 合理的 かも 知れない

 

あれ、この思考例は良くないかな?

 

帰納法とか演繹法の話をしたいんじゃないんですよ

 

どちらかというと、「合理性の説得力」の話がしたいんですね

 

私は「合理性」は、すごいパワーを持つものだと思っていたんですが

 

どうも、どちらかというと「合理性」は、人に嫌われるモノなんじゃないかと気が付いた というのかな…

 

 合理的な 私は 強い人

 

だと思っていたんですが、

 

どうやら

 

 合理的な 私は 嫌われ者

 

の方が、

 

わりとリアリティのある感情論なのかな という気がしています。

 

なぜならば

 

世の中はとても不合理であり、それが世の中だから

 

不合理に対し最適化された性格のほうが、重宝されるし、人気者である。

 

世の中の不合理を、なんとかして生き抜く。迎合するわけではなく、調和するように

 

それが、人気者である

 

それが、「やさしさ」 である

 

私は、自分の正義に対して整合性のあるものについて、それらを許可し、不整合なモノを、憎み

 

それは単なる「正論」でしかなく

 

おそらく「愛」が、無い

 

私は私自身が「愛のない人間」であることは、うすうす気が付いていたんですが

 

その根幹が「合理性」であることに、まったく気が付いていなかった

 

私は「合理」の世界において、正しい

 

そしてその正しさには、愛がない

 

「合理性」などは、「合理的判断」などは、きわめて小さな、小さな、そういう界面でしか機能しない

 

人は合理性では動かない

 

私は間違えている

 

それに気が付いて、ショックを受けている。2023年師走です。

 

私は間違えている。この認知が、来年の私を変えるのだろうか?

 

うーん

 

これはちょっと時間が、かかるぞ。

 

そんな気がしています

 

 

「カロリー摂取を控えたい」と思っている人が、飴をナメることが 生きるということだ

 

そんな風に、思える日が、私に来るのだろうか

 

 

 

 

おしまい

 

 

「逃げても良いんだよ」という世の中で「逃げちゃダメ」と言いたい理由

「ああ、君は結局、また、逃げちゃうんだね~」

 

とまあ、良く思います

 

逃げちゃうよね

 

みんなよく、逃げるよ

 

碇シンジは「逃げちゃだめだ」ってよく言ってましたね。うなされるように言ってました。

 

ああまた逃げちゃったか。逃げちゃダメなのにね~

 

とまあ、良く思うという事は

 

うなされているのは、私なのかもしれない

 

 

逃げないで欲しくて。私は

 

でも

 

逃げるという事については、今、世の中のヒューマニズムは、「逃げても良いんだよ」という感じだと思うんですよね。

 

それはきっと

 

逃げても良いんだよ(死ぬくらいなら)

 

って、感じだと思います

 

世の中は、ようやっと、「逃げても良いんだよ」に、たどり着いたと、言っても良いと思います。

 

逃げても良い。死ぬくらいなら

 

逃げても良い。病気になるくらいなら

 

逃げても良い。不幸になるくらいなら

 

だとして

 

私、つい先日、通販でお願いした荷物が届かなかったことがあったんですね。

 

で、いろいろと確認しましたら、「すみません。連絡ミスで配送されていませんでした」みたいなことで

 

そういう事は、おそらく増えた

 

「逃げても良い」社会は「約束を守らなくてもいい」社会でもあって、そういう社会はコミットメントが弱まる

 

誰もが「約束」や「契約」よりも「個の権利」を守ることを良しとするから、荷物が届かなくても「しかたがない」。

 

私も「しかたがない」と思っていますしね。

 

まあ、良いんじゃない?送料無料のサービスだし。

 

じゃあさあ、「絶対にXX日YY時までに届けてほしい!」みたいなものは、どうなるんだろう?これからの世界では?

 

私の考えでは、それは、スペシャルなサービスになって行く

 

例えば何か、人の命にかかわるような大事なモノを、「絶対にXX日YY時までにZZ病院に届けてほしい!」なんてのも、あるでしょうし

 

軽い話だと、「XX日がAさんの誕生日で、その日のYY時からパーティーをやるから、必ずその日時にこのプレゼントを届けてほしい」みたいなのだってある

 

そういう大事なロジスティックスはコミットメントが必要だと思うので、そのロジの経路に「仕事よりも自分の権利を優先する」人物が介在するとちょっと困る

 

だから、それはスペシャルなサービスということになる。

 

スペシャルとはどういう事かといえば、付加価値ということで、まあ簡単にいえば値段が上がる。

 

「絶対に」とつくようなモノは、値段が上がる。

 

受容と供給的にそうなる。

 

つまり「絶対」をコミットメント出来る存在というのが高付加価値、高収入化していく。

 

そういったニーズは減らないし

 

そういった人財は減るから。

 

つまり収入的に社会の上位層になりたいなら、一つの可能性としては「逃げない」人になるという方法論があるわけだ

 

これ、別に

 

二刀流で大リーグで活躍するほどの身体も要らないし

 

超天才的な頭脳が必要だってわけじゃない

 

ただ、「逃げない」っていう思考の癖をつけるだけです

 

それだけで高収入になれるわけです

 

簡単だと、思いませんでしょうか?

 

 

世の中にはプロパガンダというものがあって

 

プロパガンダは往々にして、大衆の心に響く、いうなれば大衆に迎合した雰囲気で、大衆を動かそうというものではないかと思うんですが

 

私は人に安易に「逃げても良いんだよ」と、言うプロパガンダ

 

言うなれば「無理するくらいなら低所得者で良いじゃん?」って言っているのと、そんなに変わりはないかなとすら思うんですよね。

 

私は、少なくとも縁があって当社の社員になってくれた人たちに、安直に「皆さんは低所得者で良いですよね」みたいな仕事についてもらいたいとは思わないんです

 

(ただ、「雇用を作り出すのは経営者の仕事だ」という考え方も理解はしているので、そこは二枚舌になりますが)

 

だから、まあ、やはり

 

 

逃げる人 を 信じない し

 

逃げる人 に 逃げても良いんだよ とは言いたくなくて(言うけど) 逃げるなよ と、期待するし

 

私が「逃げても良いんだよ」と言う場合、それこそ「アナタは少し逃げても良いと思う」っていうくらいすっごく責任感がスーパー強い人か、あるいは私が全然期待していない人か…

 

と、いう感じかな

 

とはいえ

 

「逃げるな」が隠蔽する不幸の中には、本当に非人道的な事もあるんでね

 

特に「戦争」とか「いじめ」とか「パワハラ」とか、そういう話題の中に、「逃げるな」という概念が思考停止ワードとして加担している事が多くあり、

 

だからまあ、日本の世の中が「逃げても良いんだよ」に、ようやっとなったというのは、人道的平和求道的に喜ばしいという事は、間違いはないのだと、私も思います。

 

だから世の中が「逃げても良いんだよ」になることに反対しているわけではなくて、むしろ賛成です。

 

そこをね

 

ちゃんと書いておかないと、どうしても読み取ってもらえないようで

 

一応書いておきました

 

 

まあでも

 

そこがわからない人は、私からは逃げたほうがいいかもです

 

 

おしまい

「尊敬する人は?」と聞かれて困っていた

そういえば、子供のころから

 

何かと「尊敬する人は?」と、聞かれてきた気がしませんか?

 

子供のころから、というより、子供のころに、特に。

 

自己紹介をするとき、入試などの面接とか、そういう局面で。

 

まるであたりまえのように聞かれてきた気がします「尊敬する人」を。

 

今、私は会社の代表なので

 

面接というと、面接官の方をよくやるんですが

 

まあ、あまり堅苦しい面接みたいなのをしたくないんで、入社希望者には「雑談しようよ」と、もちかけることが多いので

 

私の方から「尊敬する人は?」みたいな質問はしないんですけど、

 

それでも、「私はXXを尊敬していて~」などと話してくれる人がいて

 

ああ、そうなんだね

 

ある日、面接した人は

 

「私は父を尊敬していて…」

「父は〇〇という仕事をしていて…」

「〇〇という仕事にはこんな苦労があって…」

「そんな父を私は誇りに思うんです…」

 

みたいな話をしてくれて

 

うん

 

すごい。好感度高いですね。その話。

 

うーん

 

私はどちらかというと、アナタのお父さんの話じゃなくて、アナタの話を聞きたいのだが

 

まあ…あなたがそれを話したいなら…それで…いいけども…

 

 

振り返ると

 

私も子供のころから「尊敬する人は」と、よく聞かれたような気がします。

 

そして毎回、困っていた気がします。

 

「尊敬する人」ね…

 

(私に、そんな人、居るかな…)

 

私はそもそも、あまり人に依存するタイプじゃ無いんですよね

 

だから「面接などでは、尊敬する人の話をすると良い」とか言われても、「じゃあ面接用に、尊敬する人の話でも、考えるかな」というような感じで

 

なんとなく、毎回、適当と思われる「尊敬する人」を考えて、そんな話をしていたような…

 

いや、まあ、「好きな人」とか「すげえなぁと思う人」とかは、居るんですよ確かに。

 

でもですね、まあ、別に尊敬はしていないかなぁ

 

私の人生に影響を与えた人っていうのも、いまして

 

そういう人との出会いや、学びやらを、すごく尊いものだとは、本当に思っているんですけれど

 

だからといって、その人を尊敬しているかというと…

 

つまり「尊敬」っていう言葉の解釈にもよるのかも知れないですけれど

 

なんというか「尊敬」というと、敬語と言うのか、敬う(うやまう)感じというのか

 

それは私には、正直、ないなぁ

 

「すげえ好き!」とか「あの人最高!!」とか「うひゃーあの人には適わないわ!!」とかそういう感想を持つことはあっても

 

尊敬は、正直、とくにないです。

 

だから毎回、思うんです

 

「誰かを尊敬してなきゃダメなの?」って

 

それって

 

やはり精神的な依存の状態なんじゃないか?みたいな気もする

 

私はおそらく、それが出来ない

 

私は「尊敬」という態度で、誰かに依存すること が 出来ない

 

出来ない というより 好きじゃない

 

という感じかな?

 

私は、好きじゃない

 

私は、誰にも、依存しない

 

敬意は払うことがあっても、心底尊敬するというような、人に依存する感性は持ち合わせていない

 

のです

 

だからですね

 

小さな子供のころから、「尊敬する人の存在」を、定義させようとする日本の社会が

 

あまり合わない

 

 

まあ、あえて言うなら

 

私がもし、日本の学校教育に影響力をもつ存在になったとするなら

 

さいころから、「尊敬する人は?」と、子供に聞くようなことは、辞めさせたい

 

それよりも

 

「尊敬される人になれよ」とは、言いたいですね

 

 

尊敬する人は誰ですか? と 聞くより 尊敬される人になろうね と、言いたいです

 

 

おしまい

自認・自己分析・自由・個性

最近「自認・自己分析・自由・個性」みたいなことで考えることが増えて、

 

それはおそらく私が会社の経営方針として多様性の統合によるイノベーション創出をうたっているからだと、自分では思うのですが

 

例えば、身近な人で、統合失調症とかパーソナリティ障害とか、まあ、そういうような感じの人がいる。

 

そうするとですね、私が思う事は

 

「病院行ったら良いと思うんだけど、本人が、自分が病気だとは思ってないからなぁ」

 

という事ですね

 

統合失調症など、なんらかの病気で、他人に過度に攻撃的になってしまったり、あるいは過度に怯えて暮らすようになったり、あるいは何かにすごく執着してしまうような

 

そういう「不幸せ」が、みられると「病院行ったら良いと思うんだけどな」とは、思うんですが、本人は病気だとは思っていないから、病院には、行かない

 

それで

 

本人が病気だと思っていないなら、病気では無いのではないかな?

 

とも、思うんですよね

 

  • 私から見ると、病気なんだけど、本人にとっては、病気では無い

ちょっと言い換えると

  •  

という感じですかね?

 

うーんでもちょっと違いますかね

 

  • 私から見ると、病気だと思うんだけど、本人にとっては、周りが悪い

 

こっちのほうが、近いかな

 

まあでも、言いたいことは、本人は自分が病気だと思っていない。という点でして。

 

本人が「自分は病気だ」と思っていないなら、いいじゃん

 

いいじゃん

 

いや?いいのかな?

 

わかりやすさの為に、ちょっとだけステレオタイプな話をさせてもらいたいんですけど

 

私の友達に、彼女がいない人がいたとして

 

私は、そいつに彼女がいないことが、かわいそうだなぁと思ったりするけど

 

友人本人は、別に、彼女なんかいなくても良いと思っている

 

だとしたら、そいつが、自分には彼女がいなくていいと思っているんだったら、それでいいじゃん。

 

そいつの自由じゃん

 

でも、私は友人で

 

友人としての私が、そいつに、「立ち入ったこと」を、してもいい。そういう間柄だったとして

 

私はそいつに、なんとか彼女を作ろうとして、なんか勝手なことをしたりして

 

まあでも、そういう事も

 

あっても良いと思うんですよ。友人なら。

 

そりゃ「友人の定義にもよる」とも思うし

 

そいつが「”彼女がいなくてもいい”と思っている理由にもよる」とも思うけど

 

つまり、個人の自由とか、個人の人権とかを超えた領域のコミュニケーションとか侵害に関して、それが

 

「本当に無くても良いのか」

 

ということは、あって

 

つまり自分の許容を超えた事故みたいな事柄から何かが産まれるのは世の常であるわけで

 

それを「刺激」とか言ったりしますよね

 

  • 毎日同じ会社に通って
  • 毎日同じ人と会って
  • 毎日同じ仕事をして
  • 毎日同じ飯を食って

 

みたいなことは、平和ではあるけれども、刺激はない

 

現状維持バイアスの塊である我々人類は、平和を求めているけれども、その深層には刺激や変化を必要とする存在でもあるわけで

 

すくなくとも

 

それくらいのこと、つまり人間には時に「人権を超えた侵害」が必要であるという事実

 

また、自分がどの程度「病気なのか」という自己分析

 

あたりが、わかっていないと

 

少なくとも「自由」や「平和」という話題について、対等に話し合いが出来る気がしないんですよね

 

その辺りが

 

私の求める「多様性の統合によるイノベーション創出が出来る組織」において

 

どの程度の成熟度であると、自律的に機能するのか

 

ほっておいても多様性がプラスなスパイラルに共鳴しあう集団になるのか

 

う~ん

 

まあでも、感じるんですよね。ちらほらとは

 

ちらほらと、「あ、今、出来てた」みたいなのを感じることがあって

 

それは10年前の当社より、今のほうが全然多く感じるし

 

実際会社は成長しているからね

 

まあ、でも、それが当社の自己分析であったとしても

 

当社にも

 

私にも

 

きっと、「病気」はあるからなぁ

 

自覚しないとなぁ

 

 

おしまい

閉塞感を理解して利用する

現代日本には閉塞感がある。

 

みたいな

 

「閉塞感」。よく聞く気がするし、なんとなく、わかる。

 

みんな閉塞感を感じているのかな~という気がする。

 

ただ、例えば「さとり世代」というキーワードでwikipediaを確認してみると、「閉塞感」というものとは、多少違うニュアンスを感じる。

 

多少違うニュアンスというのは、例えば

 

  • 「閉塞感」は、現状を打破できず、それが苦しい というような感情

 

なのに対し

 

  • 「さとり世代」は、現状に期待がなく、欲求が強くなく、したがって苦しんでいない

 

というような感じかな

 

それで私は、今日、このブログで何を書きたいのかと言うと

 

私はあまり、閉塞感を感じていないんですよね。

 

だからといって、私は「さとり」ではないんですけどね。

 

という話かな。そんな事が書いてみたいなぁと思って、書き始めてみました。(例によってノープランで書いています)

 

で、じゃあ私がなんで閉塞感を感じていないのかなっていうと、たぶん、あんまり人に期待してないんですよね。おそらく。

 

人とか、社会とか、政治とかに、期待していない。

 

だから閉塞感を感じない。

 

あれ?それって 「さとり」 では? いや、そうではなくて

 

欲望とか欲求みたいなものは、あるんですよね

 

そう。欲望も欲求もあるし、それが上手くいかず、現状打破できないモガキみたいなことも、たくさんある。

 

そう、たくさんある。会社の社長やってるっていう時点で、欲望も欲求もたくさんあるわけだし、

 

経営が上手くいかなくて、本当に苦しいっていう事も、たくさんある。

 

ただ、それが、「閉塞感」には、結びつかないんですよね

 

たとえば、仮に私が、将棋のプロだとするじゃないですか?棋士というのかな?

 

それで仮に、ぜんぜん勝てないとしたら

 

閉塞感を感じるのかな?

 

いや、たぶん感じないですよね?

 

わかるかな?

 

「勝てないストレス」は感じると思うんですよ。

 

でも「閉塞感」とは違うと思うんですよね

 

「勝てねぇなぁ」

 

「これ以上勝てねぇなら、引退するか」

 

みたいな感じですよね

 

それは閉塞感ではないと思うんだよな

 

だからですね、この「閉塞感」ってのは、なんとなく他責的で依存的なんじゃないかなと思うんですがね。

 

例えば「日本経済にただよう閉塞感」とか、言うじゃないですか?

 

いや知らんし

 

そこにあるのは、例えば、外資が国内企業を大型買収するだとか、円がどんどん安くなるとか、国の借金がどんどん膨らんでいくとか、少子化が止まらないとか

 

まあ、そういったことによる、将来に対する漠たる不安を、「閉塞感」と言っているような気がするんですが

 

そんなん知らんし

 

そう

 

そんなん知らんよ私は

 

私はそんなもんに期待していない

 

私には欲望があって、欲しいものは欲しいし、食べたいものは食べたいし、遊びたいし楽しみたいし、仕事だっていろいろな事をしたい

 

そういう欲望が、果たせるかどうかって話で

 

その欲望に対して、例えば、外資が国内企業を大型買収するだとか、円がどんどん安くなるとか、国の借金がどんどん膨らんでいくとか、少子化が止まらないとか

 

そういう事が、うまく、利用できるか出来ないか ってダケで

 

上手く利用できれば、「お、やったぜ」って事で

 

上手く利用できなければ、「これ以上勝てねぇなら、引退するか」って

 

まあ、そういう事であって

 

私が私の人生に対し権限を持っているわけだから、そういうことが自由という事であって、

 

だからですね。「さとり」なわけではぜんぜんないんですが、「閉塞感」は感じないですね。

 

仮に、環境に「閉塞感」を感じたとするなら

 

移動するんじゃない?

 

不通そうでしょ?

 

水中にいて、呼吸が出来なくて、苦しい

 

ああ、こりゃ、「閉塞感」だわ

 

とか言ってないで、呼吸の出来るところに、移動するでしょ?

 

いや、例えばですね、誰かを介護しなきゃいけなくて、そこを動けないんですよ。とかね。まあそういう縛りのある生き方をせざるを得ない人がいて、その人が「閉塞感」を感じているというならわかりますよ。かわいそうだなぁと思います。

 

でも、ホントかね?

 

例えば若い世代は年金を払い損だとか言うじゃないですか?

 

それが嫌なら日本になんか住まなきゃいいのに

 

ほんとにもう

 

知らんし

 

俺は知らんよ閉塞感なんて

 

特になんの縛りもなく閉塞感だけ感じている人って、なんなの?と、思いますね

 

本当に、そう、思っています。

 

ただ、まあ、

 

私もバカではないので

 

組織や社会や市場に対して、親近感みたいなものをもって接することも大事だということは理解していますので

 

私も「閉塞感」を感じてますよ~みたいなスタンスをね、とることはありますよ

 

でもそれは、私が閉塞感スタンスをとることによって、私の欲望や欲求を満たすための手段としてやっておりますので

 

はい

 

私にとっての「閉塞感」は、言ってみりゃ手段ですかね

 

ということはですね、逆に言うと、「閉塞感」というキーワードをよく理解すれば、「大衆」みたいなものとのシンクロニシティがとりやすい手段を手に入れたようなものでして

 

まあ、その辺りでしょうね

 

私の会社「ソノリテ」において、産み出されるものが、そういった理解によって創造されるものであり、

 

当社の社員は、そういった知的創造に向かって脳が成長してくれることを望んでおりまして

 

そうなれば当社の社員は「閉塞感を感じていないが閉塞感を理解している」というレベルに

 

なるのかな?

 

なったら良いなぁ

 

まあ、ならなかったら、「これ以上やってもそういう会社にならねぇなら、引退するか」 って、ダケですね

 

 

おしまい