自認・自己分析・自由・個性

最近「自認・自己分析・自由・個性」みたいなことで考えることが増えて、

 

それはおそらく私が会社の経営方針として多様性の統合によるイノベーション創出をうたっているからだと、自分では思うのですが

 

例えば、身近な人で、統合失調症とかパーソナリティ障害とか、まあ、そういうような感じの人がいる。

 

そうするとですね、私が思う事は

 

「病院行ったら良いと思うんだけど、本人が、自分が病気だとは思ってないからなぁ」

 

という事ですね

 

統合失調症など、なんらかの病気で、他人に過度に攻撃的になってしまったり、あるいは過度に怯えて暮らすようになったり、あるいは何かにすごく執着してしまうような

 

そういう「不幸せ」が、みられると「病院行ったら良いと思うんだけどな」とは、思うんですが、本人は病気だとは思っていないから、病院には、行かない

 

それで

 

本人が病気だと思っていないなら、病気では無いのではないかな?

 

とも、思うんですよね

 

  • 私から見ると、病気なんだけど、本人にとっては、病気では無い

ちょっと言い換えると

  •  

という感じですかね?

 

うーんでもちょっと違いますかね

 

  • 私から見ると、病気だと思うんだけど、本人にとっては、周りが悪い

 

こっちのほうが、近いかな

 

まあでも、言いたいことは、本人は自分が病気だと思っていない。という点でして。

 

本人が「自分は病気だ」と思っていないなら、いいじゃん

 

いいじゃん

 

いや?いいのかな?

 

わかりやすさの為に、ちょっとだけステレオタイプな話をさせてもらいたいんですけど

 

私の友達に、彼女がいない人がいたとして

 

私は、そいつに彼女がいないことが、かわいそうだなぁと思ったりするけど

 

友人本人は、別に、彼女なんかいなくても良いと思っている

 

だとしたら、そいつが、自分には彼女がいなくていいと思っているんだったら、それでいいじゃん。

 

そいつの自由じゃん

 

でも、私は友人で

 

友人としての私が、そいつに、「立ち入ったこと」を、してもいい。そういう間柄だったとして

 

私はそいつに、なんとか彼女を作ろうとして、なんか勝手なことをしたりして

 

まあでも、そういう事も

 

あっても良いと思うんですよ。友人なら。

 

そりゃ「友人の定義にもよる」とも思うし

 

そいつが「”彼女がいなくてもいい”と思っている理由にもよる」とも思うけど

 

つまり、個人の自由とか、個人の人権とかを超えた領域のコミュニケーションとか侵害に関して、それが

 

「本当に無くても良いのか」

 

ということは、あって

 

つまり自分の許容を超えた事故みたいな事柄から何かが産まれるのは世の常であるわけで

 

それを「刺激」とか言ったりしますよね

 

  • 毎日同じ会社に通って
  • 毎日同じ人と会って
  • 毎日同じ仕事をして
  • 毎日同じ飯を食って

 

みたいなことは、平和ではあるけれども、刺激はない

 

現状維持バイアスの塊である我々人類は、平和を求めているけれども、その深層には刺激や変化を必要とする存在でもあるわけで

 

すくなくとも

 

それくらいのこと、つまり人間には時に「人権を超えた侵害」が必要であるという事実

 

また、自分がどの程度「病気なのか」という自己分析

 

あたりが、わかっていないと

 

少なくとも「自由」や「平和」という話題について、対等に話し合いが出来る気がしないんですよね

 

その辺りが

 

私の求める「多様性の統合によるイノベーション創出が出来る組織」において

 

どの程度の成熟度であると、自律的に機能するのか

 

ほっておいても多様性がプラスなスパイラルに共鳴しあう集団になるのか

 

う~ん

 

まあでも、感じるんですよね。ちらほらとは

 

ちらほらと、「あ、今、出来てた」みたいなのを感じることがあって

 

それは10年前の当社より、今のほうが全然多く感じるし

 

実際会社は成長しているからね

 

まあ、でも、それが当社の自己分析であったとしても

 

当社にも

 

私にも

 

きっと、「病気」はあるからなぁ

 

自覚しないとなぁ

 

 

おしまい