閉塞感を理解して利用する

現代日本には閉塞感がある。

 

みたいな

 

「閉塞感」。よく聞く気がするし、なんとなく、わかる。

 

みんな閉塞感を感じているのかな~という気がする。

 

ただ、例えば「さとり世代」というキーワードでwikipediaを確認してみると、「閉塞感」というものとは、多少違うニュアンスを感じる。

 

多少違うニュアンスというのは、例えば

 

  • 「閉塞感」は、現状を打破できず、それが苦しい というような感情

 

なのに対し

 

  • 「さとり世代」は、現状に期待がなく、欲求が強くなく、したがって苦しんでいない

 

というような感じかな

 

それで私は、今日、このブログで何を書きたいのかと言うと

 

私はあまり、閉塞感を感じていないんですよね。

 

だからといって、私は「さとり」ではないんですけどね。

 

という話かな。そんな事が書いてみたいなぁと思って、書き始めてみました。(例によってノープランで書いています)

 

で、じゃあ私がなんで閉塞感を感じていないのかなっていうと、たぶん、あんまり人に期待してないんですよね。おそらく。

 

人とか、社会とか、政治とかに、期待していない。

 

だから閉塞感を感じない。

 

あれ?それって 「さとり」 では? いや、そうではなくて

 

欲望とか欲求みたいなものは、あるんですよね

 

そう。欲望も欲求もあるし、それが上手くいかず、現状打破できないモガキみたいなことも、たくさんある。

 

そう、たくさんある。会社の社長やってるっていう時点で、欲望も欲求もたくさんあるわけだし、

 

経営が上手くいかなくて、本当に苦しいっていう事も、たくさんある。

 

ただ、それが、「閉塞感」には、結びつかないんですよね

 

たとえば、仮に私が、将棋のプロだとするじゃないですか?棋士というのかな?

 

それで仮に、ぜんぜん勝てないとしたら

 

閉塞感を感じるのかな?

 

いや、たぶん感じないですよね?

 

わかるかな?

 

「勝てないストレス」は感じると思うんですよ。

 

でも「閉塞感」とは違うと思うんですよね

 

「勝てねぇなぁ」

 

「これ以上勝てねぇなら、引退するか」

 

みたいな感じですよね

 

それは閉塞感ではないと思うんだよな

 

だからですね、この「閉塞感」ってのは、なんとなく他責的で依存的なんじゃないかなと思うんですがね。

 

例えば「日本経済にただよう閉塞感」とか、言うじゃないですか?

 

いや知らんし

 

そこにあるのは、例えば、外資が国内企業を大型買収するだとか、円がどんどん安くなるとか、国の借金がどんどん膨らんでいくとか、少子化が止まらないとか

 

まあ、そういったことによる、将来に対する漠たる不安を、「閉塞感」と言っているような気がするんですが

 

そんなん知らんし

 

そう

 

そんなん知らんよ私は

 

私はそんなもんに期待していない

 

私には欲望があって、欲しいものは欲しいし、食べたいものは食べたいし、遊びたいし楽しみたいし、仕事だっていろいろな事をしたい

 

そういう欲望が、果たせるかどうかって話で

 

その欲望に対して、例えば、外資が国内企業を大型買収するだとか、円がどんどん安くなるとか、国の借金がどんどん膨らんでいくとか、少子化が止まらないとか

 

そういう事が、うまく、利用できるか出来ないか ってダケで

 

上手く利用できれば、「お、やったぜ」って事で

 

上手く利用できなければ、「これ以上勝てねぇなら、引退するか」って

 

まあ、そういう事であって

 

私が私の人生に対し権限を持っているわけだから、そういうことが自由という事であって、

 

だからですね。「さとり」なわけではぜんぜんないんですが、「閉塞感」は感じないですね。

 

仮に、環境に「閉塞感」を感じたとするなら

 

移動するんじゃない?

 

不通そうでしょ?

 

水中にいて、呼吸が出来なくて、苦しい

 

ああ、こりゃ、「閉塞感」だわ

 

とか言ってないで、呼吸の出来るところに、移動するでしょ?

 

いや、例えばですね、誰かを介護しなきゃいけなくて、そこを動けないんですよ。とかね。まあそういう縛りのある生き方をせざるを得ない人がいて、その人が「閉塞感」を感じているというならわかりますよ。かわいそうだなぁと思います。

 

でも、ホントかね?

 

例えば若い世代は年金を払い損だとか言うじゃないですか?

 

それが嫌なら日本になんか住まなきゃいいのに

 

ほんとにもう

 

知らんし

 

俺は知らんよ閉塞感なんて

 

特になんの縛りもなく閉塞感だけ感じている人って、なんなの?と、思いますね

 

本当に、そう、思っています。

 

ただ、まあ、

 

私もバカではないので

 

組織や社会や市場に対して、親近感みたいなものをもって接することも大事だということは理解していますので

 

私も「閉塞感」を感じてますよ~みたいなスタンスをね、とることはありますよ

 

でもそれは、私が閉塞感スタンスをとることによって、私の欲望や欲求を満たすための手段としてやっておりますので

 

はい

 

私にとっての「閉塞感」は、言ってみりゃ手段ですかね

 

ということはですね、逆に言うと、「閉塞感」というキーワードをよく理解すれば、「大衆」みたいなものとのシンクロニシティがとりやすい手段を手に入れたようなものでして

 

まあ、その辺りでしょうね

 

私の会社「ソノリテ」において、産み出されるものが、そういった理解によって創造されるものであり、

 

当社の社員は、そういった知的創造に向かって脳が成長してくれることを望んでおりまして

 

そうなれば当社の社員は「閉塞感を感じていないが閉塞感を理解している」というレベルに

 

なるのかな?

 

なったら良いなぁ

 

まあ、ならなかったら、「これ以上やってもそういう会社にならねぇなら、引退するか」 って、ダケですね

 

 

おしまい

 

 

欲望のPDCA

PDCAとか、PDCAサイクルとか、もう何百年も言われてきたというか、今更もう言われ続けられていて逆に古いというか

 

「PDCAサイクルが回ってないぞ~」とか、まあ、言ったりするんですけど

 

本当にですね、回ってないんですよ。どこもかしこも

 

そう思いませんか?

 

PDCAサイクルって言葉を知らない人はいないと思うんですよね。ビジネスマンなら

 

でも、回ってない

 

ひどいもんだ

 

なんで回ってないのか?

 

IT業界では、いっとき、こんな言われ方をしました「PM能力が足りない」

 

そうPM、プロジェクトマネージャーですね。プロジェクトマネージメントでもいいけど

 

リーダーがPDCAサイクルを回さないから、回らない

 

なんとなくですね、これ、他責的な発想というのか…

 

「回す人がいないから、回っていない」

 

みたいなね

 

そのうちですね、「PMO」というのが出来ますね。「プロジェクトマネージメントオフィス」ですね

 

回す人の力が足りないし、回せる人が少ないから、プロジェクトを横断的に支援したり、監視したりしようという仕組み、組織、ですかね

 

はいでました、「仕組みでバックアップしよう」というやつね

 

ダメですね。すぐ形骸化します

 

「PMOの監査がめんどくさいから、この問題はだまっていよう」みたいなね

 

組織の形骸化能力をナメてたらだめですね

 

ナメたらいかんぜよ です

 

 

まあ

 

どうせですね

 

PDCAを回せる人なんて、限られているんですね

 

ホームランを打てる人が限られている。 というのと一緒だと思います。

 

PDCAをキチンと回さないと成功しないようなプロジェクトに、素人をアサインしちゃダメなんですよ

 

強敵を相手に試合をするなら、ホームランバッターやら、エースピッチャーやらを揃えるでしょ?

 

そこをですね、レギュラーを揃えられないで二軍三軍でなんとか回そうと思っても、それを老害ベンチがどんだけ後方支援したって

 

ダメなものは、ダメですよ

 

 

ダメなモノはダメだ と したうえで

 

 

なんでPDCAサイクルが回せないのか?って話ですけど

 

これ、私の持論ですと

 

サイクルを回す力が無いんじゃなくて

 

 P と D と C と A ですね

 

このそれぞれの力がないと

 

このそれぞれの力があれば、PDCAサイクルは自然と回せると思うんですよ

 

というのは、簡単に言えば

 

P:完成度の高いプランが描けないと納得できないし、なんとかして完成度の高いプランをたてようとする欲望

 

D:せっかく立てたプランを早く実行したい。実行して結果をみてみたい欲望

 

C:実行しているときにチームやマーケットに対する違和感を感じ、その解明に執着したくなる欲望

 

A:課題に対し解決策を見出すことが楽しくて、それを実行したくてしょうがない欲望

 

って、事ですよ

 

「なんちゃらというマネジメントフレームワークを熟知している」とか「なんちゃらいうプロジェクトのPMを10年やってきた」とか

 

そういう事じゃなくて

 

P・D・C・Aに対する欲望のかたまり

 

そういうのがあれば、サイクルなんて勝手にくるくる回り出すわけで

 

それをですね

 

スキルみたいに言ってもね…

 

 

おしまい

子供っぽいおとなとか、おとなしいおとなとか

多くの子供には、親がいる。

 

親がいる場合、その多くの親は、子供を育てる立場にある。

 

そして多くの場合、子供と言うのは無力なので、何か要求がある場合、親に頼む。

 

「お腹がすいたから、何か食べさせてくれ」

「つまらないから、遊びに連れて行ってくれ」

「アレが欲しいから、アレを買ってくれ」

 

など

 

無力な子供は、自分自身の力では、何か食べることも出来ないし、遊びに行くことも出来ないし、モノを買う事も出来ない。

 

だから、親に頼む。

 

そして多くの親は、子供への愛の証として、子供の要求に答えようとする。

 

だから子供は、自分の要求が満たされることで、愛を受け取る。

 

場合により、自分の要求が満たされないと、愛を受け取れなかったと感じる。

 

愛を受け取らなかったと感じた場合、

 

依存できるものが親しかなければ、その親から何とかして愛を受け取ろうとする。

 

または

 

親とは別の手段で、欲求を満たそうとする。

 

または

 

あきらめる

 

 

で、

 

1)親から何とかして愛を受け取ろうとする

2)別の手段で欲求を満たす

3)あきらめる

 

と、した場合

 

1)の方法として、「わがまま」を通す。というのがある。

 

 駄々を捏ねたり、僻んだり、まあ、いろいろな手段を、親が折れるまで続ける。

 

この「わがまま」が成功体験としてあり、常態化すると、子供は、

 

「世界は自分専用である」という認識を持つような気がする。

 

そして「世界は自分専用なのに、なぜ私の要求が通らないのだ?」という認識から、なかなか、成長出来ない。

 

したがって、「世界は自分専用ではないので」

 

 2)別の手段で欲求を満たす

 3)あきらめる

 

この2つの手段に切り替えなければいけないということを、知らずに、成長してしまう。

 

私は、そのような人を見ると、「子供っぽい」と、思う。

 

まとめると、私は

 

1)だだをこねて自分の欲求を満たそうとする人は、「子供っぽい」と、思う

 

また、のこる2つであるが

 

2)欲求が満たせないと、他の手段を考えようとする人は「頭が良い」と、思う。

 

そして

 

3)欲求が満たせないとガマンする人は「おとなしい」と、思う。

 

 

だから私は、なんとなく、たいていの「こども」を見たときに

 

 「子供っぽい」か「頭が良い」か「おとなしい」かに、分類したがっている(ような気がする)

 

そして私は、「頭がよいこども」が好きなので、目の前にいる「こども」が、上記3分類のうちの、どれなのかを知るために

 

その子供に「自分の欲求を満たせない状態」というのを、与え、その結果どのような行動(だだをこねるか/他の方法を考えるか/あきらめるか)をとるかを、知りたいと思う。

 

仮に「自分の欲求を満たせない状態」を私が与えられない「こども」だとしたら、その「こども」に、過去の挫折経験などを聞く。そしてその時どのような行動をしたかを、知ろうとする。

 

どのように「挫折を克服したか」を、聞く。

 

そして、聞くと

 

「子供っぽい」人は、「挫折を克服した経験」が、言えない。なぜなら、わがままを通してきたから。

 

また

 

「おとなしい」人も、「挫折を克服した経験」が、言えない。なぜなら、あきらめて来たから。

 

だから、おのずと、「挫折を克服したか」という質問は、「頭がよいこども」を知る手段として優秀なのです。

 

で、

 

私は

 

社会が間違った進化をすると、この「子供っぽいこども」か「おとなしいこども」が増えるように思え、「頭がよいこども」が増えない気がする。

 

などということを、

 

藤井聡太さんが八冠達成したニュースを聞きながら、考えたりしました。

 

 

ちなみに私は

 

「子供っぽこども」がそのまま「子供っぽいおとな」になると、やっかいだし

 

「おとなしいこども」がそのまま「おとなしいおとな」になるのも、もっとやっかいだ

 

と、思っております。

 

そして私は、

 

残念ながら「子供っぽいおとな」と「おとなしいおとな」が増えているという仮説をもっておりますし、

 

ですがそういう「子供っぽいおとな」と「おとなしいおとな」が作ってしまう残念な世界は

 

子供への愛の証として、子供の要求に答えるということが、出来なくなります。

 

そういう「挫折」を

 

これからの「こども」が、どのように克服するのか

 

1)わがままや不平不満や権利をSNSなどで叫ぶだけで自分は何もしない「子供っぽいおとな」で終わるのか

2)未来や社会を悲観し生きることに希望をもたない「おとなしいおとな」で終わるのか

3)オルタネイティブな社会を考えだす「頭が良いおとな」になるのか

 

もしアナタが、3)を選ぶなら、

 

私は、私の会社で、それを、応援したい。

 

 

お、

 

 

今回はわりと、ちゃんとオチがつけられたかもしれないな

 

 

おしまい

本能的に失敗しようとしている2

いつも通り無計画に、何を書こうか、オチをどうしようか考えもせず、したがきもせず、後から誤字脱字チェックもしないという決まり事で、気楽に書き始めますが

 

前回に引き続き「人間って本能的に失敗しようとするよね」っていう話ですが、

 

じゃあなんで「本能が失敗をしようとさせるの?」ってことで

 

私的にはタナトス要素で考えるのが一番しっくりくるんですけれどね。

 

つまり、人っていうものは、「生きたい!成功したい!楽をしたい!」っていう欲求と、

 

もしかしたら等価くらいじゃない?っていう程度に、「死にたい!失敗したい!苦労したい!」っていう根源的な欲求があるんじゃないかな~と思っています。

 

まあ、「本当か?」といわれると、私それを証明する術をもちませんが、

 

でもですね、なんとなくそういう気がするんですよね。

 

で、仮に、そうだとするとですね

 

例えばですね、「ホラー映画」なんかをみて、スッキリする人っていますよね。

 

ちなみに私はあんまりホラー映画が得意ではないのですが

 

あの、なんかこう、怖かったり、グロかったり、そういう作品を観て、スッキリするっていう感情は

 

もしかしたらタナトス的なモノが源流にあるんじゃないのかな?とか

 

あと「同情」とかそういう感情がエスカレートすると、「心中」とかそういうお話がありますよね?

 

で、「心中モノ」というような分野があるくらい、いろいろな作品(映像作品とか、芝居とか、歌とか)で「心中」っていうのは、美しさとして描かれる場合もあったりして

 

つまりですね、人は

 

 自分はどうやって生きるか

 

という事に、すごく興味があるけれど

 

 自分はどうやって死ぬか

 

っていう事にも、すごく興味があって

 

これがその、厄介な事には、例えば「理想的に生きる」よりも「理想的に死ぬ」ということの方が…

 

実は、実現可能性が高かったりして

 

まあ、生死の話は少し、行き過ぎかも知れません

 

でも、もしかして、例えば

 

 成功する/失敗する

 

の、話で言えばですね

 

例えば、どうでしょうね?

 

  ビジネスで成功する

 

のと

 

  ビジネスで失敗する

 

の、

 

どちらが成功確率が高いかと言えば、それは「失敗」の方なんですよね。間違いなく。

 

で、例えば、それで、「成功」にも「失敗」にも、それぞれに本能的な喜びがあったとするじゃないですか?仮にですけど。

 

で、まあ普通は、普通の人は、モチベーションというのは過去の成功体験(というか快感情体験と言い換えますね)の積み重ねによって強化されるとすると

 

そして「失敗」の方が発生確率が高いとすると

 

やっぱり人は「失敗」したがるんじゃないかなぁと思うんですよね

 

それに

 

もっと怖いのが、集団浅慮というやつで

 

「失敗」するモチベーションの方が、大多数を占めるとするならば、

 

大抵の「常識」というやつは、「失敗」するように出来ている。

 

「失敗」するように生きていないヤツは、愚かである。というような

 

社会的「強化」が「常識」というやつで、失敗の方向に成長してしまうわけですよ。

 

 

そんな気がしています。

 

だからですねぇ、やっぱり「stay foolish」が大切なんだと思うんですけれども

 

ただ

 

やっぱり

 

「なぜ、人は失敗したがるのか?」

 

という点ですね。

 

この点をすこしポジティブに捉えようとして見ると

 

見え方がガラリと変わるわけです

 

つまり「人と違う事をやる」という本能だと捉えてみれば、

 

例えば「突然変異」のような、進化に必要な重要な要素として捉えるべきであるわけですね。

 

ということは、「失敗したがる」というのは、例えば「冒険心」のようなポジティブな要素として捉えてみれば、わかりやすくなる。

 

「生きる」ことを「成功」だと捉えるなら、「無謀」な「冒険心」は、「失敗したがる人間の本能」であり、それは「死を恐れない」というポジティブ

 

ですが

 

「みんなで力を合わせて船を漕げ!そうすれば助かる!」と言うときに、例えば一人「これは運命だ。死を受け入れるべきだ」などという妄想に浸りだし、漕ぐことを手伝わない、みたいな「本能」もあったり

 

そんなことが

 

両方とも、同じような心の仕組みで出来ているように思うんですね

 

どちらにしても、人が「快感情体験」で意思決定しようとするときに、その目的が「生きたい!成功したい!楽をしたい!」だけではなく、言うなれば無意識的に「死にたい!失敗したい!苦労をしたい!」というほうに向かっている場合が、

 

これはもう確実にあると

 

そしてその仕組みは、生きるも/死ぬも おなじ仕組みなんじゃないかなと

 

最近よく、思います。

 

 

だから、ですね

 

生きるも/死ぬも 同じ仕組みなら

 

正義や/悪 を

 

簡単に、決められない

 

どっちが正義で、どっちが悪 かなんて、絶対的なモノはない。

 

 

なんてね、思うよね

 

 

 

 

おしまい

本能的に失敗しようとしている

私自身もそうだし、人を見ていると本当に「失敗しようとしているよな~」と思うんですよね。

 

本人はそんなつもりじゃあ無いのだろうけれど、ハタから見ていると、どうかんがえても失敗しようとしている。

 

失敗しそうなことにでもチャレンジする…とか、そんな格好の良い話ではなくて

 

「そんなことしちゃダメじゃん」って、ハタから見ていればわかることを、なんというか、本能的というか、本人は大まじめに、それが正解だと言わんばかりに、自身をもって、失敗するように行動している。

 

本人にとっては「もうそうするっきゃない!そうしないヤツはバカだ!これが正解だ!!」と、自信満々に、どう考えても失敗する方を選ぶ。

 

たぶんそういう「感情」に、なる。

 

失敗する方を選びたくなる心理というものがある。

 

もうちょっと言うと、やっぱり本能なんだと思う。

 

人間には失敗したいとする本能がある。

 

まあ例えば、プロスペクト理論のようなものも、私的には元来、人間が失敗の方を好むといった部分が根底にあるから、そういった心理的なモードになるのではないかと思うんだが

 

というか

 

私が好みの解釈としては、タナトスというかな、死の本能と言えば良いか

 

やっぱり人はタナトス的美学に酔いしれる本能があり、ほっておくと死のうとする。まあ実際死ぬわけではなくて、死に近づくことに酔いしれるというのか、殺してほしいみたいな言葉にある種の性的魅力のようなものを感じるとでも言うのか

 

まあいいけど

 

何しろシクジろうとするよね人ってやつは

 

気を抜くとシクジろうとする

 

だからですね

 

私は、 「人」 は 「失敗しようとする生物」 だと思っているので、

 

そんな私が考える、成功している「人」っていうのは

 

 ①人としては未成熟(例えば子供のような人)

 

 

 ②人としての欠点を、他の人と補完しあいながら成功しようとする「組織」を形成することに成功している

 

 

 ③人ならざる意思決定が出来る人(サイコパス

 

の、どれかだと思うんですよ

 

まあ、①と③は似ているかな

 

 

だから

 

理想的には、①か③でブートした組織を、なんとか②の組織に成長させていく、というのが成長のストーリーなんだと思うんですねどね

 

①か③がではですね、限界が来る。ある程度成功してくると、①か③の中にも「失敗しようとする本能」がしっかりと邪魔をしだすようになってくる。

 

そんなきがするよね

 

 

まあ

 

私も気を付けます

 

 

おしまい

 

どうせ出来ないとわかっていても、やらせる

まあタイトルの通りで

 

どうせ出来ないだろうと思っていますが、そういう態度は見せないで、やらせる。

 

やらせる。というと誤解があるかもしれませんが、「やる」と言ってくれたことなら、私は腹の中で「どうせ出来ない」と思っていたとしても、やってもらう。

 

そして私のほうが圧倒的に先に行く。少なくとも先に行く努力をする。

 

そして、やってもらいながら、圧倒的に先に行った立ち位置から、指摘をする。

 

そうすると、たいていの人(この場合社員)は

  • 早々にやる気をなくす
  • 指摘に対応することが仕事だと勘違いし、指示待ち体質になる
  • そもそも指摘の意味が理解できず、混乱する
  • 指摘を「わけのわからないことを言われ、邪魔されている」と受け取り、「自由にやらせてくれ」というような感じで拗ねる

等々の反応をする

 

なのでなかなか、上手くいかない

 

上手くいかないなら最初からやらせなければいい。どうせそうなる。

 

が、やらせる

 

なぜやらせるか

 

そもそも私は私を信じていないのである

 

  • どうせ上手くいかない(と、私が思っただけ)
  • 私のほうが圧倒的に先に行く(ということが、私はできると思っただけ)
  • どうせ私のいうことを理解できない(と、私が思っただけ)
  • どうせこの社員はやる気を無くす(と、私が思っただけ)

 

などなど

 

みんなみんな、私が思っただけだし、私の考え方や私の方法論や私の予見などを、いい意味で裏切る、素晴らしい結果が出るかも知れないのである

 

出ないけどね

 

まあ、ぜんぜん出ないけど、出るかも知れないのです

 

だからまあ、「どうせダメだろう」と思っても、やらせる。

 

やらせるし、容赦なく、先やら上からやらで指摘する。

 

だいたいそれで、「モチベーションが」とかなんとか言って離脱するのが多いけど

 

それでも、やらせるし、やってほしいし、続けてほしい。

 

続けてほしいけど、容赦はしないけどね。

 

 

このへんがな…

 

 

「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」

 

ってのがね

 

 

わかんないかな

 

 

わかんないのはナゼなんだろうね…

 

 

いや

 

 

わかっている社員はいるし、答えを出しているプロジェクトもあるんですよね

 

 

おそらく、この

 

「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」

 

ってのを理解する力量がある人っていうのは

 

やっぱり困難を乗り越える力があるというのか

 

と、いうより

 

「困難を乗り越えることが好き」なんでしょうね?

 

 

だから私は

 

「困難を乗り越えることが好き」な人が好きで

 

で、「困難を乗り越えることが好き」な人になら、「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」というスタンスで接するけど

 

でも誰が「困難を乗り越えることが好き」な人なのか、それを私が人選するということに対して

 

私は私を信じていないから

 

まあだいだい、だれに対しても「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」というスタンスで接することになり

 

そして多くの、途中脱落者と相対して、失望するというわけ。

 

でもね

 

「失望しないこと」が、年々、増えているような気がするから

 

いいんじゃないかな、これで

 

 

おしまい

 

 

能力を享受する厚かましさ

市川沙央さんの「ハンチバック」を読みました。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0C7TQPKWW/

 

まあ壮絶と言うか、壮絶で悲しいけどカワイイというか。憎しみの感情みたいなものがすごくてでもカワイイというか。

 

まああんまりよく説明できないです。

 

映画「ミッドサマー」を観たときに似たような感情を持ったかな?でもハンチバックのほうが何倍も色々な事を考えました。

 

読むことをお勧めするか…う~ん。どうなんだろ。

 

私は、読んで良かったと、思いました。

 

それでですね

 

読んで良かったし、市川沙央さんと言う人の書く文章に、これはもう、柔道の達人に連続で一般背負いで「スパン!」と投げ続けられたような感じで、私はもう成すすべもなくボロボロにされ、ぶん投げられ続け、でもなんというか、一本背負いの美しさの一部になったとでもいうのか、ただぶん投げられ続けてボロボロになったただのオジサンなんですけど、なんか一流の柔道の一部になったような誤解をして何かの達人にでもなったような悟り感を享受できたわけです。

 

ただのオジサンのくせに。

 

私はただのオジサンのくせに、市川沙央さんの人生によって、その影響によって、何らかの悟り感を享受できたわけ。

 

作品中の言葉を利用させていただくと、市川沙央さんのまねごとをさせていただけたとでも言えばいいのか。

 

本当に、壮絶な人生にたいして大した経緯もなく、「芥川賞かふ~ん」くらいのオジサンがですね。ほんと、厚かましいですよね。

 

かましい。そう。本当に私は厚かましい。

 

生きることは、厚かましいですね。

 

もしこの本を読むのでしたら、作者に敬意を表して電子書籍でお読みになることをお勧めします。

 

 

おしまい