いかにして間違えるか

ある程度脳みそがあれば、上手に生きることが出来ると思うんですよね。

 

適当に努力をして、適切に配慮して、妥当な判断をしていき、身の丈に合う望みを叶えていく。

 

それくらいのことは、まあ、出来る。

 

出来ていない人は沢山いる。でもまあ、いったん出来る人の話として聞いてほしい。

 

人間の行動のすべては痛みからの解放らしい。

 

痛いのは嫌だし、死ぬのも嫌だ。傷つくのも嫌だし、虐められるのも嫌だ。腹が減るのも、寂しいのも嫌だ。

 

だから行動する。

 

逆にいえば、そうじゃなければ行動しない。

 

素晴らしい人間になろうとか、素敵な世界をつくろうとか、理想を実現しようとか

 

そういう理由では人は行動しない。

 

痛いから反撃する。死にたくないから食事に気を遣う。傷つきたくないから優しくする。虐められたくないから仲良くする。腹が減らないように働く。寂しくならないように交友関係を大切にする。

 

寂しくならないように戦争に反対する。大好きな人に死んでほしくないから暴力を憎む。隣人や国家に排除されないように法を遵守する。自分にとって快適なこの世界が無くならないように環境に配慮する。

 

基本には利己的な痛みの排除がある。それ以外は無い。

 

しかし

 

人は間違えるように出来ている。間違えるようにプログラミングされている。

 

痛みから解放されるように行動するという基本プログラミングの上に、ある程度ランダムに、間違えるというプログラミングもされている。

 

そうなってやっと人間らしくなる。

 

逆の言い方をすれば

 

理想に向かって生きていくような生き方は、人間らしくない。

 

そして痛みからの解放だけに最適化された生き方もまた、人間らしくない。

 

ある程度ランダムに間違えるように生きることが、もっとも、人間らしい。

 

芸術に置き換えてみる。

 

美しいという事の理想を追求した物質は、芸術的に成らない。人の心は動かない。

 

人間の嫌な部分や、利己的な部分だけを集合させた産物は、人の心を動かすが、アートという領域に達しない。例えば粗野だったり、例えば下品であったり。

 

芸術の領域には、間違いという手法があり

 

アーティストたちはみな、どうやって間違えるかを模索している。

 

例えばファッションショーで、奇抜すぎるファッションを観たとき、我々はどう感じるか

 

例えば芸術家が、わけのわからない手法で絵具をキャンバスに殴りつけている様子を観たとき、我々はどう感じるか

 

「へんなの~」と感じる

 

そしてみな、どうやって「へんなの~」と感じてもらえるものが作れるかを、模索し、苦悩している。

 

そのプロセスは、私には「間違える」というプロセスに見える。

 

「間違い」とは「正解」に対しては「不正解」である。

 

「不正解」とは「正解のある世の中」を前提としている。

 

優れた作品は、世の中を変える。

 

エポック・メイキング というヤツだと思う。

 

つまり世の中を変えたときに、「不正解」が「不正解ではないモノ」になる。

 

そういう間違いを産み出そうとする力がいる。

 

それは人間がもともと持っている「間違い力」というプログラミングに頼ることも出来ると考えても良いし

 

しかし人間は痛みに対して行動するので「不正解」を出すことを恐れ、「不正解」を出さないように努力するであろうと考えることも出来る。

 

この、人間が

 

「不正解を出さないように努力することがある性質」を、仕事に向けてもらうような、会社にすることも、良いであろうし

 

なんとか不正解を出して、世の中を変えていこうとすることを仕事にするような、会社にすることも、良いであろう

 

私は後者を選ぶ。

 

そして私が後者を選ぶことによって得る、私たちの会社が勝ち得るものは

 

「人間らしさ」である

 

「人間らしさ」を追求し、そのアウトプットを「働き方」や「遊び方」に転化させる。

 

私たちソノリテは、人間と人間社会を、いかに人間らしくするために、どうやって間違えていくかを、非常識に考えていく必要がある。

 

私は50代のIT企業の社長ですが、「エロ本」なんていうモノに出ていたり、します。

https://amzn.asia/d/5h8xnFZ

 

ささやかな、私の 間違い力 の 発揮ですw

 

いろんな意味で、間違い、だと思うんですが、同時に 人間らしく ないですかね?