読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人を不快な気持ちにさせたくないという気持ちと、人を嫌うという気持ち

(今回、駄文長文で、支離滅裂ですが、そのまま載せます。多様性組織の実践者として、その混乱をそのまま伝えた方がいいかなと・・・)

 

さて、余談から入ります。

 

たしかオーストラリアだったと思うのですが(記憶不確実)、

 

「お風呂でシャワーを浴びながらオシッコをしましょう」という公共CMが流れる国があって、

 

理由は水不足な国だからなんですね。

 

 

これ、どう感じますか?

 

 

日本人は「お風呂でオシッコをするのは不衛生、非常識」と考えるんじゃないですかね?だから日本の平均的な常識とは、ちょっと違うかな。と思います

 

❝自分が常識と思っている事でも、他人が不快に思う事❞は、ありますよね。

 

そしてそんなことは、誰でも知っていますね

 

 


さて、私は会社の組織の責任者なので、会社の話をしますが、

 

会社には色々な価値観の人が居て、それぞれに自分の持ち味でパフォーマンスを出したり、協調してチームで力を出してほしいわけです。

 

そうなると会社には、社員の数だけ「常識」が存在し、その数だけ「(その人の常識を)他人が不快に思う」が、存在してしまいます。

 

つまり人が集まれば、不快な事っておきるわけで、会社だってそう。

 

弊社は現在社員数50名弱の小企業ですが、そんな小企業でも不快な軋轢は山のように生じています。

 

以後、「どうやってそういう、他人との常識の違いにおける不快」と向き合うかという話をしたいのですが・・・

 

**ここからはまず、大前提として、人間には

 ・人から不快な気持ちにさせられたくない

 ・人を不快な気持ちにさせたくない

 という事が、全ての人の気持ちにあるものとして、話をします・・・ね**

 


「Aさんの常識、Bさんの不快」という衝突には、職場だと例えばこんな事がありますよね

 

 ・誰しも目上の人は敬うべき/あるいは先輩後輩の分け隔てなく会話できるほうがいい

 ・職場は静かな方が良い/あるいは活気がある方が良い

 ・職場で(例えば匂いの強い)食事をするのは有り/無し

 ・職場で無駄話はご法度/堅苦しすぎる職場は息苦しい

 ・飲み会は大事/飲みニケーションなど前世代


などなど

 

あえて相反する内容を書いている部分もありますが、快感情/不快感情はそもそも正解がないので、組織に人間が数多く居れば、かならずどこか、常識の歪みが発生します。

 

前述のような具体的な内容だけでなく、もっと子細な行動の一部始終(箸の持ち方、服装の乱れなど)においても、職場と言う環境で共生していると、「不快」な事は結構生まれてしまうものです。


例えば私なども実は「匂い系」が結構ダメで、海外の香水などを強めに付けていらっしゃる人が近辺に居ると、結構不快です。


まあ、言いたいことは、そういう不快なことはたくさん起る。起りえる。

 

さて、

 

ではこういう不快な事が起ったら、どうするか?が本題なんですが

 

まあ普通は下記の二通りではないでしょうか?

 

 1)不快であることを当事者に伝え、正してもらうか、妥協点を見出す

 2)我慢する


私が思う人間の前提として、前述しましたが「人から不快な気持ちにさせられたくない」と同時に「人を不快な気持ちにさせたくない」という感情も持っているハズなので、

 

簡単に考えれば「Aさん、アナタの香水キツすぎて私ちょっと気持ちが悪くなるんですが、職場では少し香水を控えてもらえませんか?」とお願いすれば、相手は「人を不快な気持ちにさせたくない」という感情から、

 

「了解」と、なるのではないかと思うのですね・・・

 


いや、でも、ところが

 


多くの職場やコミュニティにおいて、そうは、ならない。

 


そうはならず、大抵の場合、あまり妥協点を見出す会話が生まれず、「我慢する」がチョイスされる。

 

なぜか?

 

「我慢」になってしまう理由は、私が考えるに、以下5点ではないかと思います。


 A)人から指摘されたことを攻撃だと思ってプライドで対抗してしまう人がいる

 B)人を指摘するということで「その人を不快にしたくない」という感情が強く働いてしまう

 C)サークルクラッシャー的に、秩序を乱して喜ぶタイプの人がいるので、言っても無駄

 D)個々の尊重が行き過ぎ、他人に干渉するべきではないという組織内風土がある
   あるいは「声の大きい人に従うべき」等の強い社風があり、滅私して耐えるべきという組織内風土がある

 E)その相手が嫌いなので、話したくない
 

で、ここにおいてタイプ別に私の考えを述べますと


A)の問題
昔からA)の人はいて、何かと人に喰ってかかる・・・とでも言うのか、こういう人に指摘をするのは本当に大変です。「アナタの為を思って言っているのに」その善意が通じず、「逆恨み」のような状態になってしまう可能性もあります。とても恐ろしいですね。

電車の中でタバコを吸って、注意した人に殴りかかるような人、そういう人には何を言っても通じませんし、おそらくそういう人は組織に居るべき最低限のルールに従えない人でしょうから、何かの強権(警察など)によって除外するしかないでしょう。A)な人は自我を貫いてアーティスティックな方向で頑張るか、自分で自己改善するしかない。

 

B)の問題
わたしはこのB)がとても問題だと思うんです。

そもそも人間の基本に存在する「不快になりたくない」「不快にしたくない」の「不快にしたくない」を土壌として、相手の自尊心に対し過剰にセンシティブになっていたり、コミュニケーションにおいて相手の心情に立ち入ることに恐怖や苦手意識を感じ過ぎていて、何も出来ない。
(極端な例として自分の子供の教育責任を拒否して子供の言いなりになってしまう親、などもこの部類の問題を強化したものではないでしょうかね?)

ちょっとこの問題においていうと、B)だけが問題である場合、B)な意思決定をする人は、出来ればもうちょっとコミュニケーションにおいて外罰的に振舞ってもらって、自分がストレスを抱えない様にする努力をしていただきたいものなのですが・・・この話は後半に続きます。

 

C)の場合
つまりは秩序を自分の力で壊して、場の空気を少し悪い物にすることを、自分が注目される等の基礎的な快感情と錯覚している人が居ますね。
問題児として振舞うことを快感としてしまう人間です。若さがそういう振る舞いを助長したりします。
Twitterに悪ふざけ動画をUPしたりする輩もそうですね。
この人たちについては・・・私はある程度こういった「他愛のない問題児」については、A)とは異なり、組織はどうインテグレーションしていくかを設計していくべきだと考えます。これは後半で少し触れます。

 

D)の場合

これについては、それぞれ組織がどの方向に向かっているかに依存しますので、それが意図したものであるなら問題とは言えません。したがって「私はそういう組織にはしたくない」という意見だけ言うに留めます。

 

E)の問題

これです。

人が集まるとなぜか「人が嫌いあう」という状態が生まれます。

そして私はこの、そもそも人を嫌うという行為について掘り下げて考えたいし、嫌いあう人たちが理解し合ったり、許し合ったりするなかに人の成長が考えらえるので、自分の管理する組織にそういうミラクルに期待したいし、その可能性に対して組織に何が出来るかを、考えていきたいわけです。

 

 

ここまで宜しいでしょうか?

 

 

だから私は、私の組織において(ざっくり言うと)

 

A)は排除する

B)は、出来れば成長してコミュニケーション能力(や、他の何か)を見出してもらいたい

C)は、ある程度組織の結束力や問題点を露呈するために、あえて不確実性を高めるために一定量
インテグレーションしておく

E)について、理解し合い分かち合い助け合うような事を、常に組織のテーマにしていきたい


というような発想と意思決定をしています。

 

 


・・・が

 

 

カッコイイ事を言っておりますが、ぜんぜん、うまくいかない

 

 

だってそうでしょう?

 

 

不快すなはち、やはり、ストレス


皆さん出来れば、似たようなフィーリングをもった仲間と、出来るだけ当たり障りのない人間関係の中で、働きたいと思いますよね?それが人情です。

 

多様性だなんだとか言う綺麗ごとは、大きな声で自己中心的な発言が出来て、自分ワールドを誇示出来る人が受け入れているふりをしているだけで、

 

本当はそんな不確実なものがチームの共創能力を加速したり、チームの変化応力に必然であるだなどと、思えもしないし、直感的に感じられはしない。

 

あえて言うなら多少意識の高い人においても、「好きなタイプの」多様な人達とは触れ合いたいが、「嫌いなタイプの」多様な人達とはわかちあいたくない・・・という程度の多様性に対する憧れ・・・程度の事でしか、無いわけですから。


本来的に、多様な人々が構成する組織に多様な「常識」が存在し、それらが不快を与え合う状況が発生すると、【ここ重要】あまり考えなく


 ・まずE)となる。つまり「アイツ嫌い」となる。

 ・そしてB)のふりをする(あるいは仮想的に相手をA)的な物と解釈する

 ・その連続がやがてD)的な社風、組織風土を育てていく


ということに、なるのではないかと思うんです

 

ぶっちゃけこれが、組織が大きくなっていくと硬直化していく一つのプロセスの正体なのではないかなと・・・

 

 

■ここまでの纏め

 かかわる人が増えると、不快が増し、人を嫌いになる

 

 

で・・・

 

「なぜ、人を嫌いになるのか?」なんですけれども


この、「嫌いになる」という想いの前提にも、実は「不快にされたくない」だけではなく、「人を不快な気持ちにさせたくない」という想いもあるんじゃないかなと、最近思うようになりました。

 

つまり


実は【ここも重要】


 「人を不快にさせるくらいだったら、その人を嫌いになってしまったほうがいい」

 


と言うような心の整理が、何だか、有るんじゃないかなと思うようになってきたのです。

 

どうでしょう?皆さんはどう思いますか???

 


だから・・・なんというか、僕が思うに、


 一見我慢強い人の方

 

 とか

 

 一見とても人に優しい人

 

 の、ほうが

 

 実は、組織において、人をすごく嫌っている

 


ように、思えて来たのです・・・・

 

 


本来、「人を不快にさせたくない」と、思っている人は、心の優しい人・・・ではないかと思うのですが


実はそういう人ほど、影で人を憎んでいたりする

 

 

そしてそういう人は

 

 人を憎みたくないから、多様性の世界に踏み込んでいけない。

 

 

 

どうでしょうか?

 

 

 

 

私はいま、そういう


「人を不快な気持ちにさせたくないという気持ちと、人を嫌うという気持ち」

 

 

の因果関係とその解消について、ソノリテという「共鳴」という名前をもつ会社を経営しながら、考えを深め、ある仮説に行きついて、それを追っています。

 

 

 

・・・・今想っている事は

 

最初のシャワーの話のくだり、要らなかったかなw