つむな!

言葉は大事だな~と凄く思うんですね

 

「言霊(ことだま)」と言いますが、私、やはり「言語化する」「発話する」事によって、何かが起きると思うんです。だから本当に、言葉は大事。

 

とくに、ネガティブな感情を言葉にするということ、それはとても問題で、大事に

考えなければならない事柄だと、私は思います。


例えば、何かの人や、モノに対して


 (なんとなく、嫌だなぁ・・・)


と、心の中で、思っているのなら、まだ、良いのですが


 「嫌だ」


と、声に出してしまったら、その時点で、全てが確定するような気がするんです。

 

思っているだけなのと、声に出して言うのでは、レベルが全然違う。

 

声に出した瞬間に

 

 「私は、Aが嫌いという人間であることを、コミットする」

 

と、心がFixするのだと思うのですね。

 

Fixをすると、後に戻れなくなります。

 

Fixをした途端に、自分のアイデンティティであるかのような、定義づけになるんですよね。


人間は、自分の過去の定義づけに対して、なかなか裏切れないので、これは、厄介な問題なんです。


最初は例えば、軽い気持ちで

 

 ・私は人参が嫌いだ
 ・私はXXXな人が嫌いだ
 ・私はXX国の人間が嫌いだ

 

などと、発話したとして、

 

でもそれは発話したことによって、発話した時の自分を裏切ることが難しくなるので、外付けのアイデンディディになってしまう。

 

もしかしたら、例えば過去に「嫌いだ」と決めつけてしまった人と、和解したり、理解し合えるチャンスなども、捨て去ってしまう「定義」「主義」になってしまう。

 

だから、本当に、(嫌だ)と思っても「嫌だ」と発話することは、出来るだけしないほうが良いと、私は思うのです。

(逆に(好きだ)という感情は「好きだ」と沢山発話した方が良いわけですが)

 

で、「嫌だ」以外で、私が最近気になっている言葉が、以下です


 つんだ


これ、最近の若い人、よく言います。


私この言葉、大嫌いです(ここでは嫌いとハッキリ言い切るw)


 つんだ

 終わった

 死んだ

 限界だ

 HPが切れた


等々


簡単に諦めの言葉を発話する


状況を良く聞くと、俺からすれば、全然つんでない

 

なんだよまだあの手もこの手があるじゃん!お前の力ってそんなレベルじゃないだろ?まだまだやれるだろ?ガッツ見せろよ!自分の可能性を信じろよ!粘れよ!成功に執着しろよ!

 

そう思いますが、簡単に言いますね「つんだ」


たぶん甘えの心理現象なのだと思うのですね。

 

ココでいう「甘え」自体は、私は否定しないんです。「甘え」や「人に迷惑をかけること」自体は、私は問題ないと思っているんです


でも

 

 「あーつんだわーもう無理だわー」

 

と、自虐的な言葉を使って、人に助けを求める・・・

 

そこには思考停止があるんです。そこが嫌いです。


何に思考停止しているかというと、現実には「つんだ」のではなく


 ・自分の過去の経験では、解法が見いだせない

 ・面白味を感じず、解いていく熱量が続かない

 ・解くプロセスで不快感情をもたらす行為が必要となるので、逃げたい


などなどの、自分の感情に向き合う事をせず、安直に「つんだ」と言う言葉で,

さも終わりの定義をしてしまい、哲学をしない。ここが嫌いなんです。

 

 「あーつんだわーもう無理だわー」

 

ではなく

 

 「あーなぜ自分には答えを導き出す熱量が生まれないんだろうー」

 「あーなぜ自分には答えを見出す引き出しが無いように思えるのだろうー」

 

など、もう一歩その、あきらめの感情がどこから発生するかを追及することと、「終わり」の言葉を使わない事・・・を、してほしいわけです

 


 か ん た ん に あ き ら め る な !

 


って、よく言われますよね?

 

それって、どういう事かと言うと


 か ん た ん に あ き ら め の 言 葉 を 発 話 す る な !


って事だと、私は思います。


 ・簡単に、「嫌い」などの、不快感情の言葉を、発話しない

 ・簡単に、「つんだ」などの、思考停止の言葉を、発話しない

 

この二つについて、心がけると、人生が成長と愛の方面に展開していくはずだと、私は思います。

人を不快な気持ちにさせたくないという気持ちと、人を嫌うという気持ち

(今回、駄文長文で、支離滅裂ですが、そのまま載せます。多様性組織の実践者として、その混乱をそのまま伝えた方がいいかなと・・・)

 

さて、余談から入ります。

 

たしかオーストラリアだったと思うのですが(記憶不確実)、

 

「お風呂でシャワーを浴びながらオシッコをしましょう」という公共CMが流れる国があって、

 

理由は水不足な国だからなんですね。

 

 

これ、どう感じますか?

 

 

日本人は「お風呂でオシッコをするのは不衛生、非常識」と考えるんじゃないですかね?だから日本の平均的な常識とは、ちょっと違うかな。と思います

 

❝自分が常識と思っている事でも、他人が不快に思う事❞は、ありますよね。

 

そしてそんなことは、誰でも知っていますね

 

 


さて、私は会社の組織の責任者なので、会社の話をしますが、

 

会社には色々な価値観の人が居て、それぞれに自分の持ち味でパフォーマンスを出したり、協調してチームで力を出してほしいわけです。

 

そうなると会社には、社員の数だけ「常識」が存在し、その数だけ「(その人の常識を)他人が不快に思う」が、存在してしまいます。

 

つまり人が集まれば、不快な事っておきるわけで、会社だってそう。

 

弊社は現在社員数50名弱の小企業ですが、そんな小企業でも不快な軋轢は山のように生じています。

 

以後、「どうやってそういう、他人との常識の違いにおける不快」と向き合うかという話をしたいのですが・・・

 

**ここからはまず、大前提として、人間には

 ・人から不快な気持ちにさせられたくない

 ・人を不快な気持ちにさせたくない

 という事が、全ての人の気持ちにあるものとして、話をします・・・ね**

 


「Aさんの常識、Bさんの不快」という衝突には、職場だと例えばこんな事がありますよね

 

 ・誰しも目上の人は敬うべき/あるいは先輩後輩の分け隔てなく会話できるほうがいい

 ・職場は静かな方が良い/あるいは活気がある方が良い

 ・職場で(例えば匂いの強い)食事をするのは有り/無し

 ・職場で無駄話はご法度/堅苦しすぎる職場は息苦しい

 ・飲み会は大事/飲みニケーションなど前世代


などなど

 

あえて相反する内容を書いている部分もありますが、快感情/不快感情はそもそも正解がないので、組織に人間が数多く居れば、かならずどこか、常識の歪みが発生します。

 

前述のような具体的な内容だけでなく、もっと子細な行動の一部始終(箸の持ち方、服装の乱れなど)においても、職場と言う環境で共生していると、「不快」な事は結構生まれてしまうものです。


例えば私なども実は「匂い系」が結構ダメで、海外の香水などを強めに付けていらっしゃる人が近辺に居ると、結構不快です。


まあ、言いたいことは、そういう不快なことはたくさん起る。起りえる。

 

さて、

 

ではこういう不快な事が起ったら、どうするか?が本題なんですが

 

まあ普通は下記の二通りではないでしょうか?

 

 1)不快であることを当事者に伝え、正してもらうか、妥協点を見出す

 2)我慢する


私が思う人間の前提として、前述しましたが「人から不快な気持ちにさせられたくない」と同時に「人を不快な気持ちにさせたくない」という感情も持っているハズなので、

 

簡単に考えれば「Aさん、アナタの香水キツすぎて私ちょっと気持ちが悪くなるんですが、職場では少し香水を控えてもらえませんか?」とお願いすれば、相手は「人を不快な気持ちにさせたくない」という感情から、

 

「了解」と、なるのではないかと思うのですね・・・

 


いや、でも、ところが

 


多くの職場やコミュニティにおいて、そうは、ならない。

 


そうはならず、大抵の場合、あまり妥協点を見出す会話が生まれず、「我慢する」がチョイスされる。

 

なぜか?

 

「我慢」になってしまう理由は、私が考えるに、以下5点ではないかと思います。


 A)人から指摘されたことを攻撃だと思ってプライドで対抗してしまう人がいる

 B)人を指摘するということで「その人を不快にしたくない」という感情が強く働いてしまう

 C)サークルクラッシャー的に、秩序を乱して喜ぶタイプの人がいるので、言っても無駄

 D)個々の尊重が行き過ぎ、他人に干渉するべきではないという組織内風土がある
   あるいは「声の大きい人に従うべき」等の強い社風があり、滅私して耐えるべきという組織内風土がある

 E)その相手が嫌いなので、話したくない
 

で、ここにおいてタイプ別に私の考えを述べますと


A)の問題
昔からA)の人はいて、何かと人に喰ってかかる・・・とでも言うのか、こういう人に指摘をするのは本当に大変です。「アナタの為を思って言っているのに」その善意が通じず、「逆恨み」のような状態になってしまう可能性もあります。とても恐ろしいですね。

電車の中でタバコを吸って、注意した人に殴りかかるような人、そういう人には何を言っても通じませんし、おそらくそういう人は組織に居るべき最低限のルールに従えない人でしょうから、何かの強権(警察など)によって除外するしかないでしょう。A)な人は自我を貫いてアーティスティックな方向で頑張るか、自分で自己改善するしかない。

 

B)の問題
わたしはこのB)がとても問題だと思うんです。

そもそも人間の基本に存在する「不快になりたくない」「不快にしたくない」の「不快にしたくない」を土壌として、相手の自尊心に対し過剰にセンシティブになっていたり、コミュニケーションにおいて相手の心情に立ち入ることに恐怖や苦手意識を感じ過ぎていて、何も出来ない。
(極端な例として自分の子供の教育責任を拒否して子供の言いなりになってしまう親、などもこの部類の問題を強化したものではないでしょうかね?)

ちょっとこの問題においていうと、B)だけが問題である場合、B)な意思決定をする人は、出来ればもうちょっとコミュニケーションにおいて外罰的に振舞ってもらって、自分がストレスを抱えない様にする努力をしていただきたいものなのですが・・・この話は後半に続きます。

 

C)の場合
つまりは秩序を自分の力で壊して、場の空気を少し悪い物にすることを、自分が注目される等の基礎的な快感情と錯覚している人が居ますね。
問題児として振舞うことを快感としてしまう人間です。若さがそういう振る舞いを助長したりします。
Twitterに悪ふざけ動画をUPしたりする輩もそうですね。
この人たちについては・・・私はある程度こういった「他愛のない問題児」については、A)とは異なり、組織はどうインテグレーションしていくかを設計していくべきだと考えます。これは後半で少し触れます。

 

D)の場合

これについては、それぞれ組織がどの方向に向かっているかに依存しますので、それが意図したものであるなら問題とは言えません。したがって「私はそういう組織にはしたくない」という意見だけ言うに留めます。

 

E)の問題

これです。

人が集まるとなぜか「人が嫌いあう」という状態が生まれます。

そして私はこの、そもそも人を嫌うという行為について掘り下げて考えたいし、嫌いあう人たちが理解し合ったり、許し合ったりするなかに人の成長が考えらえるので、自分の管理する組織にそういうミラクルに期待したいし、その可能性に対して組織に何が出来るかを、考えていきたいわけです。

 

 

ここまで宜しいでしょうか?

 

 

だから私は、私の組織において(ざっくり言うと)

 

A)は排除する

B)は、出来れば成長してコミュニケーション能力(や、他の何か)を見出してもらいたい

C)は、ある程度組織の結束力や問題点を露呈するために、あえて不確実性を高めるために一定量
インテグレーションしておく

E)について、理解し合い分かち合い助け合うような事を、常に組織のテーマにしていきたい


というような発想と意思決定をしています。

 

 


・・・が

 

 

カッコイイ事を言っておりますが、ぜんぜん、うまくいかない

 

 

だってそうでしょう?

 

 

不快すなはち、やはり、ストレス


皆さん出来れば、似たようなフィーリングをもった仲間と、出来るだけ当たり障りのない人間関係の中で、働きたいと思いますよね?それが人情です。

 

多様性だなんだとか言う綺麗ごとは、大きな声で自己中心的な発言が出来て、自分ワールドを誇示出来る人が受け入れているふりをしているだけで、

 

本当はそんな不確実なものがチームの共創能力を加速したり、チームの変化応力に必然であるだなどと、思えもしないし、直感的に感じられはしない。

 

あえて言うなら多少意識の高い人においても、「好きなタイプの」多様な人達とは触れ合いたいが、「嫌いなタイプの」多様な人達とはわかちあいたくない・・・という程度の多様性に対する憧れ・・・程度の事でしか、無いわけですから。


本来的に、多様な人々が構成する組織に多様な「常識」が存在し、それらが不快を与え合う状況が発生すると、【ここ重要】あまり考えなく


 ・まずE)となる。つまり「アイツ嫌い」となる。

 ・そしてB)のふりをする(あるいは仮想的に相手をA)的な物と解釈する

 ・その連続がやがてD)的な社風、組織風土を育てていく


ということに、なるのではないかと思うんです

 

ぶっちゃけこれが、組織が大きくなっていくと硬直化していく一つのプロセスの正体なのではないかなと・・・

 

 

■ここまでの纏め

 かかわる人が増えると、不快が増し、人を嫌いになる

 

 

で・・・

 

「なぜ、人を嫌いになるのか?」なんですけれども


この、「嫌いになる」という想いの前提にも、実は「不快にされたくない」だけではなく、「人を不快な気持ちにさせたくない」という想いもあるんじゃないかなと、最近思うようになりました。

 

つまり


実は【ここも重要】


 「人を不快にさせるくらいだったら、その人を嫌いになってしまったほうがいい」

 


と言うような心の整理が、何だか、有るんじゃないかなと思うようになってきたのです。

 

どうでしょう?皆さんはどう思いますか???

 


だから・・・なんというか、僕が思うに、


 一見我慢強い人の方

 

 とか

 

 一見とても人に優しい人

 

 の、ほうが

 

 実は、組織において、人をすごく嫌っている

 


ように、思えて来たのです・・・・

 

 


本来、「人を不快にさせたくない」と、思っている人は、心の優しい人・・・ではないかと思うのですが


実はそういう人ほど、影で人を憎んでいたりする

 

 

そしてそういう人は

 

 人を憎みたくないから、多様性の世界に踏み込んでいけない。

 

 

 

どうでしょうか?

 

 

 

 

私はいま、そういう


「人を不快な気持ちにさせたくないという気持ちと、人を嫌うという気持ち」

 

 

の因果関係とその解消について、ソノリテという「共鳴」という名前をもつ会社を経営しながら、考えを深め、ある仮説に行きついて、それを追っています。

 

 

 

・・・・今想っている事は

 

最初のシャワーの話のくだり、要らなかったかなw

キッカケは何でもいい

「キッカケは何でもいい」


ある少女漫画に関する、ファンのシンポジュウムを聴講に行った時に、聞いた言葉です。


その漫画のディープなエバンジェリストさんや、関係者が、その漫画に対する思いや、お勧めなどを語り合うという趣旨のシンポジュウムで。


「(その漫画を)読んだ事がない人に、どうお勧めするか?」


というような、テーマが生まれ、その討論のなかで、出た言葉が


「キッカケは何でもいい」


でした。


と、言いますのも

 

その少女漫画は、内容や心理描写が深く、哲学的な内容なのです。


多くの読者は、その哲学的な物に惹かれ、ディープなファンになっていくのですが

 

でもまあ、「この漫画、すごく哲学的ですよ。」というようなお勧めをすると、普通まあ「そんな重たい内容の物を読むのは大変そうだなぁ。みたくないなぁ。」と、思われてしまうかも知れないじゃないですか

 

そこで、出てくるキーワードが


「キッカケは何でもいい」

 

つまり、少女漫画ですから


 ・絵の好み(かっこいい青年が出てくる・・・とか)

 ・やおい的な嗜好(男性同性愛など)の有る無し

 ・ロリ趣味的なもの

 

など、


要するに「なにか、とっかかり、興味をひくような物事」が有れば、それをきっかけにこの漫画を読み始めてさえくれれば、その本質的な良さに、後からだんだんと惹き込まれるのではないでしょうかね・・・

 

ということで


同少女漫画の

 

 ・かっこいい絵のシーン

 ・やおい的要素のある部分

 ・ロリ的要素のある部分


などを、シンポジュウムでクローズアップして、トークされていた、わけです。

 

それがとても盛り上がったのですね。すごく盛り上がった


本質的には全ての作品が、「重たい話」なのですけれども、シンポジュウムとしては、そういう「軽い話」で盛り上がり、聴衆の興味を喚起したんです。

 

 

エンターテイメントって、そういう部分がありますよね。

 

 

例えば私は、ちょっとミリオタみたいなところがありまして、戦争を題材とした
映画なんかを観る事も、多いんですが


最初は


 ・出てくる銃器、戦車などの武器

 ・血沸き肉躍る戦闘シーンや演出


などを目当てに、観に行くんです

 

でも結果として、何に感動するかというと、それは例えばストーリーにおける生死に
かかわるドラマであったり、人間や戦争の悲哀であったり、そういうモノの描き込まれた内容について、感動するわけですね。

 

つまりキッカケは、軽~い、ミリオタ感覚


別にミリオタ感覚じゃなくっても、例えば主演女優が好みだとか、場合によっては今時間があるから映画なら何でも良いとか、ほんと、「キッカケは何でもいい」と思うのです

 

もしかしたらキッカケとは、というか人の初期衝動を呼び起こす起因になることは、軽い内容のほうが、いきなり重厚なものよりも、そぐうのかも知れないって思ったりもします。

 


では、ここで話を少し変えますが、例えば「恋愛」って、どうでしょう?


私はこれも「キッカケは何でもいい」んじゃないかなって思うんです


 ・週末暇だから彼氏が欲しいな

 ・合コンで前に座ったあの子カワイイな、彼氏いるのかな

 ・親が早く結婚しろってウルサイな

 ・あの人私に気があるみたいだな。暇だし付き合ってもいいかな


程度の、たいした動機じゃなくって、良い


たいした動機じゃなくって良いから、恋愛してみる。


そうすると、人と人が触れ合って、楽しみあったり、場合によっては傷つけあったりしていくなかで、何か感動が有ったり、成長が有ったり


最初から「この人と付き合う事によって、私に何がおこるだろう」と、考えすぎて、何も動かないよりも、簡単な初期衝動によって恋愛をして、それによって、例えば人に優しくなれたり、許しの感情とか、自分だけでなく人の為に生きることの意義とかそういう物事を考えたりして、成長していくほうが、私は良いのではないかと思うんです。

 

どうでしょうか?共感出来ますか?


そう考えると「キッカケは何でもいい」事って、身の回りに多いと感じませんでしょうか?

 


例えば「就職」も、僕は同じように思うんですね。

 

就職も「キッカケは、何でもいい」


 ・家に近い

 ・知っている先輩が居る

 ・親が早く就職しろってウルサイ

 ・この会社に勤めているって言ったら、合コンでモテそう

 ・とりあえずバイト辞めたい

 

つまり初期衝動って、何でもいいと思うんです。


で、そういう初期衝動において就職活動をしたり、実際に就職して仕事を始めていく
中で、いろいろな厳しさや、人間関係などに触れ、自分が成長していけば、良い


私は、本当にそう思っているのです

 


違いますかね?

 


違いませんよね、きっと

 

もちろん「自分はこの分野のプロになって人々に価値を与えるのが夢だったから、
そういう分野に就職するんだ!」と、強い意志をもった人を否定するわけじゃ無いんです。それはとても素晴らしいこと

 

でも

 

やっぱり僕は、「キッカケ」っていうのは何でも良いんだ。軽いもので良いんだ
って思うんです


問題はその後ですよね


軽い気持ちで映画を観に行って構わない。その深いストーリーによって何か情緒が成長すれば良い。そういう感受性の無いままに、映画を観終わったら残念


軽い気持ちで異性と付き合いだして構わない。その後の付き合いの中でお互いが成長出来れば良い。ただお互いがワガママを言い合うだけで別れてしまったなら残念。


軽い気持ちで会社に入って構わない。その後その会社で一生懸命に働いて、色々なストレスに立ち向かって成長出来れば良い。「とりあえず給料がもらえれば良い」とボヤっと日々を過ごすなら残念。

 


そう、思いませんか?

 

そう考えると、人生の大半は、「キッカケは軽い事、でもその後それがその人の
人生において重要なものに育っていく」という事ではないかと思うんですよね。

 

ちょっとクドくなってきたので、もう止めますけれど

 

だから私は、当社株式会社ソノリテの「入社面談」で


 ・当社で何をやりたいですか?

 ・当社の何に魅力を感じますか?

 ・あなたの夢は何ですか?


みたいなこと、あんまり聞きたくないんです


だから当社は「入社面談」という言葉を使わずに、「ソノリテに遊びに来てください」と、言っています。

http://sonorite.co.jp/employment/message.html 

 

 

だってキッカケは、何だって良いじゃないですか?そう、思いませんか?

ポテンシャル、ベクトル

ポテンシャルとベクトル

 

古典力学でいう所の、位置エネルギーと運動エネルギー


人財の分野でもよくポテンシャルといいますが、それは例えば、「即戦力」とでも表現すれば良いでしょうかね。


ビジネスに必要な経験や能力や人脈などがすでに備わっていると、「あの人はポテンシャル高いな」と思います。

 

弊社では、人財の採用については、社長である私が陣頭指揮をとって行っております。


この4月も、多くの社員を採用いたしました。

 

みな、期待の新人たちです。

 

 

新卒採用の局面で、このポテンシャルの話をしますと


新卒採用の人達は、もちろん業務経験が無いのですから、言うなれば新卒者は皆、ポテンシャルは低い・・・

 

などと短絡的に思いがち、ですが、実はそんなことはないと考えていて、


新卒と言っても皆20代、人格形成において大切な、10代の頃をもう過ぎておりますから、例えば「リーダーシップ」、例えば「調整力」、例えば「負けん気」など、ビジネスマンにとって重要な要素っていうもののポテンシャルは、すでに備わっていたりする場合が多いのではないでしょうか?


例えば、私たちソノリテの仕事は「ものづくり」的な質を持ちますが


「ものづくりが楽しい」あるいは「ものづくりはそんなに甘い物じゃない」などといった、「ものづくりに対する価値観」は、既に新卒であっても備わっている場合が少なくありませんね


そういう感性みたいなモノは、ポテンシャルの一種と言っていいと思うのですが、いかがでしょう。

 

まあ、それがポテンシャル

 

では、人財の分野でいう「ベクトル」とはなんだろう?と


よく「あの人と私は同じベクトルだ」などと表現したりするときがありますが、人財の分野においてベクトルは、往々にして向きを表しているようです。

 

では「向き」とは?


スタート位置から動き出す方位が、「向き」ですよね?


東西南北、どちらに動き出しているのか?それが「向き」です


では、なぜそちらに動き出そうとするのでしょう?つまりこれが「あの人と私は同じベクトルだ」という言葉の意味なのでしょうが


 ・同じような向きに行きたがる

 ・行きたがる方向が似ている 

 ・言うなれば「同じゴールを目指している」


これを、「同じベクトル」と言うのでしょうね


どうやら「モチベーション」などとも、関係がありそうな言葉です。

 

さて、ここで


前提として、ビジネスについての解釈を、語りたいのですが

 

今ここで、ビジネスを、ざっくりと定義します。
(どちらかというとホワイトカラー的な、ビジネスモデルです)


私は今ここで、ビジネスを、以下のような単純な構造と定義して、話を続けます

 

【ビジネスの構造】


 対価 = 位置 × 移動速度 × 移動量

 

つまりビジネスで高い対価を得たいなら、まず高い位置(ポテンシャル)になるべきでしょう


高い位置には、(対価が)高い仕事があります


下請けよりはゼネコンが良いですよね。部下よりは上司がいい。新米よりはこの道何年の職人のほうが高い対価を得ます。そういう意味です。

 


つぎにその位置で、どれだけの速度で仕事が出来るか、つまり生産性が問題ですね?


ここでは「時間×単価」のような、アルバイトのような仕事は指しません。「難しい仕事を、短時間でやってのけられる人が、優れている」世界を指しています。


難易度A:対価100の仕事を、1時間で1件しかこなせない人は、対価100しか得れませんが、2件こなせるなら、対価200を得れますね。そういう話です。

 

時は金なりってこと

 


さて最後ですが、移動量です。これはもう単純で、「こなした数」です。いくら高速に処理できる仕事でも、その仕事をどれだけの数こなすかによって対価は変わってきます(ここを時間と勘違いしてしまうと、アルバイトになってしまうので注意です。量です)

 

さて、ビジネスの構造がそうである、として

 

さてここで、ベクトルとはなんであるか?


(ポテンシャルはわかりますよね?位置って思いっきり書いてありますから)


ベクトルとは恐らく、以下3つの意味がある意識なのではないかと、思います。

 

 1)「位置」を上げる意識

 2)「速度」を上げる意識

 3)「移動量」を上げる意識


これら3つの何れかを満たすための意識や方向性が、「ビジネスや仕事に有用なベクトル」なのではないかと思うのですね。


では「ビジネスや仕事に無用なベクトル」とは、何か・・・と言えば、簡単で、全部下向きにすればいい


 1)「位置」を下げる意識

 2)「速度」を下げる意識

 3)「移動量」を下げる意識


これら、ようするに「下に向いている」ベクトルがあると、ああ、こいつはダメだ。という事になりますよね

 

こういう事で、ビジネスとは、やはりポテンシャルとベクトルの組み合わせで出来ているのだ。と思えるわけです


式にすると


 対価の向上 = (位置×向上ベクトル) × (移動速度×向上ベクトル) × (移動量×向上ベクトル)


ですね

 


さてここで、私の悩みを聞いてほしいのですが

 

 すごくポテンシャルがある が マイナスなベクトルを感じる

 

人が居るとしたら、どう判断したらよいのか?ということを、凄くよく悩むんです。私は。

 

選択肢は2通り

 

 選択1)その人のポテンシャルを上手く利用し、マイナスなベクトルについてはチームでカバーするか、(ポテンシャルと総合してプラスに取れるなら)黙殺する

 選択2)「会社のベクトルと相反する」として、合流させない(入社させない)

 

とても、悩みます

 

本来


強くたくましく、多様性統合にポジティブで、個々の様々な相反する能力を生かせる会社・・・であるなら、


選択1)をチョイスし、かつ、その統合によってベクトルも同じ方向を向貸せるような事が出来る全体感が・・・


全体感が・・・

 


・・・理想なんですけれどもね

 


価値観の違いなどが多様性だとしますと・・・この「ベクトル」というものも、価値観の一つではないかと思うのですが、やはり限界を感じなくもないです。いや、感じます。


どうしても、最低限の協調性や、最低限の美意識、最低限の善悪の意識、などなどが揃っていないと、どうにもベクトルのズレが気になりだします


簡単な事です

 

 1)「位置」を下げる意識:(例えば)向上心が無い

 2)「速度」を下げる意識:(例えば)地頭が悪い

 3)「移動量」を下げる意識:(例えば)やる気が無い


これらを「多様性」の中に含めるべきか、どうかという議論なわけですね


反意的にプラスの解釈をすることが出来る人は、別です


例えば、いわゆる意識高い系な向上心などを持ち合わせていなくとも、(美味しい話に心揺るがず)一つ事を集中してずっと正確にやり続ける事が出来る、実直さを持っている人が居るとしたら、例えばそれは、「位置」よりも「移動量」で勝負すべき人なのでしょう。そういう良い面があると、プラスの解釈が出来るなら、良いのです。


そうではない、人も、いる。残念ながら


そういう人について、今私が言えることは


 対価 = 位置 × 移動速度 × 移動量


のような仕事は、向いていない・・・例えばアーティストだとかそういう、極端に振れた「ビジネスっぽくないビジネス」なら、可能性があるのかも知れないなぁ・・・と思うのですが、


やはり私は、それらの人を統合することが出来ない・・・と考えてしまう。

 

そういうベクトルの人に、いくらポテンシャルを感じても、そしていかに多様性を重視する企業にしようという意思があったとしても、これからもベクトルに対しては厳しく目を向けて人と接していくのではないかと考えています・・・・・

 


・・・・・


・・・う~ん

 

・・・・歯切れが悪いな

 

たぶん自分でもまだ、迷いがあるからだと思いますね

 

組織って、人間って、難しいなぁ(苦笑)

 

まあ、そこが、面白い

 


春に成り、新卒採用君たちが入社してくるのを前に、思う事 (人のポテンシャルとベクトル)  でした まる

自制心

自制心、セルフコントロール


自制心がある人は、信用できる。


自制心がない人は、信用出来ない。


例えば、自制心のある人は、口が堅い。秘密が守れる。


自制心のある人は、ちょっとやそっとのストレスで、仕事を投げ出さない。


自制心のある人は、自分に何があっても、約束をきちんと守る。

 

自制心の無い人は、口が軽い。感情に任せて、ペラペラと話す。


自制心の無い人は、ちょっと面倒になると、仕事を投げ出してしまう。


自制心の無い人は、何かにつけ理由をつけて、約束を守らない。

 

 

反面

 


自制心の強い人は、常に自分に制約を課して生きているので、ストレスがたまる。だから、疲れる。


堅物(カタブツ)とも言える。安請負をしない。責任のとれる行動、発言しかしない。

 

が、何しろ、❝信用❞できる。

 

信用出来ない人が、いくら素晴らしい事を言っても、信用出来ない。


自制心がない人の発言は、無責任だから。

 

 「ぼくに任せてください! ぜったいにキッチリやります!」

 

この言葉、自制心のある人の発言なら、信用できるが、自制心の無い人の発言なら


 (ああ、こいつまた、三日坊主で忘れるんだろうな)

 (ああ、今はこいつこんなこと言っているけど、別に面白い事が見つかればそっちに気が移っちゃうんだろうな)


と、見透かされ、冷笑されるのがオチ。

 

 

 自制心を、持ちましょう


 自制心を、発揮しましょう

 

 

ここまでは、良いですね?

 

 

でも自制心を持つことは、大変です。

 (ちなみに私は、人間は初期値において、自制心を持たない。と、考えています。ですから大抵の子供は、自制心を持ちません。これは皆さん合意、ですかね?)

 

さて、自制心を持ちましょう と、言いましたが、

 

では具体的にはどうやって、「自制心を持つ」のでしょうか?

 

模範解答っぽい答え:
「意識や目標が人を変えますから、まず自制心を持とうと言う意識や目標を立てることでしょうね。」

 

はい、0点です。サヨウナラ

 

「意識や目標」で自制心が身に付くわけが、ありません。


だってその人には、「意識や目標に向かって努力する」根源的なエネルギーである「自制心」が無いんですからwww

 

自制心がない人が、意識や目標を持ったところで、三日坊主で終わるだけ、です。

 

 

はっきり言います

 

 

自制心は、強迫観念だと、私は思います

 

 

自分の心に、強迫観念を持っている人が、ビジネスでは「信頼」されます。

 

 ・約束を破ると、怒られる

 ・締切に間に合わないと、干される

 ・遅刻をしたら、仲間外れにされる

 ・寝坊をしたら、仕事を首になる

 ・サボったら、殴られる


こういった「強迫観念」が身についている人が、信用されます。

(そしてその強迫観念を、プラスな方向に❝解釈❞する必要がありますが、❝解釈❞の話は深くなるのでここでは置いておきます)

 

「意識や目標」で、皆さんの心に、強迫観念が植えつけられるでしょうか?


私は、無理だと思います。

 

強迫観念は、環境の産物です。外から植えつけられるもの、です。

 

例えば、親と家で同居して学校に行っていたころには、無遅刻無欠席であった自分が、大学生になって一人暮らしを始めたら、瞬間から、遅刻などをするようになった

 

と言うような事が、あると、自分の事のように想像してください。


さて、この人には、「大学に遅刻をしたらまずい」という“意識”が無いのでしょうか?

それとも「今月の遅刻回数を0回にする」という“目標”が無いのでしょうか?


どちらも、違いますね

 

この人は、今まで生きてきた人生の中で、強迫観念なく、親や友人たちに甘やかされ
生きてきた。というだけの事です


強迫観念が、心の奥にまでシミわたっていないんです。だから、「睡魔」程度の物に、負けてしまう

 

 「睡魔」程度のものに負けてしまう人に、仕事は、任せられませんね

 

遅刻常習犯の人に、どんなに素晴らしい事を言われようと、「なんだあいつ、睡魔程度のものに勝てないくせに」と言うように反駁されて、信用されません。

 

それがビジネス上の人間関係における、信頼の基礎。です。

 

 

ところで、

 


人間はどうして 自制心のある人を、信用するのでしょうね?


簡単ですね


 「自制心を持ったり、発揮することが、とても、大変な事だから」ですね

 

皆、無責任でいたいのです。

 

適当な事を言って、面白そうなことだけやって、やりたい時にやって、やりたくないときにはやらない。眠ければ寝て、雨が降れば家から出たくない。


だから、人に頼む


自分が出来ない事を、お金を払って人に頼むこと、そしてそれを引き受けること、
が「仕事」の本質です。


ですから、


 「(自分にはない)自制心を持った人を、お客さんは信用する」わけです


かつ、仕事とはチームでやります


同じチームの中に、一人でも「自制心のない人」がいたら、チーム全体の「約束を守る能力」が落ちますよね


 ・常習的な遅刻やフレックス出社

 ・約束破り

 ・寝坊、居眠り

 ・無断欠勤

 ・飲み会の翌日に起きられない


だからこういう「自制心のない人」がチームに居ることを、人は潜在的に嫌います。


よく


 「時間の制約を受けずに、例えば夜中に働きたい!作る物さえキチンと作れれば、文句はないはずだ!」


などと言って、都合よく、フレックスタイム制度などを利用する人が居ますが


まあ、信用出来ない人であるケースがほとんどです


「睡魔」程度に勝てない人間が、口先だけカッコいい事を言っているに、すぎませんね。生きてきたなかで、自制心と言う強迫観念に向き合う事をせず、まだ子供でしかない、わけです。

 


「信頼」とはそういうものですね

 

私は株式会社ソノリテという会社を経営しているなかで、ソノリテを究極的に自由度の高い会社に成長させようという考えを持つと共に、「信頼」出来る会社でありたいとも思っています。

 

そしてそんな私は今年、「傲岸不遜」というテーマで経営をしています。

 

私は今年、傲慢に、社員の皆さんにストレスを与えていこうと思っています。

 

今日本の社会は、人が人に傲慢に接することに対して、難易度が高い状態にあります。民度の成長過程においては、このような「無責任な自由度」という状況は、やむを得ないでしょう。

 

ですが私は、私の責任において経営しているソノリテと言うコミュニティの中で、コミュニティの形成者である社員達に対する、ストレッサ―となり、社員達がその強迫観念に向き合ってくれることを期待しています。

 

社員の皆さんには仕事と言うステージのなかで、自らに強迫観念を植えつけ、立派な「信頼できる人」になってもらいたいなと思っています。

 

そして

 

出来れば皆さんが、おなじ会社の仲間たちに対し、「説教!」をしあえる人に成長してほしいなと思っています


 「説教!」をして、周囲に良質な強迫観念を植えつけ


 仲間を、「信頼できる人」に、しあえる

 

そういう活性化されたコミュニティであることが、理想だと思っています。

 

 

人に説教するのって、疲れます。嫌です。

 

でも、

 

 「~え~説教か~~言うのやだな~~~」


と、思う理由があるとしたら、その理由は、ただ一つ(自分が言われたくないから)じゃないかな?と思うんです。

 

この一つ前のblogで「私はだらしがない」という事を書いた私が言うのも、なんですがw


私は、ソノリテと言う会社の社員の皆さんが「こういうソノリテにしてほしい」という意見を極限まで受け入れる覚悟が、あります。


が、それは「信頼できる人」からの意見、のみなんです

 

 

私はだらしがない

私は、だらしがないんです。


約束を忘れる。メモを取らない。メモを取ったとしてもメモが見つからない。


机の上が汚い。汚い上に何がどこにあるか覚えていられない。たまに片付けでも、またすぐに汚くなってしまう。


何かを途中まで進めて、途中で飽きてしまう。買った本を読まない。読んでも途中で飽きてしまう。


物を駄目にしてしまう。物を丁寧に扱えない。借りた本を汚してしまう。

 

まあ、何しろいろいろ、ある。 私はだらしがない。

 

 

でも、だらしがない という性格にも、利点はあります。

 

 

だから私は、だらしがない性格のままで居ようと思っています。

 

 

先にも書きましたが、私はメモを取らないです。

 

人間の脳というものは、自分にとって大切な物事は、深層心理が分別して、必ず覚えているそうです。

逆に言えば自分にとって大切じゃないことは、メモをとらなければ覚えていられない。


だから私は、ほとんどメモをとらない・・・です。


でもだからといって、約束したことを、自分には「重要ではないから」といって忘れて良いワケはないですよね?


例えば誰かに「明日マンガを貸して」と言われて、「良いよ」と答えて、翌日になってすっかり忘れている。なんてことしょっちゅうで、かつ、それは例えば私にとって「その人にマンガを貸す事」が、あまり重要に思えていなかったから忘れているわけですが、でもそれで相手はガッカリするわけです。


普通そういう「だらしがない」人は、

 

   ダメ!

 

ですよね?


でも私は、だらしがない性格のままで居ようって思ってます


利点があるからです


例えば「だらしがなくない人」というのは、

 

 ・「マンガを貸してくれ」と言われたら、ちゃんと記憶したり、メモをとって、きっちり、貸す

 

でも、例えば

 

 ・「マンガを返してくれ」と言って、ちゃんと返してくれなかったら、ストレス


なんじゃないかな?


だから、「だらしがなくない人」にとって、「マンガを貸す」ということは、ある種のストレスをもったタスクなんじゃないかと思います。


ある種のストレスとは

 

 ・マンガをきちんと持って来よう

 ・マンガが返されなかったら嫌だなぁ


と、いう事ですが、他にも、もしかしたら

 

 ・そのマンガが傷んでいないか、先にチェックしておこうかな?

 ・カバーを汚されたら嫌だから、代わりのカバーを付けておこうかな?


とか、そういう、「気を使う」と、いうことがありますよね


「気を使う」というのは、とても良い事です。


でも「気を使う」というのは文字通り「気を使う」のですから、疲れます。


疲れる=というストレスなわけです。

 

でも、私のようなだらしのない人にとって「本を貸して」「いいよ」ってのは何のストレスでもありません。


翌日になって「あ、忘れた、ごめーーーん!」なんて言っていますが、それも口先で謝ってはいますが、また、すぐ忘れる。だから翌日も持ってこないwww


まあ酷い人間です


マンガを貸すくらいの話だと良いですが、さすがに仕事だとそうも言ってばっかり
いられないので


じゃあどうするかと言えば、


答えは簡単で、「そんな私をサポートしてくれる仲間」と、仕事をしたいわけですね。


 ・私はノーストレスで、いろいろな約束事などをする

 ・それを実行するのは、信頼のおける仲間たち


これが、いちばん良いわけです

 

なんだかご都合主義の、お気楽な人間のように思いますでしょうか?


私も、そう思いますwww

 

 

一応、言い訳をしますと

 


私は、会社の総責任者なんですね。

 

代表取締役で、社長なわけで、かつ、筆頭株主です。

 

ですから当社の行う事すべてに対して、私は、全ての責任を背負っています。


こればっかりは、誰にも背負わせることの出来ない、逃げ場のない、責任です。

 

責任だけではなく、会社が破産すれば私も破産します。一連托生です。

 

だから私は、「自分にとって、一番大切な事」に、集中する必要があるのですね?

 

 

だって 私=会社 ですから。

 


私のような「だらしがない」人間でも、「自分にとって大切な事」は深層心理がかならず覚えさせてくれています


というかむしろそれは、会社経営者にとって

 

  忘れられなくて寝られないくらいの大きなストレスです(苦笑)

 

そんな私は、代表であるがゆえに、「だらしがなく」生きたい。


「会社と一蓮托生である自分が、本当に大切だと思う事」に集中するために、多くの
タスクに対しては、だらしがなく接したい。

 

そしてそのタスク達については、仲間たちがキチンとサポートしてくれる、チームであり会社になっており、私はその仲間たちに感謝を惜しまない。

 

これが私の理想とする、私の「だらしない」経営なんです

 

 

追:

ソノリテとお取引をさせていただいている皆様、斯様なことで、私はだらしがない人間ですが、当社はしっかりした社員が揃っておりますので、どうか御贔屓に

 

 

追2:

そんなだらしのない私ですから、当blogにおける誤字脱字なども酷いもので、いつも醜聞ご迷惑をおかけしております

「攻めてるな~」「攻めてなきゃいけないのかな~」

最近よく、「攻めてるな~」って言うんですよね。私も。


なんとなく、誰かが面白い事をやっていたり、ちょっとエッジな感じを出していたりすると、「攻めてるな~」って思うし、そう言います。


実は昨日、

 

ある社内会議で、誰かがポツリと、「攻めてるな~って言うけど、攻めてなきゃいけないのかなぁ」というような意味の事を、言ったんですよね。


(・・・そういわれると、確かにそうだなぁ)


と、その時は思ったものの、何か上手い返答を会議でしたわけでもなく、ただなんとなくその言葉が頭に残っていて、一晩、頭の中で整理していたんですけれど

 

「攻めている」について、二つの解釈があるんじゃないかなと、思ったんですよね

 

解釈1

「攻めている」が、オフェンス(攻撃)と、ディフェンス(防御)の、オフェンスを意味する場合


ディフェンスって言うモノの重要性について、「攻めだけじゃなく、護りも重要」ですからね、「攻めてなきゃいけないのかな~」の意味は


例えば


 「比較的、攻めは派手で、眼を惹くが、護りも重要なんですよ」


と、解釈出来るので、


う~んその通り

 

護り、重要です。うんうん。

 


解釈2

「攻めている」が、突破している(変化している)と、動かない(じっとしている、何もしていない)の、突破しているを意味する場合


これはもう、「突破する」という意味において、ブレイクスルー思考でいて欲しいわけですから、現状に佇まず、突破思考をもってもらいたいわけです。


 「現状にあまんじて立ち止まらず、攻めろ」


と、こう、言いたい。

 

 

つまり解釈によって、「攻めてなきゃいけないのかな~」に対する回答は、違うなぁという事に、気が付きました。

 

 

ちょっと複合した例を言うとですね。

 

例えばサッカーで、相手方が攻めてきていて、自陣のキーパーと、相手方のフォワードの、ちょうど真ん中に、ボールが落ちてきたとします。


キーパーが、とっさに判断


自陣のゴールがガラ空きになるのを承知で、キーパーはボールに向かってダッシュ、相手のフォワードがボールに辿り着くより早く、すんでのところでそのボールをクリアして、自陣のピンチを救う


そんな光景を思い浮かべてもらえると、

 

ディフェンスであるキーパー、よく判断したな! って思えるわけですよね。


それをまあ、こう言いたいです「キーパー攻めてるなぁ!」って。

 

 

また、別に「なんでもカンでも攻めりゃ派手、攻めりゃカッコイイ」って話でもないですね。


ディフェンス陣までみんなが、ボールをゴールしようとして攻め込むようなサッカーをしたら、ふつう、グダグダです。

 

ただ


「おれはディフェンスなんで、相手が攻めてきたら護るのが仕事、それ以外は俺の仕事じゃない。」などと、決めつけている選手がいたら、きっとそのチームは、良いパフォーマンスが出ないし、ミラクルなプレイも起り辛いでしょう。

 

攻め思考は


 ・チャンスに貪欲

 ・常識に対して破壊的

 ・恐れを、知らない

 

などといった、思考形態をさすのではないかと考えます。

 

でもですね、例えば良い意味での逆発想を言えば


 ・リスクに敏感

 ・論理的に判断

 ・感情で、動かない


などといった、「良さ」があるわけですから、そういった「反攻め思考」は、素晴らしい。

 

熟練してくると、そのあたり(無邪気な攻めと、理性的な護り)の複合が、技の魅力や個性となってくるのだと思います。

 

 

それとは違う所で、悪い意味で、「攻めてない」思考方法は


 ・自分で自分の枠を決めてしまい、そこから出ない

 ・頭を使わない、判断しない

 ・事なかれ主義


なのだと思いますね。それはあまり、人生を楽しんでいるスタンスとは言えないのではないかと思います。

 

以上、「攻めてなきゃいけないのかな~」に対して、私が思った事、でした。