働き方改革の正解【めっちゃ長文になっちゃいました】

ちょっと大げさなタイトルにしましたが、「働き方改革」について纏めておきたかったので、書きます。(例によって駄文な上に、めっちゃ長文になってしまいましたが)

 

最初に、私がなぜこの「働き方改革の正解」というテーマでブログを書きたくなったかと言うと、だいたい以下三点が動機です

 

  • 昨今の「働き方改革に対する不正解」が気に食わない
  • 自社の「働き方改革」を進めるにあたり、考えを纏めて、残しておきたかった
  • 昨年(2017年)、ITmedia主宰の「働き方を本気で変える」セミナーにて
      お話させていただいた内容を、残しておきたかった

 

ということで、書きます。

 

さて、まず結論、ということで、

 

株式会社ソノリテ(現在九期目のIT&メディア企業)の代表である私が考える、「働き方改革」は、極めてシンプル。

 

「働き方改革」は、会社の強化のために行うべきものだと、思っています。


だから私が考える「働き方改革の成功」は、こうです。

 

 【結論】「働き方改革の成功」とは、会社が弱体化せず、強化されること


はい。

 

ここでもう、最初っから「働き方改革は、社員や国民の為のものではないのか?」という、反駁が聞こえそうなのですが

 

私は、「働き方改革によって、会社が強くならなければ、そんなものやる必要はないっ!」

 

って、思ってます。

 

「経営者」である私にとって、この「働き方改革」のみならず、会社に対しておこなう、あらゆる打ち手は、「会社の強化に繋がるモノ」でなければ、意味がない。

 

と思うのです。

 

ですので先のセミナーでも、

 

  「間違った働き方改革で 会社の能力を下げてしまう前に 考える事」

 

というタイトルのお話を、させていただきました。


会社の強化があり、経済の成長がある。経済が成長するから、国民が豊かになる。

 

この基本を忘れてはいけません。ですよね?

 

ただその、「会社の強化」ってヤツを、今までと同じように考えていたら、どうやらダメなんです。

 

だって日本は豊かな国になったんだし、経済は国際化しているんだし、少子化だし、そういう「環境の変化」の中で、今までのような「働き方」をしても、どうやらあまり幸せになっていかないよね。

 

だから抜本的な「働き方の改革」をして、「新しい環境」における「会社の強化」ってのを、考えましょうね。

 

それが、「働き方改革」だと思います。(例によって鍵カッコばかりの文章でゴメンナサイ・・・)


ですので、

 

 【結論】「働き方改革の成功」とは、会社が弱体化せず、強化されること

 

と、思うわけですね。

 

で、その「働き方改革の成功」を起すための、「働き方改革の正解」は、何なんだろうな・・・

 

 残業の禁止なのかな?

 残業時間が来たら会社の電気を消す事なのかな?

 月末の週末は皆で早退して呑みに行く事なのかな・・・

 

というお話を、書かせていただきます。

 


はいでは最初に、働き方改革について、いろいろな視点をもつ皆さんを想定してみたいと思います。

 

様々な考えを持つ人がいると思うんです。

 

例えば

  1. 某広告企業の事件は不幸な事だが、日本の企業が本質的に変化するのは難しいだろう
  2. なんでもかんでも「パワハラだ」などと言われたら、部下の育成なんて出来ないよ
  3. 残業するなって言われても、仕事が減るわけじゃないんだから、逆に隠れ残業が増えるんじゃないか?

 

と、比較的「長時間労働規制」という部分に着目し、ネガティブに考えている人もいるでしょう

 

また、例えば

  1. 介護をしながらでも働ける日本になったら本当に嬉しい
  2. 育児休暇申請を却下されたことがある。前からはやく変革すべき文化だと思っていた
  3. 自分らしく働きたい。日本では自分らしく働けないと思っていたが、ここで働き方が改革されるならとても嬉しい

 

と、活躍シーンの変革をポジティブに待ち受けている人もいるでしょう

 

あるいは、

  1. 私は仕事が大好きで生きがいなのに、なぜ残業する人間が悪のような言い方をされなきゃならないのだ!
  2. 自分でもっと勉強したいと思って会社に残っていただけなのに、残業するなと追い出されてしまった
  3. 私の仕事は人々の暮らしを支えている。私はそれを誇りに思っていて、仕事にフルコミットしている。働き方改革は「仕事の尊厳」を理解していない制度だと思う。

 

などと、現在の活躍に自信やプライドがある人にとって、高い献身性が批判的に捉えられる現状を、悲しく考えている人もいるかも知れません

 

また、企業経営者である私としては、とても悲しく感じる事ですが

  1. 「働き方改革」をうまく利用すれば、より「働かなくても給料がもらえる」制度だ
  2. 「働き方改革」を都合よく理解して、自分だけ楽をしたい
  3. 「働き方改革」があれば、やりたくない仕事を押し付けられたら「パワハラだ」と訴えれば勝てる

 

などと、「指示待ち、ぶら下がり」的社員がニヤニヤと“さもしい”期待をしている可能性も、残念ながら、否めません


さらには、会社で「働き方改革を推進する部署」に配属された人を、想定すると、

 

様々な立場で様々な意見を持つ社員達を束ね、それらを複合的に捉えた上で、なんとか自社にとっての「働き方改革の正解」を導き出さなければなりませんので、

 

それは結構(ある思考パターンにおいては)難易度の高い、問題ですので

 

もしかしたら、考えることを停止し、

 

  • 「働き方改革」は、「やらないといけない時代」という解釈
  • やらないと新入社員が入らないし、ブラック企業扱いされるのが恐いから、仕方なく、お付き合いで、やるしかない

 

というような結論になっていらしゃる事も、少なくないのではないでしょうか?

 


私は、「しかたなく~するしかない」という考え方は、「思考停止」と捉えるほうです。

 

そして「働き方改革」という課題に対しては、多くの企業において、とても多くの「思考停止」があるように思います。


【働き方改革の不正解1】「働き方改革」を思考停止で行うと失敗する


本ブログでは、以下のようなことを「働き方改革の不正解」と定義しようと思います

  1. 「働き方改革」は、社員が「働かなくても給料がもらえる」制度ではない
  2. 「働き方改革」は、会社が「ブラック企業と呼ばれないように、しかたなく実施する」制度ではない

 

まずそこを、はっきりさせましょう。

 

だってそれは極めて単純で、

 

 【結論】「働き方改革の成功」とは、会社が弱体化せず、強化されること

 

に、そぐわないからです

 

一応・・・言っておきますが・・・「なぜそぐわないと問題なのか」・・・(そんなこと解説不要だと思いますが、一応添えておきますが)

 

会社が弱体化すれば、普通、「その会社に勤めている社員」は不幸になりますよね?

 

また、弱体化した会社だらけになれば、その国の経済は崩壊し、不幸になる人が増えますよね?

 

当たり前の話です。

 

(あとで出てきますが)「成長と分配のメカニズム」が崩壊するわけです。


(そこを良~~く考えて行くと、例えば「ブラック企業糾弾」などのエモーションの延長線で、「働き方改革」を語るのは、稚拙であるとも言えるんですが、それはもうちょっと後に、振り返ります。)

 

はい。では次に、

 

まず、何か「働き方改革」に対する議論の「基底」を作ろうと思います。


つまり何を基底の考えにして、ここからお話を進めてくかということなんですが、

 

最初のよりどころとして、国政における「働き方改革」の定義を確認しておきたいと思います。


先日、2018年1月22日に行われた、第百九十六回国会における、「安倍総理の施政方針演説」をお聞きになられた方も、多いかと思います。

 

こちらに掲載されています

www.kantei.go.jp

 

確認していただけるとすぐわかりますが、早々に、「働き方改革」というキーワードが登場します。

 

施政においてトップクラスの課題と考えられていることが、よくわかります。

 

【重要】2016年6月に、「ニッポン一億総活躍プラン」の閣議決定がありました。

 

施政において「働き方改革」は、この「ニッポン一億総活躍プラン」のサブセットと言っていいと思います。

 

リンク

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ichiokusoukatsuyaku/pdf/plan1.pdf

 

「ニッポン一億総活躍プラン」とは、

 

少子高齢化に真正面から立ち向かう」「究極の成長戦略」であり、「あらゆる場で(家庭で、職場で、地域で)」「誰もが(女性、男性、お年寄り、若者、一度失敗を経験した人、障害や難病のある人)」活躍できる「成長と分配の好循環メカニズム」を提示である。としています。

 

それらの大きな目標として「名目GDP600兆円」があり、

 

私たちの国はそこに向かうために、「消費底上げ」「投資拡大」「労働参加率向上」「多様性によるイノベーション」を起そうとしています。

 

それらの施策に対し「生産の側面」から切り取ると、出てくるキーワードは、「子育て支援」「介護支援」「高齢者雇用促進」「非正規雇用労働者の待遇改善」「最低賃金の引き上げ」であり、「少子化対策の側面」からのキーワードは、「希望出生率1.8」「介護離職ゼロ」等です。

 

「働き方改革」は、上記のキーワードを実現していくための、具体的施策(長時間労働の是正等)の総称であるわけです。

 

よって私は、

 

経営者は、この国政の動きの全体像を見つつ、その「風向き」を確認しながら、会社の「働き方改革」を、正しく、その大きな風向きに沿った方向に、進めていく事に価値がある(というか、効率的である)と考えてます。

 

決して、

 

「最近はネットで何でもかんでも悪いウワサが拡散してしまうし、業界が“そう動くなら”、わが社も取り残されてはマズいので、働き方改革を『やらないといけない時代だから』やっとかないとな・・・」

 

では、無いのだ、と、考えています。


私たち経営者は、

 

と、「働き方改革」で、「究極の成長戦略」の一翼を担う事を、期待されているわけです。

 

そのような「風向き」であるわけです。


そこをまず、基底的に捉えましょう


【働き方改革の正解1】:働き方改革の目的は少子高齢化に対抗する「究極の成長戦略」が基底


で・・・【正解1】を踏まえた上で、現状認識を振り返りたいのですが

 

「働き方改革」という言葉で表現される「改革」で、よく言われる代表的なものは、以下のようなものですよね。

  1. 長時間残業の規制
  2. 育児、介護などの為の短時間労働や休暇、補助の充実
  3. 在宅勤務など時間場所に縛られない働き方の実現


で、それらを各会社が「取り入れたり(改革)、取り入れなかったり」と、なるわけですが・・・

 

そもそもこれらは、いったい何のために、改革されるべきものなのか? ですが


ここで、短絡的に

  • 過労死をさせないため
  • 高齢者や女性を労働に参加させるため

 

などと考えてしまい

 

それを働き方改革(の不正解)として

 

  • 夜●時になったら一斉に会社の電気を消す
  • 女性の採用率を上げる
  • ●●手当を出す

 

というような手段をとっていませんでしょうか?

 

それはもう、「手段の目的化」ですね。

 

そのような「手段の目的化」は、企業が生来持っていた成長要因やコア・コンピテンシを破壊してしまう、「会社の弱体化」を招く可能性があります。

 

それは皆さん、お感じになっていると思うんです。

 

例えば「うちの会社なんてモーレツ社員の残業や、飲みにケーションなんかの激烈指導で成り立っていたのに、「働き方改革」で、弱体化しちゃうんじゃないの?」

 

と、腹の底で、感じたりしているわけです。

 

それでは、ダメで・・・ダメです。「思考停止」です。


繰り返しますが、「働き方改革」によって

 

【正解1】少子高齢化に対抗する「究極の成長戦略」を、し、【結論】会社が弱体化せず、強化されること

 

を、行わなければ、意味がありません。


では、どう考えるか、どう考えを詳細化していくと、正解に近づけるアクションを見いだせるか。

 

つまり「働き方改革の正解」の話に入って行こうと思いますが


さて、ここで私は、「社員」に着目します。

 

「あれ?齋藤お前は前半で、働き方改革は会社の為にやるんだ!社員のためじゃないって言ったじゃないか!?」

 

と、聞こえそうなんですけれども、

 

そうではなくて、ですね。目的はあくまでも「会社の強化」です。

 

で、その「会社の強化を」・・・「働き方」を「改革」することによって、行う(会社を強化する)のです。

 

ですから、そこの主役は「社員」です。


つまり「社員が強化される」のが、「正解」


【働き方改革の正解2】:働き方改革は「社員が強化される」ものであるべき


ここ、重要です。ここらあたりが、ちょっと混乱している場合が多い。


なんとなく、ですね

 

「働き方改革は“社員”の“働き方を改革”するものであって・・・今まで以上に“社員”の生活や状況に応じた、“働き方”を、“自分らしく”出来るんだ!」

 

みたいな言葉を、進めて

 

「私らしく!働けるんだ!!」

 

みたいな事で・・・それは良いんです。良いんですけれど、

 

「休みたいときに休めたり、働きたい場所で働けたり、自由度が高くなるんだ!」

 

これもOK!OKなんですけど

 

さらに

 

「休みが増えるんだ!仕事が楽になるんだ!不労所得が増えるんだ!」

 

この辺りから、どうも、間違え・・・間違え出す。

 

この「間違え出す」感じが、甘やかしとか弱体化に擦り寄っていく形になりそうな、ここが、危ない。

 

あくまで「働き方改革」によって「会社を強化」するために、「社員の強化」を行わなければ、意味がない。

 

じゃあまあそれは、わかったとして

 

ではでは、「社員の強化」とは、具体的には何か?

 

私は、「働き方改革における社員の強化」を単純化すると、以下2つだと思います

  1. 社員のヤル気が上がる
  2. 優秀な社員が入社する

どうでしょうか?

 

(例えばここで、「(働き方改革による)社員の強化」を「会社に滅私奉公する社員教育をする」などと考えられていたら、まったく論外になってしまいますwwww)


逆に言うと、「働き方改革による会社の弱体化」(働き方改革の不正解)は、

 

  1. 社員のヤル気が下がる
  2. 優秀な社員が辞める

 

と、単純化することが出来ます。

 

どうでしょうか? 同意していただけますでしょうか?

 

  • 働き方改革に成功すると、社員のヤル気が上がり、優秀な社員が入社する
  • 働き方改革に失敗すると、社員のヤル気が下がり、優秀な社員が辞める

 

と、いう事ですね。

 

アナタの会社の「働き方改革」(例えば残業時間の抑制や各種制度、手当の強化など)は、果たして、社員のヤル気に貢献しているか、「優秀な」社員の獲得に寄与しているか・・・

 

もしかしたら逆の現象が起きている可能性はないか・・・


で、それを考えるにあたり

「社員のやる気」というモノサシと、「優秀な社員」というモノサシ、この二つを考えて行こうと思うのですが。


それを考えるにあたり、「社員」を、4つに分類して考えてみようと思います。


以下のチャートをご覧ください。

 図:人財の4分類

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縦軸に「変革的/成長的or保守的/硬直的」


横軸に「仕事への忠実度あるいは会社への依存度」のようなものを置いてみました。

 

これは、縦軸が「優秀な社員(上が優秀、下が平凡)」だと見てもらえれば結構です。

 

では横軸は何かというと、これこそがまさに「働き方改革」の1要素で、今まで「モーレツ社員」と定義されていた人たちが、左側、これからの「会社以外の生活が(も)大切」が、右側、だと思って、見てください。


そうすると、「社員」が、4つに分類できます。

 

  • A)エリアは「成長的(優秀)で、会社に依存度が強い社員」
  • B)エリアは「成長的(優秀)だが、会社にさほど依存していない社員」
  • C)エリアは「会社に依存度が強くて硬直的(平凡)な社員」
  • D)エリアは「会社に縛られていない、かつ成長意欲もない社員」

 

こんな感じです。

 

それぞれA)B)C)D)4つのエリアの「社員」を、一つずつ解説します。


A)成長意欲も高く、仕事への貢献度も高い(左上):【高度プロ人財型社員】

 

ミッションにフルコミット!プロとしてのプライドが高い!

 

この人財が会社に沢山いると、経営者は本当にありがたいですね。進んで働き、品質もよく、モチベーションも高く、責任感も強い。そんな存在です。

 

残業やら困難な問題もものともせず、まさにプロフェッショナル。そんな存在です。  


B)仕事意欲は高いが、仕事以外の人生も大切(右上):【ワークライフバランス型社員】

 

高度な能力を活かして働きながら、仕事以外の人生も大切!

 

優秀だけれども、介護や子育などの私生活、あるいは副業や「別の顔」の生き方も大切。あるいは身体が弱かったり、何か病気の治療などをしている人も、ここに該当するでしょう。

 

このような「優秀人財(あくまでも優秀が前提)」が、今まで「働く(働きながら、xxをする)」というような世の中では、ありませんでした。

 

「働き方改革」はこのような「優秀人財」に対して、パーシャルなワークシェアリングをうまく行いながら、ビジネスシーンに多数参画してもらう事(あるいは今までであれば、ライフイベント等の影響で、ビジネスリタイアするしかなかった選択肢を、パーシャルな形での「働き方」を増やす事)で、トータルで「優秀人財」の労働力を確保し、「少子化に立ち向かえ!」と言っている・・・わけですね。

 

これが「働き方改革」の正解の1つなわけです。


C)保守的会社人間(左下):【企業戦士型社員】

 

仕事は根性!愛社精神なら120%!24時間働けますよ!

 

ここにひとつ、問題があります。

 

私の定義する、この「企業戦士型」は、「仕事」というよりも「会社」に対して強く従属していたり、依存していたりします。


「仕事」の能力というよりも「会社員」、酷い言い方をすると「社畜」的な没個性や、「派閥」といったようなものに、最適化された存在、です。

 

「滅私奉公」というような言葉が似合う。独立した人財というより、忠実なシモベ。

 

前世代的で未成熟な世界では、会社と言う「組織」には、「組織」そのものに力があり、人はそこに従属することで「安定する暮らし」を得ることが出来ていたわけで、その「組織」に属することは「滅私」つまり自分を殺し、組織に「奉公」することで成り立つと、していたわけですね。

 

そしてこの「企業戦士」は、個人は、「優秀ではない」のです。そこが問題。

 

組織に忠誠を誓い滅私を誓う。お客様は神様。「愚直」という言葉が良く似合う。

 

会社様は神様。先輩のいう事は絶対。会社の色に染まった私こそ、会社が必要としている人財だと思っている・・・


このC)人財が、大問題


この存在は、会社に「忠誠滅私」しない人の存在を許さない。

 

なぜなら、それが自分の存在意義であり、それを奪われたら自分は会社にとって、「必要のない人」になってしまうから。


そうなると、「滅私」を求めるこのC)人財において、例えば「B)ワークライフバランス型人財」は、「会社にフルコミットせず自分のわがままを押し通そうとするダメ人間」にみえるわけで、

 

そこで(C人財からB人財に対する)パワハラが起ってしまったりする。

 

わかりますでしょうか?

 

例えば

 「男が育児休暇なんか取得したら、以後の出世に影響が出るよ」

 

 なんて発言は、C)人財がB)人財を、巻き込もうとする、ハラスメント的な動き・・・・

 

これが「働き方改革の大問題」なんです。


ですので「働き方改革」の本質の一つに、この「C)企業戦士型人財」を「悪」と定義する必要が、あります。

 

しかしこれが、多くの企業にとって、とても難しい。

 

難しい理由はいくつもありますが、まずC)人財はA)人財とを見分けることが難しいということがあります。

 

また、そもそも「働き方改革推進セクション」の管理職がC)人財であることが、少なくないんです。

 

皆さんの会社の「働き方改革推進セクション」は、「人事部」から作られたものでは、ありませんか?

 

私はそれを否定するわけではありませんし、全ての会社がそうだとも言いませんが・・・

 

古い会社の人事部って、「企業戦士」を作る為の組織だったり・・・してませんかね?

 

だとしたら、「働き方改革、何したらいいかわからない」と、「働き方改革推進セクション」の人が悩んでいる「真の理由」というのも、少し見えて来たり・・・


D)成長意欲もないし会社なんて嫌い(右下):【指示待ち型社員】

 

言われたことはやります。言われないことはやりません。

 

この社員の存在は問題です。そんな事は“いわずもがな”かと思います。

 

それにこういう社員の存在は、「働き方改革」以前の問題です。

 

「ゆとり社員」「腰掛け社員」「給料泥棒」「窓際族」いろいろ言い方はあります。

 

こういう社員にとって、最大の興味は「いかに働かず、いかに高い給料をもらうか」です。

 

企業に入社できた既得権を最大限に活用するために、「働かないで、給料をもらう。給料泥棒」を、続ける。

 

多くの人間の本質において、人がそうなってしまうのは、むしろ自然と言えます。つまりそれが「平凡」な人間の姿、です。

 

「働き方改革」がこの「平凡」に支配されてしまえば、会社は弱体化していきます。

 

会社の既得権益が、「平凡」に寄生され、食いつぶされてしまうと言っていいでしょう。

 

 

はいこれが4分類です。

 

この4分類に対し、「働き方改革の不正解」がどう起きるかというと、まず

 

 「社員のヤル気が下がる」

 

については、例えば

 

  • やりたい仕事を責任をもって完遂したいのに、現場を知らない管理部門がやってきて、「残業しないで帰れ」と命令されてしまう
  • ぶら下がり社員(D人財)を叱りたいのに、「パワハラ」扱いを恐れた会社指示により、何も出来ない

 

などが、「不正解」として起こる。その結果として、

 

 「優秀な社員(主にA)人財)が辞める」

 

と、なる。


あと一応解説しておきますと、働き方改革を「しない」と、何が起こるかと言えば、

 

 「社員のヤル気が下がる」

 

については、先に例も書きましたが、

 

 「男が育児休暇なんか取得したら、以後の出世に影響が出るよ」

 

なんて発言を、C)人財がB)人財に行い、B)人財が結果として会社を辞める・・・・

 

それと、もう一つ、

 

「うわべだけの働き方改革」というのもあってですね。

 

これは例えば「(うわべだけは)残業時間制限をして、その結果として、隠れサービス残業が増える」ような形ですね。

 

さてこれです。

 

これは、何が起きるか?

 

ブラックな企業経営者ならこう誤解するかも知れません。

 

「働き方改革で、サービス残業が増えたなら、労働時間は減っていないから、会社は弱体化しない」


いえいえ、そうではない。

 

現実には、「働き方改革の不正解」が強化されるんです。

  • やりたい仕事を責任をもって完遂したいのに、現場を知らない管理部門がやってきて、「残業しないで帰れ」と命令されてしまう
  • 仕方がないから、自宅持ち帰りなどで「サービス残業」する。
  • C)人財なら、他の社員(B人財)にもサービス残業を強要する
  • A)人財なら、自らの犠牲に対して、他の社員(D)人財)が「自分の権利を主張」することに不満を感じる

 

これらにより、本来会社にいて欲しい、A)人財、B)人財らに不平不満が溜まり、C)人財やD)人財ばかりが「恩恵に預かる」ような会社が出来上がってしまう。

 

結果として

 「社員のヤル気が下がる」
 「優秀な社員が辞める」

 

が、起こり

 

  • A)B)人財が減る
  • C)D)人財が増える


であれば、これはもう「会社の弱体化」となってしまうわけです。

 

【働き方改革の不正解2】「働き方改革」をうわべで実行すると、会社が弱体化する

 

このような「働き方改革の不正解」は、正さなければならない。

 

どうやったら

  1. 社員のヤル気が上がる
  2. 優秀な社員が入社する

 

が、起こり

 

  • A)B)人財が増え
  • C)D)人財が減る


となるような、働き方改革の正解。に導けるのか?


まず私は、重要なキーワードに、

 

 「自主的な選択」

 

を上げます。


【働き方改革の正解3】:働き方改革は「優秀な社員が働き方を自主的に選択できる」ものである


例えばA)人財【高度プロ人財型社員】において、自分が残業するかしないか、自分の裁量に任せて欲しい。という願望を持っているはずです。

 

それと同時に、例えば「このままワーカーホリックのように働き続けるのではなく、ある程度の年齢になったら、仕事量を減らし、後進の育成をしたい」などという願望もあるかも知れません。

 

また例えば、家族に何かあって、自分がその介護にあたる必要があるなど、様々なライフイベントに伴って、「様々な働き方が選択できる」ということこそが、A)人財が会社に強いエンゲージメントを感じる「働き方が出来る会社」であるのだと思います。

 

つまり、逆に言えば

 

B)人財(【ワークライフバランス型社員】)は今、世の中に沢山いて、その能力が上手くビジネスシーンに活かされていない可能性がある、と、いう事も出来ますね。

 

優れた社員だった人が、例えば出産などを契機に現場から離れ、その後就業復帰する場合、あまりキャリア時代に培ったノウハウの活かせないワークに就かざるを得ない、などという局面は、現実にけっこうあるわけです。

 

このA)人財とB)人財 は、正しい「働き方改革」が実現出来た世界では、同一の存在だという事が出来ます。


その「正しい働き方改革が実現出来た世界」とは、「さまざまな人生の状況において、そのときの「働き方」を、自主的に選択し、それが周りに尊重されている」状況と言う事が出来ます。


これが理想的な、「働き方改革の正解」であるべき、です。

 

これらの「働き方の選択」は、例えば働く時間であったり、働く場所(在宅勤務など)であったり、就業契約(副業の自由化など)であったりするわけですね。

 

「“優秀な社員”が、さまざまな“働き方”を選択でき、それが“周りに尊重”される」

 

という事です。

 

ここまで、合意していただけますでしょうか。


合意していただけた・・・として

 

この「働き方改革の正解」文章には、2つの重要なキーワードがあります。それは

 

  • キーワード1)「優秀な社員」
  • キーワード2)「周りの尊重」


です。


ここで、日本の会社の多くは、「社員」が「多様な働き方(言うなれば生き方)」を
することに、「寛容ではなかった」と言い切れると思うんですよね。

 

そこはC)人財やD)人財が生き易い、「命令型の労働市場」でしかなくて、それでは
少子高齢化を前提とした「成長」など出来るわけがないんです。

 

そこに着眼しなければいけない。「着眼しろ」と「働き方改革」は言っている。

 

「働き方改革」とは「優秀な人財」が「命令型の労働市場」の中でモチベーションが下がっている現状の打破である。

 

と、少なくとも「会社の強化」という観点からは、観なければならないハズです。

 

つまりそこに、本質的に必要なものは

 

長時間労働の禁止」と言うよりは、「様々な働き方に対する、尊重」でなければならない。

 

日本は社員が「過労死」するほどに、「労働命令や義務に対して(例えば自分の健康を守るために)拒否することが尊重されず、寛容されない」という「働かされ方」に支配されいているわけです。


【働き方改革の正解4】:働き方改革は「社畜的働かされ方」という「支配」からの卒業

 

  • 何時間だって、働きたければ働けばいい
  • 休日だって、休みたくなければ休まなくっていい
  • 「支配的空気」がなく、尊重されているなかで、「働き方」を選ぶ

 

これが、少子高齢化を前提とした「成長」であるという「流れ」と捉えるべきである・・・・


・・・・ん?

 

さあ、この辺りで、そろそろ


「齋藤、ちょっと待て!」


「なにを理想論を言っているんだ!おまえは!」


と、一部からそういう声が、聞こえてくるような気がします。


齋藤、おまえさっき、自分で「D)人財:【指示待ち型社員】」の説明で、

 

多くの人間の本質において、人が「言われたことはやります。言われないことはやりません。社員になる」のは、

 

  むしろ自然な、「平凡」な人間の姿、だ


と、言っただろ?


そんなねぇ・・・「働き方改革は優秀な社員の為の改革だ」なんて言うけれど、おまえのソノリテ社はそうかも知れないけれど、

 

多くの会社の人事部は、みんな苦労しているんだよ。

 


そう、たしかに

 

我々は平凡な世界に生きる平凡な人間である。


そもそも多くの社会人にとって、「会社」とは何であるか?なぜ就職するのか?・・・


それは安定的に生きるためであって、「自己実現」などを求めている人は、現実には
少ないのではないでしょうか?

 

そんなねぇ、優秀な人は、最初から安定的なサラリーマンなんかに、なんねーんだよ。

 

あるいは若かりし頃、自分は可能性に満ちた未来のある存在である・・・と、信じられていたかも・・・

 

でももうそんな年齢ではない。自分を「優秀な人財」に鼓舞するような夢は、もう見れない・・・

 

だからねぇ、自己啓発セミナーみたいな、やりがい搾取詐欺師みたいな、「夢、自己実現、未来」みたいな歯の浮くようなセリフじゃ、みんな働いていないんだよ。


また、仕事とは

 

仕事とは、「やりたいこと」をやっているわけではない。

 

逆に、「やりたくないことを、我慢して、辛抱して、やる」事こそ、人の為に成り、世の為になる。それが人助け。仕事の本質。

 

多くは、「優秀な人財が優秀に働く」のが仕事・・・ではなく、「誰かの為に、我慢して働く」のが仕事。

 

その「仕事の本質」あるいは「社会の本質」言うなれば「大人の世界」を、誰かが教えてあげるんだよ。

 

 「社会は甘くない。仕事は甘くない。」のだ


と、声が聞こえます。

 

つまりですね、全員 “凡人”なわけです。


凡人であるC)人財が、凡人であるD)人財を、鍛えて、「社会に適合」させてきた。


それが、「学生気分を正し、社会に貢献できる人を、育てるという事」


なのだ!


・・・・


・・・・・だ と


思うなら、やはりアナタは、C)人財だと、言わざるを得ない。

 

アナタの知る限り、「仕事」とは「出来ればやりたくないが、やらなければならない義務」であり、

 

アナタの知る限り、「働く」とは「誰かの命令に従う事」であり、

 

アナタの知る限り、「社会に適合する」とは、「個人的なワガママを言わなくなる事」である

 

ならば、


アナタがそうした、C)人財的な思考を植え付けられて、「自己改革」出来ないのだとするなら、やはりそこには、思考停止が存在している。

 

そうなんです。ここで先の「ニッポン一億総活躍プラン」から紐解き直しましょう

 

日本が目指す「究極の成長戦略」とは、「少子高齢化に真正面から立ち向かう」「成長と分配の好循環メカニズム」を創り上げることであり、

 

その具体的打ち手とは何か?

 

それは

 

「あらゆる場で(家庭で、職場で、地域で)」「誰もが(女性、男性、お年寄り、若者、一度失敗を経験した人、障害や難病のある人)」活躍できる場を提示し、

 

「労働参加率向上」と「多様性によるイノベーション」を起す事、なんですよね。


私たちが、この「成長」をするために、「働き方改革」で「会社の強化、社員の強化」をするために行うべきことは・・・なにか


その打ち手とは、先の人財4分類ごとに、こんな感じになるはず・・・です。


A)【高度プロ人財型社員】の為の、働き方改革

  • パフォーマンスが評価される評価軸があり、ヤリガイを実感できる。(「働きたくない人向け働き方改革」で「仕事人間は評価されない時代になった」といった誤認を防ぐ)
  • ライフイベント対応や環境変化に対し、多様な働き方の選択が出来るようになったという「働き方改革の正解」を正しく啓蒙され、表層化していなかった不安をケア出来ている。
  • 徹底的な健康への配慮

B)【ワークライフバランス型社員】の為の、働き方改革

  • 多様な働き方の選択を率先して充実している姿が社内外にPRされ、本人は「肯定感」が得られ、社外から「優秀なB人財」が流入る状況を作る
  • 社内の別人財から(社外活動に対する)完全な承認を感じる

C)【企業戦士型社員】の為の、働き方改革

  • 保有する既得権益(役職など)を取り上げ、時代の変化に対する「ただしい期待」を正確に啓蒙する
  • 個人や過去の行動を否定されているのではなく、変化を期待しているという啓蒙と対話

D)【指示待ち型社員】の為の、働き方改革

  • 「自律的に行動し会社を変えられる」体験の提示。体験の提示により変化を期待する(例:C)人財からのパワハラに対して社内コミュニティを作りケアしたり対処することを経営が承認するなど)
  • 適職へのジョブチェンジ斡旋(社内、社外)

 

もちろん、会社ごとに、A)B)C)D)人財それぞれに対する打ち手は、違ってくるハズなんですが

 

何しろ大事にしなければいけないことは、

 

最低でも会社には、A)B)C)D)の4種類の人財がいて、それぞれの人財に対して、別々の啓蒙をしていく必要があるんですよ・・・という事です。


その「種類別の啓蒙」にしくじると、最悪の場合、「会社の弱体化」が起きるという
事ですね。

 

わかっていただけましたでしょうか?

 

では、この4人財に個別にどのような打ち手をとるべきか?


この、「働き方改革の打ち手」というお話について、まだまだ書きたい事は、沢山あるのですが・・・

 

もうだいぶ長くなりましたのと、ここからは個別の会社の事情という話が絡んでまいりますので、

 

もう、止めます。


で、話を変えます。(すみません。長くて)

 

ここで、最終的に、私が一番大切だと思っている事に、話を変えて書いておきたいと思います。


それは、このブログの前半に、

 

“私がなぜこの「働き方改革の正解」というテーマでブログを書きたくなったかと言うと”と書きだした、一点目の

 

  • 昨今の「働き方改革に対する不正解」が気に食わない

 

という点のお話、です。

 

私は何が、「気に食わない」 か、というお話なんですけれども・・・


今までずっと、「働き方改革」というお話を、していますよね?

 

でも、私は経営者だから、つい「働かせ方改革」というお話になってしまう。まあ、そこは、許してください。

 

でも、昨今の「働き方改革」の議論は、もうまるで、「休み方改革」のようではありませんか?


これ、なんででしょう?

 

どうして、「働き方改革」が、「休み方改革」になってしまうのか?

 

どうして、

 

「誰もが(女性、男性、お年寄り、若者、一度失敗を経験した人、障害や難病のある人)活躍できる」世界を作る、労働環境を改善する・・・

 

という話にならずに、

 

どうして、

 

サービス残業、過労死、パワハラブラック企業を糾弾し、ぶら下がっていれば給料をくれる会社をホワイトと呼ぶ・・・」

 

みたいな、違うモードのお話になってしまうのか?

 

そこが、「気に食わない」の、です。


私はそこに、先の「D)人財」の存在、と、「大衆」を、感じざるを得ない。


改めまして、D)人財、ですが

 

D)人財において「就職」は、「せざるを得ないもの」であり、「職業」は、「出来るだけ都合よく、収入を得るためのもの」であり・・・


その存在が忘れている(あるいは恐れている)「仕事:会社:労働」に関する、以下の視点が、本当に「気に食わない」

 
D)人財が忘れているのではないかと思う事

  • 仕事とは、お客様にいじめられ、ライバルにいじめられ、それらに知恵で勝った(強き)者が、生き残る。
  • 大人になるということは、与えられている存在から、与える存在になるという事である。
  • 他責的に生きるよりも自責的に生きるほうが高潔である。


このようなこと。

 

このようなレベルのお話。

 

どうも「このようなレベルのお話」が、あまり重要視されず、

 

どうもこの、【D)人財にとって】都合のいい「社会」みたいなものに、成り下がる。

 

そんな「休み方改革」が、行われがちな気がして、その辺りがどうにも、「気に食わない」


もちろんですね、私は「サービス残業」「過労死」「パワハラ、圧迫」を、肯定しているわけではない。

 

「競争の激化」の中で「落ちこぼれて行った人財」に対し、人権を蹂躙するような社会を、作りたいわけではない。


ただ、こう「生きること」とは「死なないこと」とは、違う。

 

つまり

 

「どう生きるか?」という問いは 「どう合理的に生命を維持するか?」という問いではない。

 

もうちょっとこう、「人生において何を成すか」というような問いに対し、興味が薄い。というのか・・・

 

全員がこう・・・凡人化し・・・


・・・

 

止めます。オッサンのグチっぽいので

 

ただこの、D)人財の「凡庸なモード(死にたくない。楽したい。怒られたくない。出来れば炬燵で寝ていたい)」を中心に、「働き方改革」を語りだせば、それが「ブラック企業糾弾のエモーション」の延長線上になってしまう。

 

なってしまう、と

 

というか、「なっている」の、ですが。

 

・・・なっているというのは、だれかが、「している」のです。

 

つまり「政治主導」となると、やはりそこには「衆愚政治的対応」というものが発生しやすく

 

結果として、「大衆的発想」に、いっけん寄り添っているような動きのなかで、「狙っている事を、狙いやすくする」というのが政治家であるなら、そのような行動が、とられてしまう。

 

だから・・・

 

「働き方改革」これは、「改革」のハズなんですよね?

 

それが、「改革」に、なっていない。なぜなら「衆愚的」に扱われているから。


この、日本人の「衆愚的」なものを前提とした、「大衆的」「迎合的」「幼稚」「事なかれ主義」みたいなものが、

 

「自立的で国際的で高潔な」ものに成らないと、本当にグローバリズム少子化
に対抗できないよ、「ニッポン一億総活躍プラン」が現実化しないよ・・・という事

 

この「改革」は、衆愚を高潔に、つまりC)人財やD)人財は、もっと本質的にA)人財やB)人財を目指さないと、

 

「大衆的」で「凡庸」な「ゆでがえる」が、「大企業志向」のようなものに、呑みこまれて・・・ああ、つまらない。つまらないもので終わる・・・


・・・そこがどうやら私は「気に食わない」

 

・・・

 

気に食わなくて・・・本当に悶々としていたのですが、

 

福沢諭吉「学問のススメ」

 

私は今、「学問のススメ」にシンパシーを感じています。

 

幕末の日本の無知に対し、国家の独立の為、国民は道理を知る必要がある。一人ひとりの国民は才知と徳行を磨くべきである。

 

と、言うような


一人一人の社員が、「才知と徳行」を持つものであるならば、自然と会社は強くなるでしょう。

 

「働き方」は「才知と徳行」を磨いた、A)人財、B)人財の為のものとなるでしょう。


「島国ガラパゴス」で安穏と生き、経済成長の庇護に漬かりすぎた茹でガエルが、凡庸に

 C)人財 vs D)人財

 (ブラック vs ホワイト)

 

な議論を、繰り返していても

 

私は、どうにも、「気に食わない」


だから、思うんです。

(はい、ようやっと、結論です)


 「働き方改革の正解」は、「学問のススメ」に、書いてある

 

 

 

うちの会社は役職制度をやめました うちの会社には上司がいません 部下もいません

2017年7月1日付けで、うちの会社(株式会社ソノリテ)は、役職制度をやめました。

 

役職制度ってなんのことかと言うと、部長とか課長とか係長とか、執行役員とか、そういうものを、廃止しました。

 

だから今月から、うちの会社には上司もいないし、部下もいません

(一部希望者は、上司を自分で選び、部下になれる)

 

2017年3月1日から、4ヶ月にわたり戦略会議を行い、社員の有志と検討を重ね、結果、そうしました。

 

なんでそうしたかと言うと・・・結論から言うとですね。

 


・・・いや、結論からよりも

 


やっぱりゼロベース思考が好きだから、ゼロベース思考で説明しようと思うんですが、

 

会社ってただの人間の集合だと思うんですけれど、それで、なんとなく「ミンナで金儲けしようぜ~」っていう集合だとしますね?

 

ここ大事なんでもう一回言いますけど

 

 「ミンナで金儲けしようぜ~」

 

って集合だと、します。

(本当は株式会社ソノリテの経営理念は「社員の成長」なんで、「ミンナで成長しようぜ~」なんですけど、成長だとなんだか偽善っぽいので、 ここでは「金儲け」にしておきます)

 

で、

 

 「ミンナで金儲けしようぜ~」

 

って集団が出来上がった時に、

 

 「じゃあお前が係長ね。お前課長ね。お前一番年長者だから部長やって。」

 

とかね、なるんかと。

 

ならんような、気がするんですよね

 

どうなるかというと、

 

 「おまえ友達多いから営業やって。おれ手先が器用だから開発やるわ。おまえリーダーシップあるから全体監督やってよ」

 

とか・・・まあそうなりますよね。たぶん。

 

だから

 

じゃあなんで「会社」となるとですね、部長とか課長とか係長とかそういう、役職がいるんだろうな~と思うわけですよ。うちの会社もやっぱ「 役職」あったわけだし

 

なんでやねん?

 

なんで会社には「役職」があるんだろうか?

 

習慣? 模倣? 過去の成功体験の模倣・・・

 

昔から会社というものには組織というものがあり、組織にはそれぞれの「階層」にHUBのピン止めとなる「役職者」が必要である。これが情報 伝達や意思決定のカナメとなるのである。

 

と、

 

まあそう思って、たぶん多くの会社には「役職」があるのだろう。

 

ではその「役職」ってやつは・・・、なぜゼロベースで「ミンナで金儲けしようぜ~」としたときに思考した時には、必要と思わないのだろうか?

 

まあ、そこの話ですね


恐らくは、こんな答えが一般的な脊髄反射の答えなのではないだろうか?

 

「良い時はいい。組織や会社には良い事ばかりではなく悪いことも起きる。想定外の事も起きる。そういう時に責任者や権限者をはっきりさせて おかないと意思決定が鈍る。だから組織には役職者が必要だ」

 

こんな感じ

 

例えばこれが、会社ではなくて、政治だとしましょうか?

 

政治だと、自治体の長(村長、町長、市区長、知事)なんかがいますね。

 

これらの役職者に、その自治体の自治権が委ねられます。その自治体のなかで、どうやって富を分配するか、負を負担しあうか、そういう事を、決定します

 

だから人の集合には、なんらかの「長」が必要で、持っている資産や負債について「管理」する・・・

 

はい出ました「管理」

 

(中央集権的管理において配下が平均的安住を享受するといったような感覚・・・)

 

これってどちらかというと、「複数の人間が多様な立場で存在し、それらがどう共生するかをジャッジメントする責任者権限者があった方がよく、それが必要で、それは選挙のような民主的な手段で決定する」みたいな世界だから・・・

 

「ミンナで金儲けしようぜ~」というフィーリングと重ねてみると

 

「金儲け」したらそこに「資産」が生まれるし、そもそも「労働」というものを、皆で「分担してやっていく」という「負担し合い」が発生するから

 

「やっぱほら、儲けた金をどう分配するかとか、そもそも労働をどう分担するかというような事を決めるときに、「長」が必要で、その「長」が 「管理」するんじゃないの?」って、話になる

 

・・・と、なると

 

最初の「ミンナで金儲けしようぜ~」の話に戻ると

 

「おまえ友達多いから営業やって。おれ手先が器用だから開発やるわ。おまえリーダーシップあるから全体監督やってよ」

 

「ああいいよ」「わかったよ」「楽しそうだね」

 

となって

 

会社をはじめて、働き出す

 

と、すぐにこういう事がおきる

 

 「なんだよ営業サボりすぎだよ!」

 「うるせえな開発の品質が悪すぎるから売れねえんだろう!」

 「売れるものが少ないし売れないものが余り過ぎなんだよ!監督の監督責任が問われるよ!」

 「違うだろう営業の販売予測が大きく違ったからだろう!」

 

そして、それぞれが、会社活動を行った上で得た利益について

 

 「会社の利益の源泉は営業。開発は不良を出し、監督は不良在庫を出した」

 「開発は現在持ちうるリソースで最高の結果を出した。営業はもっと利益を出せたはず」

 「不良在庫は各部署の予測と実績の乖離によるもの。監督部署はベストをつくした」

 

などと、それぞれにポジショントークを始めるわけですよね


で、それを纏め、分配や分担を決定するために、「長」が必要なわけだと・・・

 

だから

 

 「ミンナで金儲けしようぜ~」

 

と、集合した段階では、「役職」は必要ないんだけど、動きたしたらすぐに、「長」が必要になってくる・・・

 

というような説明は、いったん成立するわけです。


・・・


・・・多くの会社が、上記のような理論で、「組織」「役職」のようなものを設けているのではないでしょうか?

 

・・・(好きじゃない)

 

 

・・・ダメ押しで、もうちょっと極端な例を、放り込みますと

 

戦場における軍隊が、やはり説明としてはすごく適切です

(以下、戦争を模した例えをします。心情に合わない方はご自身の判断で読まないでください)

 

軍隊組織の単純な例を、以下にあげます

 

1)一万人の軍隊がいる

2)一人の軍隊長がいる

3)軍隊長の命令は、絶対である

4)2千人毎、5つの部隊に分かれている。A/B/C/D/E部隊とする

5)それぞれに、a部隊長、b部隊長、c部隊長、d部隊長、e部隊長、がいる

6)部隊長の命令は、それぞれの部隊の中で、絶対である

 
軍隊って、こんな感じで組織、したいわけです

 

なぜか?

 

答えは明解です。戦場では人が死ぬからです。

 

ここに戦場があるとします

 

敵が3つに分かれています

 

 ・右に谷があります。右には、たぶん3千人くらいの敵がいるように見えます

 ・左に山があります。左には、たぶん2千人くらいの敵がいるように見えます

 ・真ん中には平地があります。真ん中の平地に1万人くらい敵がいるように見えます


敵は総勢で1万5千人

 

こちらは1万人

 

だから勝てない・・・ではなく

 

軍隊長が左の山を攻め落とそうという作戦を立てます。

 

山の上からの攻撃は山の下からの攻撃にくらべとても有利で、もし山の上を攻略出来れば、この人数的に不利な戦いに勝てるかも知れないからです

 

計算を単純化するために、山の上にいると、平地の人より2倍強く、谷の人より4倍強いとしましょう


さて軍隊長は、

 

 ・山の戦に強い、A部隊とB部隊、併せて4千人を、左の山に向かわせます

 ・山の上にいる敵は2千人で、A部隊とB部隊は合わせて4千人ですから、山の上にいるほうが2倍強いとして、双方が全滅します

 ・そして残るCDE部隊(合計6千人)で山の上を占拠し、平地の1万人と谷の3千人に対し、山の上から攻撃をします

 ・計算上は、CDE部隊の500人が生き残る形で、戦闘が終了します


ここまで、良いでしょうか?


つまり軍隊とは、上記のようなことを前提に、組織を組成するわけですね
(ものすごく単純化しているし、齋藤は軍隊の専門家ではないので、一つの例えとして、理解していただきたいのですが)

 

で、ここで「長」の話に戻したいのですけれど、ようするに上記のような事をやろうと
すると、組織に重要なのは、先ほどの

 

 3)軍隊長の命令は、絶対である

 6)部隊長の命令は、それぞれの部隊の中で、絶対である

 

という部分がないと、この「500人が生き残る(つまり勝つ)」という事が、行えないという事ですね

 

これらの軍隊に「絶対的な権限をもつ組織長」がいなければ、上記のような「作戦」は、そもそも成立しないわけですし、みな「死にたくない」と思えば、「何も出来ない」わけです

 

「何も出来ない」組織であったとすると、圧倒的に人数が多く、かつ山の上という有利なポジションを既得している敵に、勝てるわけがないわけです

 

・・・

 

・・・だから組織には「長」が必要になってくる


・・・多くの会社が、上記のような理論で、「組織」「役職」のようなものを設けているのではないでしょうか?


・・・


・・・


・・・ということが


・・・という事が、全部嫌なんです


と、いう訳で、2017年7月1日付けで、うちの会社(株式会社ソノリテ)は、役職制度をやめました。

 

つまり結論は「全部嫌だから」

 


例えば

 

前述したような、こういう事がおきる

 

 「なんだよ営業サボりすぎだよ!」

 「うるせえな開発の品質が悪すぎるから売れねえんだろう!」

 「売れるものが少ないし売れないものが余り過ぎなんだよ!監督の監督責任が問われるよ!」

 「違うだろう営業の販売予測が大きく違ったからだろう!」

 
これ、組織や組織長、管理者、役職者 のようなものが「抑え込まないと」こういうことが***起きる***

 

また、先の軍隊長、部隊長のような「絶対的な権限者」がいないと、組織は全体的勝利に***向かわない***


この、

 

 ***起きる***

 ***向かわない***


の、本質的な原因をみようとせず、これらを「おさえこもう」とする組織論が、こう、薄気味悪いと言えばいいのか、前世代的であると言えばいいのか・・・


思ったんです。私は常日頃、社員の皆さんに以下のような事を言い、会社を経営しています。


 ・私は社員の皆さんに、「自主性」を期待しています

 ・また「多様性に対する理解」や、「哲学的地頭」を期待しています


そういう、インテリジェンシの高い人間であることを期待しているのに


 なに抑え込んどんのじゃと?

 

  なに組織で抑え込んどんのじゃと!

 


私はうちの会社(株式会社ソノリテ)の新入社員の皆さんに


 「うちの会社は性善説で経営しています」

 

と言っているのですね。この気持ちにウソはないんです

 


ところが管理職的組織論はどちらかといえば命令優位の抑え込み型、比較的性善説とは反りが悪い

 

この疑問に気が付いた時に、

 

社員の「自主性」、「多様性に対する理解」、「哲学的地頭」らの成長を、阻害する組織を作っているのは、この私ではないか!と、思えてしまったわけです


どうですかね?


どうでしょうか?

 

わかってもらえたでしょうか?


ホラクラシー経営などを参考にしました。

 

かっこいいでしょうか?


・・・とんでもないです


・・・ほんと、とんでもない。カッコ悪いことばかりです


先にも記載しましたが、今年の3月から、4ヶ月をかけて、会社の戦略をみんなで考えました。

 

そこにあがった「現状に対する社員の不平不満」などは、本当に質の低いもので

 

 ・社員同士の「不平等感」

 ・管理職処遇者への低質な愚痴

 ・管理職者における困惑と為体


でした

(擁護しますと、うちの会社が酷いと言うよりも、日本の会社の平均的な姿ではないかと思いもします)


して、この根本を見るに・・・

 

その根本は、「私(齋藤和政:会社の代表)が、本質的に社員を信じていないからだ」という結論を見出さずにはいられませんでした。

 

また、昨今外国籍の方や、海外在住経験の長い方の、自主的な生き方をみるにつけ、

 

彼らが日本に対して「息苦しい」と感じるサムシングが、この「前時代的な管理社会的従属強要感」であることが否めず

 

結果としてそれらがすべてに対し、遠慮と言うベールに上手く隠した「無為無常」的な「指示待ち体質」を産んでいるという概念に突入していると理解した時に

 

【ここ重要】もう、自分の会社を変えざるを得ないと、確信したんですね。


もちろん、3月から行われた経営戦略会議において、思慮深い社員から

 

 「(組織のフラット化は)性善説過ぎるのではないか」


という疑問の声が、多数上がりました


でも、


性善説、いいじゃないか、何がいけないんだ」


です

 

私も自覚しており、今回の改革は痛みを伴う改革になろうことは、必至だと考えています。


が、しかし


 ・もう一歩、ソノリテという会社が、理想に近づき

 ・「社員の成長」という経営理念に愚直に従い

 ・性善説を経営の根幹とし

 ・「理想的な社員において理想的な会社」で、あるためには


今回この「役職の廃止」を行う事と、したわけです

 

というわけで


役職制度 を 止めた理由

 

   それは 性善説


です


さあ、改革じゃ!! 頑張ろう!!齋藤和政50歳!!!!

働く事のプライドが持ちづらい世の中になったのではないか?

「働く事」に関して、私はよく、お医者さんで例えることが多いのですけれども(お医者さんで考えると、話がわかりやすくなることが多いんですよね)


今回は「働く事のプライド」といったお話をしたいので、もしよろしければ「空想上の理想のお医者さん」を、頭に思い浮かべながら、話を聞いてもらえると良いかなと思います。


さて本題。

 

まず最初のテーマは「お医者さんのやりがいについて」


アナタが空想したお医者さんは、何を「やりがい」にして、働いていると思いますか?

 

 「賃金」でしょうか?

 「仕事の内容が楽しいから」でしょうか?

 「医者という仕事が自分にあっている」からでしょうか?

 「“先生”と呼ばれるのが、嬉しい」のでしょうか?


どうでしょう?


私は、「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「ステータス」というような事を、「やりがい」だと感じているお医者さんは、


あまり、信じられないです。

 

そういった、即物的な欲望や感情よりも、「人を助ける意義」みたいなものに、やりがいを感じている先生じゃないと、ちょっとイヤな気がします。


これ、どうでしょう。ちょっと綺麗事すぎますかね?

 

でも、基本的には同意していただける方、多いのではないでしょうか

 


・・・でも


じゃあなぜ、私は、「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「ステータス」などをやりがいと感じているお医者さんを、信じられないのでしょうか?

 

だってベつに、なにをやりがいにしていようと・・・医者としての腕が良ければ、良いじゃないですか?・・・ねえ?

 

別に医者だからって、絶対に「聖人君子」でなければいけないって、わけじゃないですよね?

 

そう、医者だって人間です。

 

うまい飯も食いたきゃ贅沢もしたい。楽(らく)もしたいし遊びもしたい。

 

そんな医者が、例えば「仕事は金のタメだ」と割り切って仕事をしていたって、良いじゃないですか?だって医者も人間なんだから

 

医者としての腕がよければ、なんの問題もないでしょう?

 

いや


私は、そうは思わないんですね


なぜか?


私が「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「ステータス」などをやりがいと感じているお医者さんを信じられない理由は・・・


そういう医者は


 「ヤバい時に、乗り越えてくれない(逃げる)」


と、思うから、なんです。

 

単純に、解説をします


私が、「誰も知らない難病」になったとします

 

そうすると、「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「ステータス」などをやりがいと感じているお医者さん達なら


 お医者さんA「そんな知らない病気、対応したって金にならない」

 お医者さんB「その病気は知らないから、楽しくない」

 お医者さんC「その病気は知らないから、自分には出来ない」

 お医者さんD「知らない病気に対応して治らなかったら、私の評価が落ちる」


などと、こんな風に言って、対応してくれないんじゃないか(逃げちゃう)と思うんです。

 

つまり、私の「誰も知らない難病」は、彼らの低次のやりがい(欲求)を満足させることが出来ない。

 

だから彼らは、逃げる(と思う)。


よって私は、彼らを信じられない。


どうでしょうか?


私の言いたい事、伝わっているでしょうか?


これが私が、「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「尊敬されたい」という事を、「やりがい」だと感じているお医者さんを、信じられない理由です。


「人を助ける意義」という事に、医者としてのやりがいを感じている先生であれば、例え難病であっても、そんな反応はせず、きっとベストを尽くしてくれる。そう思うんです。

 

「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「尊敬されたい」というような、低次の自己実現的な欲求をやりがいとせず、もう少し大きな立ち位置で、仕事を悟り、自らの使命を悟り、意義を見出している。

 

例えば「人を助ける意義」のようなものを、やりがいと感じ、働いている。

 

そんなお医者さんなら、信じられる。

 

「医は仁術」と言いますが、それが医者の「プライド」なんじゃないでしょうか?

 

かっこいいですよね?そういうお医者さん。


う~ん。かっこいい

 

 


でも・・・


でも、ですよ・・・


もう一度言いますが、やはり医者だって、人間だと思うんですね。

 


 「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「ステータス」

 


優れたお医者さんの中に、上記のような「やりがい」は、本当に無いのでしょうか?


「無いのでしょうか?」というより「必要ないのでしょうか?」


つまり、世の中に優れた医者が生まれるために、「賃金」「楽しい」「仕事との相性」「ステータス」といったような、低次の欲求は、必要ないでしょうか?

 


いや、そんなことは無いですよね。必要ありますよね。絶対に必要あります。

 


例えば医者と言う仕事が、とても低賃金であれば、目指す人は、少ないはず。

 

医者と言う仕事が、世の中から「かっこわるい仕事(尊敬されない仕事)」だとしたら、目指す人は、少ないはず。

 

 

この話を単純化するために、「小学生」になって考えましょう


「小学生」であるアナタが、医者を志したとします。

 

そしてよく勉強をし、医学部に進学し、医者になったとします。すばらしい。


そんなあなたは、「小学生」の時に、なぜ医者を目指したのでしょうか?


 ※「人を助ける意義」に、目覚めたのでしょうか?


いや、恐らく違うでしょう


 「お金がたくさんもらえるらしい。カッコイイ!」

 「患者からありがとうって言われる仕事は楽しそう!」

 「わたしは手先が器用だからお医者さんに向いているかも!」

 「ぼくも“先生”と呼ばれるような仕事がしたい!」


こんな感じじゃ、ないでしょうかね?

 


つまり、「初期衝動」ですね。

 

(「初期衝動」についてはこのblogでもけっこう書いていますが、私、「初期衝動」って結構好きなテーマなんで、また書きますwww)

 


「初期衝動」なんて、低次の欲求で良いんですよ

 

「金」「物欲」「性欲」「ステータス」「流行」「相性」「承認欲求」・・・

 

その程度の、「低次の欲求」でよくて、それで、その世界に入れば良い。

 



問題なのは、その後、ですね。

 

お医者さんで言えば、


 1)低次の欲求による初期衝動に従って、医学を学ぶという世界に入る

 2)その後、様々な経験を乗り越えて、医者として成長していく


これ

 

この2)「医者としての成長」が、つまり例えば「人を助ける意義に目覚める」などの「悟り」に繋がるのではないかと、思うんですね

 

そこに辿り着いてようやく、「プライド」が生まれ、

 

その次元の「プライド」に辿り着いた人を、私は、医者として信じられると思うわけです。


どうでしょうか?


私も医学の世界を知っているわけではないので、あくまでも空想ですけれども、まあ、「働く事のプライド」と言う意味では、そう間違っていないお話なのではないかなと、思うんですね。

 

 

はい、一度纏めます。

 


ここまでで言いたい事は

 

 1)低次の欲求による初期衝動に従って、人は働き出す

 2)その後、様々な経験を乗り越えて、社会人や会社人として成長していく

 3)成長して「働く事のプライド」を持つようになる


まあ、これが言いたいわけ

 

これ、例えば仕事じゃなくたって言えます。

 

例えば「子育て」とかも


 1)低次の欲求による初期衝動(子供はかわいい。自分の子供がほしい)で、親になる

 2)その後、様々な子育ての苦難を乗り越えて、親として成長していく

 3)成長して「親のプライド」を持つようになる

 


例えば「アーティスト」とかも


 1)低次の欲求による初期衝動(誰かの作品に感動した。あんな作品を私も作りたい!)で、アーティストになる

 2)その後、様々な苦難(売れない、作れない、作品への批判、生活苦)を乗り越えて、アーティストとして成長していく

 3)成長して「アーティストのプライド」を持つようになる

 

どうでしょうか?

 

まあ要するに

 

 1)初期衝動

 2)挫折を乗り越える

 3)プライドを持てる


そういう構造が、色々な分野にも存在するのではないかなと、考えるわけです。

 

 

で、ここからようやく、主題に入ります。

 

 主題「働く事のプライドが持ちづらい世の中になったのではないか?」

 

 

昨今急激に、「働き方改革」の時代になりました。

 

様々な過労死事件などを背景に、日本の社会は、「これからの働き方を見直そう」という、時代になりました。

 

私の経営する「株式会社ソノリテ」も、様々な施策を打ち出しながら、社員の皆さんの「働き方」を、変革しています。

 

「働き方改革」の主題はいくつもあると思うのですが、私が気にしているのは、3つほど。


 1)「日本人は働き過ぎ」の是正

 2)「日本人の働かせ方は良くない」の是正

 3)さまざまな人がさまざまな働き方が出来る世の中の実現


それぞれの詳細は、各種報道などを確認していただきたいのですが・・・

 


ちなみに齋藤は現在50歳。

 

現在の会社の社長になる前は、バブル世代に社会人になり、IT革命期とともにシステム分野で仕事をしてまいりましたので、

 

まあ世代的には

 「24時間働けますか♪」

って感じです。

 

残業は200時間くらいまでしたことがありますね。

 

サービス残業だってしたことがあります。むしろ自分からサービス残業をしていたような猛烈社員でした。


猛烈だったことはあまり誉められた話でもなく、その当時勤めていた会社からの評価は
高かったと思うのですが、鬱病寸前だったこともありますし

 

 

もちろん私の会社「株式会社ソノリテ」を、「残業200時間、サービス残業当然」みたいな会社にするつもりは、ありません。


ただ


残業の話では無い部分で、

 

「仕事そのもの」あるいは「組織で何か役割を果たす」とか「仕事の約束を果たす」というような、「仕事のストレス」の話をしたいのですが

 

 ※仕事のストレス

   ・人間関係

   ・約束や納期を守る事

   ・悩み、何かを産み出す事

   ・最新の情報を常に勉強し、競争に勝つ事

   ・トラブル対応やクレーム対応

  など

 


 この 「仕事のストレス」 って、

 

    「悪いもの」なのでしょうかね?

 


もちろん「過剰なストレス」によって病み、人権を著しく侵害されたり、結果悪しき事例のように自ら命を絶つような事があっては、絶対にいけませんが

 

 

 この「仕事のストレス」って、

 

 言ってみれば仕事上の理不尽なリクエストや体験って

 


みなさんは、「それを乗り越えて、成長し、仕事のプライドを持つ」為の、人生のテーマだとは、考えないでしょうか?

 

 

例えば先の医者の例ですと、

 

医者として未熟な自分がいたとして、様々な同僚の叱咤や、救えなかった患者に対する虚しさなどを乗り越えて、医者として成長し、悟っていく


例えば私達株式会社ソノリテがやっている事業のひとつ、システム開発ではシステムエンジニアとして未熟な自分がいて、さまざまなトラブルや障害対応の辛さを乗り越えて、エンジニアとして成長し、悟っていく

 

 

そんなような

 

人生のテーマ

 

プライドをもって生きるための、人生のテーマ

 

「それを乗り越えて、成長し、仕事のプライドを持つ(為のテーマ)」

 

とは、考えないでしょうか?

(考えろと言っているわけでは無くて、聞いています)

 

 

プライドを持つには


 1)初期衝動

 2)挫折を乗り越える

 3)プライドを持てる


というパターンにおいて、2)の部分がとても重要だと思うのですが、

 

その部分には、テーマ(つまりストレス)が、いる。

 

ここが今日、私が心配している、問題なんですよね。

 

 

※つまり現代は、「ブラック・強制的」な働き方から、「より人権保護的」な働き方へのシフトがある。で、その中で、「テーマ」が見出しづらく、「逃げやすい」世界になったとも、言える。

 

 

ブラック企業」はもちろん看過すべきではありません。

 

人はすべて自由に生きる権利があり、人の自由を束縛する権利は誰にもありません。


 

もしアナタが、「プライド高く仕事をしたい」と思ったとしたら、あるいは「人に信頼される仕事がしたい」と思っているとしたら

 

どうやって

 

 2)挫折を乗り越える

 

を、やるか・・・

 

これが、昔ならわりと、理不尽をぶつけられた。今は、なかなか・・・

 

ですから皆さんがもし、初期衝動を超えて仕事を悟れていないとするなら、「意識をして自分にテーマを与える」ということを、考えなければならない

 

でも、


そう、私達は人間です

 

うまい飯も食いたきゃ贅沢もしたい。楽(らく)もしたいし遊びもしたい。

 

そう、楽(らく)がしたいんです。

 


そんな私が、自分たちの意識だけで


 2)挫折を乗り越える


ってのを、積極的にやることが、本当に出来るのでしょうか・・・・?

 

 

ここでもう一度、「僕の理屈」を反芻(はんすう)しますけれど

 

仕事のやりがいは 人それぞれ・・・ でしょうが

 

「だってベつに、なにをやりがいにしていようと・・・担当者として、担当業務の腕が良ければ良いじゃないですか?・・・ねえ?」

 

そんな担当者、私、信用できないです。

 


例えば株式会社ソノリテが行っている事業のうち

 

システムエンジニア で言えば
 「システムエンジニアとしてのプライドがないエンジニアは信じられない」

 

・Webデザイン で言えば
 「Webデザイナーとしてのプライドがないデザイナーは信じられない」

 

・メディアクリエイター で言えば
 「クリエイターとしてのプライドがないクリエイターは信じられない」


という事です。

 

 

プライドが、あれば

 

・プライドのあるシステムエンジニア で言えば
 例えば不具合の追及を、自らの都合を犠牲にしてでもとことんやってくれるでしょう
 (医者が夜間の呼び出しに応じるように)

 

・プライドのあるWebデザイナー で言えば
 例えば隅から隅まで徹底的に完璧なデザインが出来るまで、妥協しないでしょう
 (医者が患者を完治させるまで治療を妥協しないように)

 

・プライドのあるメディアクリエイター で言えば
 観る者を感動させる作品に拘り、マイクロ秒単位に拘り、何度も何度も編集するでしょう
 (医者が患者の病気を徹底的に検査するように)

 

そう。私はそういう人を「信用できる」

 


そしてそれらの「プライド」は、どうしても私には

 

 2)挫折を乗り越えた経験


から産み出されるものが多いのではないかなと、思うわけです

 


ここまで、おわかりいただけますでしょうか?

 


なぜ「働く事のプライドが持ちづらい世の中になったのではないか?」という話に戻しますが


それは「強権的な働き方から、人権を尊重した健康的な働き方へ」のシフトなわけです

 

もちろんそれは素晴らしいことで、私は「昔ながらのブラック企業で殺人的残業でさらにサービス残業」なんてことを「しろ」と、言っているわけではない。です

 

でも・・・今の時代は


社会は、これから働こうとする人たちに対して


 ・ガマンするな


と、教えている、わけです


それが、働き方改革だから


 ・人権侵害に抵触する理不尽な命令や指導と言う名のバイオレンス

 ・法定労働時間を超えた残業命令など不法な雇用


それらは、絶対に改善しなければならない問題です

 

それを改善しようとして、世の中は「逃げ場を沢山作る」という事を、始めている
ように思います。

 

 ・ガマンしなくていい。ここへおいで


世の中だけじゃないです。親や、友人や、その他関係者もすべて、今、


 ・ガマンしなくていいよ

 ・やりたくないことは、やらなくても、いいよ

 ・君がそう思うなら、君の思う通りやればいいよ


そういう、雰囲気

 

これが

 

 2)挫折を乗り越えた経験のある人

 3)仕事にプライドを持っている人


に対してなら良いんです


これが

 

 1)まだ初期衝動レベルの人


に、あまりに強く「逃げ場はアルヨ」という事が出来上がり過ぎてしまうと・・・

 

・・・いや、私はそれを批判しているわけではない

 

ここ、間違って捉えらえたくない部分です。


私は、「過労死」を 絶対的悪 だと思っています


そして「過労死」は、「逃げ場のない職場」で生まれます


だから世の中に「逃げ場はアルヨ」というメッセージは、満ちていたほうがいいし、そして世の中は、少なくとも私が若いころよりは、そういうメッセージに溢れた世界になってきた

 

 

そうなったら


 「働く事のプライドが持ちづらい世の中になったのではないか?」


という事にも、なったんじゃない?

 

と、言いたいわけです

 


だから皆さん

 

ここから、結論です


今、アナタが

 

 ・自分は働く事にプライドが持ててなくて、持ちたい


と、思っているとする、なら


もしかしたら

 

 1)自分はまだ初期衝動レベルの人間で

 2)挫折を乗り越える経験をしていない


のかも知れない。という事を、検証してみて欲しいです

 


そしてもし、

 

 2)挫折を乗り越える経験をしていない

 

と、感じるなら


アナタの周りにいる親、友人、その他関係者、すべてから、

 

 ・ガマンしなくていいよ

 ・やりたくないことは、やらなくても、いいよ

 ・君がそう思うなら、君の思う通りやればいいよ


そういう言葉に包まれて、アナタは生きているんじゃ、ありませんか?


と、問いたい

 

だってそういう現代だし、それが今の風潮だから。そしてそれは悪いことではないわけですし

 

 

さて、

 

 

私は、全ての社会人が、「プライドを持って働いている」なんてことは、無いと思っていますし


そうじゃなくても良いと思っています。


人はそれぞれ自分の思うように生きるべきです。誰に強制されるべきではない。

 

だから私が、「働く事のプライド」を、皆に「持て!」と言うのは、間違っている と、思っています。

 

思っています、が


私は、


1)プライドを持って働いている人を信じています。プライドのない人の仕事は信じていません

 

これは、言っても良いよね?

 

世の中がいくら軟弱になっても、私が欲しい物、私が買うもの、私が関係するものは、すべて「プライドのある者たちの作品」であって欲しい、です。

 

それと

 

2)私の会社「株式会社ソノリテ」で働く人たちは、皆さん自分の仕事にプライドをもって働いてもらいたい


これも、言っても良いよね?だって私は、代表だもの

 

「やだ、プライドなんて持てなくていいから、楽に働きたい」と、思うなら、それは私の考えるソノリテ社員では、無いんです。

(「楽に働きたい」を人格否定していません。ただ、私の会社に対する私の希望の話をしています)



だから私は、私の会社、株式会社ソノリテが

 

 仕事にプライドを持っている人達にとって、ホワイト企業である


ように、していきます。

 

ソノリテとは、フランス語で「共鳴」を意味します。

 

働き方改革時代を迎えて、私は「仕事にプライドを持っている人達にとって、ソノリテをホワイト企業にする」。それが社員の皆さんと「共鳴」しなければいけない最重要項目であろうと、確信しています。

 

 

最後の最後に本当に纏めます。

 

今日言いたかったこと1


 ・働く事のプライドが持ちづらい世の中になったのではないか?

 

今日言いたかったこと2

 

 ・それはそれでいい。ブラック企業蔓延よりよっぽどいい

 

そして今日言いたかったこと3

 

 ・でも俺は働く事にプライドを持っている人にとってホワイトな株式会社ソノリテにするぞ~!

プロ集団であるために、永遠に大企業にならない

4月になりました。

 

当社【株式会社ソノリテ】

sonorite.co.jp

 

にも、新卒、既卒、転職、さまざまあわせて10名の新人が入りました。

 

それぞれに、年齢、性格、国籍などもユニークで、とても魅力的なメンバーです。

 

さまざまな個性をもった社員が、その個性を発揮し、既存社員との軋轢(あつれき)を産み、その先にあらたなシナジーが生まれ、ソノリテ全体の成長に繋がると良いなと、思っています


なぜ軋轢(あつれき)か?は、こちら

 

■新入社員の価値は「あつれき」をもたらすこと ~ナルシスト採用参加企業に聞く(後編)

president.jp


私は今年の新入社員の皆さんに、ソノリテで働いてもらう事について、以下のようなキーワードでお話をいたしました。

 ・共鳴すること

 ・性善説で経営しているということ

 ・笑顔と覚悟で働いて欲しいということ

 ・ソノリテはどんな会社か?それはあなた次第


ここで、私の考えを、少し説明しておきますと、私は根本的に、自責的に生きることを良しとする人間なんです。

 

自責については賛否両論あるでしょうが、私は、自責的に生きる人を美しいと思いますし、仕事においても、美しいものや優れたもの、新しいものを産み出すためには、その制作者は、極めて自責的に自分を追いつめて、追いつめて、限界まで考えぬく。

 

そしてその追及の果てに、新しい何かが生まれてくるのではないかと思っています。

 

それが出来るのが「プロ」なんじゃないかな、とも思います。

 

逆の言い方をすると、私は、なんでも人のせいにしたり、安全地帯から人の批判だけして、自分は行動しない人を、美しくないと考えるほうですし、

 

そういう人は「プロではない」と思うんですね。

 

それと私は、自分の会社を、出来るだけ(ここ重要)、社員の皆さんが自主的に運営していただきたいと考えています。

 

なぜならば、当社が「プロ」にとって「良い」会社でありたいからなんです。

 

 ・自社は自責的なプロ集団である
 ・自主的なプロの活動を過去のルールで制約するべきではない
 ・よって当社にはルールが少なく、自主性で行動する事が出来る

 

■ルールを無くしていく

saitoukazumasa.hatenablog.com


あくまで理想ですが、私は

 

 ・自社が主体的自主的自責的なプロ集団であり
 ・社員が多様であるならば
 ・会社は社員を出来るだけ縛らず、チャンスだけを与えるものであるべきだ

 

と考えています・・・

 

 

ところで、新年度

 

ネット上でこんな表現を目にしました


■【訃報】明日から懲役40年が始まる

カオスちゃんねる : 【訃報】明日から懲役40年が始まる

 

つまり新社会人にとって、これから定年まで続く「社畜生活」を、懲役になぞらえて
シニカルに表現しているわけですね。

 

これに対し、Twitter界隈では

 

 ・定年が70までかも知れんぞ?そしたら懲役50年だ
 ・なにが懲役40年だ、生まれた時点で懲役80年だろ
 ・40年も同じ会社でちゃんと給料もらえて働けると思ってるの
 ・無理ならフリーでやるなり自分で会社創ればいいじゃん。
 ・まじで気持ち悪い。仕事にビビりすぎ!じゃあやめれ!
 ・真・魂斗羅のビル・ライザーなんか懲役1万年なんだぞ。

 

などなど、なかなか面白いネタが飛び交ったわけなんですけれども

 

まあ、本当になんというか、社会人になり自立する事への不安に対し、みなとても自虐的なんですね。

 

ストレスを前にしたときに、被害者意識に埋もれる事で、不安意識を転嫁することが好きなのだなと思います。

 

でも私は、残念ながら覚悟を感じない、弱さをさらけ出し甘え救いをこう姿は、正直、あまり美しいとは思えないんです。

 

だからそんな彼らが、いつの日か、力をつけ、何かを産み出したり、何かを助けたり、誰かに頼られたりするような、力強い社会人になってくれることを、祈ります。

 

育って欲しい。私の知らない所で。

 


最近、なんだかこう思うようになりました

 

「自分の幸せを定義していない人を、幸せにすることは出来ないんだなぁ」


私は、わりと幸せな人生を送っています。社長だし。

 

でも私はきっと、社長だから幸せなんじゃないんだと、思うんですよね。

 

私は、自分で幸せだと思う事を、幸せに近づくように“自由に”生きることが出来ているから、幸せなんですよね。きっと。


それに、なんでも「アイツが悪い、コイツが悪い、会社が悪い、世間が悪い」と、言っている人に

 

じゃあ「何が幸せなの?」と聞くと、答えてくれないケースが多いんですよね

 

隣の芝生を観て、なんとなく、隣の芝生のほうが幸せに見えて、それで、
「なんでうちの芝生は青くないんだ!」と、嘆いているだけだと、そんな風に感じることが多い

 

そうなると

「自分の幸せを定義していない人を、幸せにすることは出来ないんだなぁ」

と、感じてしまうんです


(いやいや齋藤バカを言うなよ。幸せの定義なんて決まっているだろ?)

 

と、反駁する人に話を聞くと・・・ワリとこう、自立出来ていない回答が多いと言うか・・・

 

 ・出来るだけ怒られたくない
 ・出来るだけ遅くまで寝ていたい
 ・出来るだけ多くお金が欲しい
 ・出来るだけ遊ぶ時間が欲しい
 ・出来るだけ楽をしたい

 

というような・・・

 

そういう人にとっては、例えば「学生」と「社会人」という生活のギャップはそれはとても大きなものでしょうし、そうなったら「ああ今から懲役40年か・・・」と思うのも、無理はないと思うんですよね。

 

「はじめて働く」人が、社会でやっていく自信に、満ち溢れているはずもなく、そんな新人に先人も、「まあワガママ言わずにとりあえず3年辛抱しろ」程度のシニカルな発話しか出来ないとする。

 

みんなでガマン大会。それが社会。そんな雰囲気。それなら確かに、「懲役」かも

 

そういった自虐的社会観がわりと支配しがちな、気がしています

 

ところでここで言う「懲役」とは、なんの比喩なんでしょうね?

 

私は「自由が奪われること」ではないかと、思います。

 

会社とは「ルールの塊」ですからね・・・

 

はい、また出てきましたね。ルールの話・・・

 

 

私は、大企業あるいは大企業的な会社において、自主性の発揮はある程度制約されるべきではないかと考えます。

 

大企業には、その会社が大企業となりえた優れたビジネスモデルや強固な組織、社風のような物が存在するからです。

 

その大企業の「大企業となりえた」成功を、後から入社したものが、その恩恵に預かるわけですから、

 

それはもう、「先輩たちの言う通りの行動をしろ」と、いう事に、なるわけですね。

 

ここでいう「先輩たちの言う通り」というのが、ルールですね。規則。

 

あるいは社風だったり、タテ社会だったり、「求められる人財像」だったりするわけです


■当社が欲しい人財の定義は「よくわかんない」

saitoukazumasa.hatenablog.com

 

「大企業の成功体験の恩恵」を享受するためには、自主性を抑え込み、会社の規則に
従って「言われたことを出来る」人間であるべきだと、私も思うんです。

 

で、そんな組織ならば、必ず、先輩のほうが偉いんです。だって、「その組織」に何年も従属し、「慣れている」わけですから。

 

 「若いやつは、先輩のいう事をきけ。それが当社の、やり方だからだ」

 

と、こうなりますね。

 

だから若い人も、「思考停止」で、いいわけで・・・

 

 

・・・

 


・・・ちょっと大企業批判みたいになってきちゃったので、それが本意ではないので、話を戻しますが

 

つまりなぜ「懲役」なのか? それは、「自由を奪われること」

 

企業に入れば、過去の成功体験の恩恵に預かろうとするなら、「郷に入っては郷に従え」

 

・・・では問題です

 

そこで奪われる「自由」とは、なんですか?

 

そこが問題だと、私は思います。

 

言っては悪いですが、SNS上でだらしなく呟かれている多くの「懲役40年論」の
大多数は

 

 ・出来るだけ怒られたくない自由
 ・出来るだけ遅くまで寝ていたい自由
 ・出来るだけ多くお金が欲しい自由
 ・出来るだけ遊ぶ時間が欲しい自由
 ・出来るだけ楽をしたい自由

 

が、奪われていると、言っているに過ぎない

 

これだと私的には、美しくない・・・という事なんですね


働く人は「プロ」であってほしい

 

今年新社会人になった人は、今プロじゃなくても、プロを目指してほしい

 

   「凄い人」になってほしい

 

極めて自責的に自分を追いつめて、追いつめて、限界まで考えぬき、美しいものや優れたもの、新しいものを産み出せる、プロになってほしい

 

私はそのように、考えています。

 

だからね

 

当社はやっぱり、「プロ」を目指す人にとって、自主性が発揮できるようにしたいから、たぶん永遠に、大企業には、ならないです

 

ただ・・・


出来るだけ多様な人達が、出来るだけ多様に、自分の強みが発揮できる当社になるためには、ある程度のビジネスサイズが必要だから、多様な事業を展開する、大きな会社にはしたいのですけれど・・・


大きな会社にはしたいけど、大企業にはしたくない。

 

プロ集団が硬直化せず、自主性をもって運営し、常に変化しているソノリテでありたい。


このジレンマに向かって、社員の皆さんと共鳴していきたい。


新人さんを迎えての、齋藤の気持ちであります。


例によってダラダラした文章を、とめどもなく書きまして申し訳ない。

 


■まとめ

当社に入られた新人の皆さんへ、

 

 ・堕落した欲望しかもっていない人には「ああ懲役だ」と思われてもかまわんが

 ・プロを目指す人には「自由な会社だ」と思われるよう努力してルールをなくしチャンスを与えます

 

ので、よろしく~

 

 

■追記

ソノリテの社風などがわかる「エイプリルフール2017ネタ」はこちら

www.sonorite.co.jp

 

色々なところをクリックすると、動画がみられます~

当社が欲しい人財の定義は「よくわかんない」

採用支援企業の営業を受けることが多いのですが

 

必ず聞かれるのが

 

 ・どんな職種を募集しますか?

 ・経験年数は?言語は?必須スキルは?

 ・年齢層は?

 ・男性女性など何か要望はありますか?

 

で、私が

 

「う~んそういうの別にない」

 

と、言うと

 

 ・では採用にあたり重要と思っている事は何ですか?

 

と、聞かれるので

 

「う~んよくわかんない」

 

と、私、答えるんですね。

 

そうなると採用支援の企業の営業の皆さんは、ちょっと困りだすわけですが・・・

 

 ・例えば御社の企業理念に共感した人財が良いとか・・・

 ・例えば前向きで意識高い系の人が欲しいとか・・・

 ・例えば実直な体育会系の人が欲しいとか・・・

 

「なんかねえのかよ?」みたいな顔をして聞いてくるので

 

「う~ん」

 

と、私、なっちゃうんですよね・・・

 

まあでも、当社「アソビゴコロとテクノロジー」企業ですので・・・

 

例えば「アソビゴコロ」だったり「テクノロジー」だったり、そーゆー感覚(なんだそれ?)に強い人だと良いのでは???なんて自問自答したりするんですけれど、

 

でもそれって、何と言うかな?

 

なんかこう、「同質性」を求めてしまう思考方法なわけでして

 

そもそも私、会社を「成長できるコミュニティ」にしたいわけですね。それは、理念でもうたっている事ですので、ゆるぎないんです。

 

株式会社ソノリテは、多様性の中で社員が成長し、多様性の中から新しいサムシングを産み出していく企業、に、したいんです。

 

だからですね

 

「どういう人を採用したいですか?」と聞かれたら

 

例えば

 

 ・今まであったことのないような人

 ・私と考え方が真逆な人

 ・尖っている人

 

とか、例えばそんな答えになっちゃうんですけれど、

 

でもまあ、それも違うんですよね。

 

違うというか、違わないんだけど、言葉が足りないというかな

 

やっぱ、コミュニティじゃないですか?だからコミュニティは何がしかの結束(エンゲージメントという言葉を私はよく使いますが)が無いと、ただたんに、多様ではダメなんです。

 

 一人一人は違うけど、一つになれば、ごらん、無敵さ~♪

 

これは昔のヒーロー戦隊ものの主題歌のパクリだけど、そういう会社にしたいわけ

 

だからですね、色々な人がいて、色々な考え方があって、色々な好き嫌いがあって、それらが議論したり時に衝突し合って、でも助け合って、そういうクリエイティブ集団を目指しているんですよね。

 

一人ひとり違うんですけれど、どこかでつながっている、そんな感じ

 

そうなるとですね

 

やっぱこう、基本としては、いろんな人にいて欲しいんですよとにかく。

 

でもですね、その根底には、何がしかの理由で、結束が必要なんですね。

 

だから・・・採用にあたっては

 

その人が、どんな経験?どんなスキル?どんな性格?そういう事を事前定義するわけではなくて

 

 1)出逢って

 2)「ああ、この人すげ~」ってのが感じられて

 3)採用希望者も「へ~この会社おもしろい」って思ってくれて

 4)「もしかしたら結束出来るかも」ってのが、感じられて

  5)「この人なら、多様性を糧に成長してくれるかも」あるいは「この人の個性なら、うちの社員や私を成長させてくれるかも」ってのが、感じられて

 

って、順番ですよね

 

つまり多様に門戸を開いて、その中の出逢いから、会社が成長していくという事

 

同質性を高めてコンピテンシーを強化していくのではなく、多様性を高めて変質していくことを成長と定義し、オンリーワン企業に成っていく

 

これが私の望みであり、当社の採用方針なので

 

やっぱり本blogのタイトルについてですが

 

「当社が欲しい人財の定義」 は 「よくわかんない」 です

 

 

そんな当社ですが、去年までの活動を纏めてみると

 ・確固たる大企業向け事業が根付き、力強い口座が増え

 ・中小企業向け事業の契約口座数が増え

 ・B2C系の事業が芽吹き

 

何といっても

 ・変化優位を許容してくれる経験者に支えられながら、変化を起してくれる強力な人財が増え、変化成長路線の齋藤のヘボ経営について来てくれる素晴らしい仲間たちと、一年を過ごせた

 

わけで、

 

「よくわかんない」方式の俺の採用も、やっぱ素晴らしいんじゃないかなと、自画自賛出来る2016年でした。

 

さて今年もがんばろう~

 

あ、そんな私ですが、去年、商工会議所さん主宰のこんなセミナーの講師をさせていただきました

 

なぜ中小企業でも人が採用出来るのか~お金をかけない採用の実践講座~

http://www.city.bunkyo.lg.jp/sangyo/chushokigyo/chusho/seminar/saiyo28.html

 

おかげさまで、自分で言うのもアレですが好評でして、当日立見席などもしていただいていた様子です。

 

中小企業の皆さま、共に社員をどんどん採用して、日本の将来を作ってまいりましょう!

 

あ、

 

あけましておめでとうございます

ルールを無くしていく

私の経営におけるポリシーとして、「出来るだけルールを無くしていく」ということに挑戦しています。

 

なんの話かと言うとですね、例えば当社には「出張宿泊時における宿泊費の上限」って、無いんですね。

 

普通の会社には「一律1万円まで」などのルールがあると思うんですが、当社には、無いです。

 

ルールが無いと、どうなるか?

 

 ・社員が好き勝手に高いホテルに泊まり、会社の経費がかさんでいく

 

と、思いますでしょうか?

 

そうなるかも、知れませんね。

 

あるいは

 

 ・真面目に安いホテルを探す社員と、わがままに高いホテルに泊まる社員が発生し、不公平が生じる

 

と、考える人もいるでしょうね。

 

どちらも、経営者としては悲しいお話です。

 

ですので、普通の会社ではルールを作ります。

 

例えば、「宿泊費としては一律1万円を支給します」というルールにする、と

 

【ルールによる思考】
 ・安いホテルに泊まり、残りを小遣いにしても、よし
 ・支給額限界まで利用して、少しでも良いホテルに泊まる
 ・差額を自分で負担して、とても良いホテルに泊まる

 

というような事を、社員が自分で考える。これなら不平等でもないし、不公正でもない・・・・


・・・・という事が、私は好ましくないと、考えるのですね。

 

何が好ましくないかと言うと、折角の「会社の経費、不平等」などに対して、社員が考えるチャンスを、奪っていると思うんですよ。ルールが。

 

【ここ重要】ルールが思考停止を産んでいるわけです。

 

例えばですね、当社で社員が出張することになり、宿泊することになる。

 

社員は宿泊するホテルを探します。宿泊費は経費で落ちるので、「いくらくらいまでの宿泊費なら許されるのかな?」と、社内のルールを捜します。

 

でも、ルールはない。

 

そこで、私や上司に、聞きます。「いくらくらいまでの宿泊費なら許されますかね?」

 

で、私はこう答える

 

【指導による思考喚起】
 ・経費は貴方や同僚の皆さんが一生懸命働いて得た利益を取り崩すものですから、少ないほうが良いですよね
 ・でもあまりにもチープな宿泊場所を選んで、まともに寝れなかったり、現場へのアクセスが悪かったりすれば、仕事のパフォーマンスに影響しますよね
 ・行く地域によってもホテルの金額は様々ですから、よく調べて、旅慣れてもらうのもビジネススキルですね。
 ・ちなみに私(齋藤)は、こういうビジネスホテルをよく使いますよ

 

こんな感じ


私が指導のポイントとして置きたいのは「会社とのエンゲージメント」と「自主性」と「自立的思考」です。

 

先の【ルールによる思考】と【指導による思考喚起】において、「会社とのエンゲージメント」と「自主性」と「自立的思考」のレベルが、大きく違うのが、おわかりいただけますでしょうか?


少なくとも【ルール】の場合、社員が「どうやって自分がお得な状況を作るか」でしか思考していないのに対し、

 

後者はエンゲージメントなどを喚起し自分で考えなければならないというテーマを、与えるわけです。


これが私の、「ルールを無くしていきたい」理由です。

 

わかりますでしょうか?

 

「ルール」って、主に効率化の為の、ノウハウの凝縮だと思うんですよね。

 

すごく簡単に言うと、「ルール(やマニュアル)に従うだけで、誰でも仕事の品質を担保できる」

 

だから優れたノウハウを持った企業には、沢山のルールやマニュアルが存在し、それらが運用され、社員はそれに従い、品質を高めている。

 

まあそれは、良い事です。

 

ただ私は、私の会社では、それをしたくないんですね。

 

なぜならば当社の理念は「社員の成長」だからです。


ルールがないと、すごく困ります。

 

現に、当社に社員はすごく困る。特に中間管理職になると、本当に困る。

 

だって「部下を叱る」よりどころであるところの「ルール」が存在しないから。


例えばある時、社員が出張して、一泊30万円のスイートルームに経費で泊まったとしましょう。

 

普通の会社なら、「それはルール違反だよ」と言って、叱れるでしょうね。

 

でも当社だったら、当該社員に
「え?だって宿泊費の上限とか、そういう決まりないでしょ?だから良いのかと思って」と言われたら、「ルール違反」とは言い返せない。

 

だから上司は、困るわけです(どうやって、叱ろうか・・・)

 

そこで上司は(例えば)こういう事を話さなければならない

 

 ・会社の経費とは何か
 ・そのような(経費を使って自己欲を満たす)レベルで生きず、もっとプライドをもって生きろ
 ・目先の損得よりも、誰かに貢献する喜びを感じられる大人になれ

 

わかりますでしょうか?

 

これ、大変ですよね?

 

ルールさえあれば、上司は「ルール違反だよ」程度の事を言えばいいのですが、ルールがないので、その人の「生き方」や「美学」にまで立ち入って指導をしなければならない

 

大変です


大変だから「成長」するんですよね。だからこれ(ルールを無くしていく)が理念に通じる考え方だと、思っているんです。

 

ちなみに今、私は、当社(株式会社ソノリテ)の、「定年制度」というルールを無くしたいなと考えていて、法的整合性などを検証しながら、検討していこうと思っています。

 

多くの会社に、「定年制度」というルール、ありますよね?

 

これ、「なぜ人は60歳になったら仕事をリタイヤするのか?(リタイヤする必要があるのか?)」を、説明できる人いますか?

 

あるいは「人は60歳(あるいは65歳)になったら、仕事が出来ない」という理由でもいいです。説明出来ますか?

 

すくなくとも私は説明できない。

 

「何歳まで働くか」なんて、自分で決めればいいことだと思うんです。

 

確かに例えば年金や生命保険などの社会インフラは「多くの社会人は60歳でリタイヤする」ということを前提に合理化されてはいますが、それって後付の理由で、本質ではない。

 

だから私は、自分が理解もしていないし説明も出来ない慣習である「定年制度」というルールを、当社から撤廃しようとして、思考中です。

 

もちろん定年に代わる、何がしかの「リタイヤプラン」を作る必要がありますが、それは社員の自律的な選択を喚起するようなものにしたい、少なくとも思考停止を産み出すルールにはしたくないな、と思っています。

 

もっと人に迷惑をかけろ

若いころ、親や先生に

 

「人に迷惑をかける人間になるな」

 

とか

 

「人様に迷惑をかけなければ、何をやっても良い」

 

などと、よく言われませんでしたか?

 

私も、「人に迷惑をかける人間、最低!」と思って生きて来ました。

 

今でも、電車の中で大騒ぎをする人や、道路に平気でゴミを捨てる人は、大嫌いです。

 

本当に、メイワク。迷惑。あーいやだいやだ。不快です。不快!

 


「迷惑をかける」という言葉には、以下の意味があるようです

 

 ・その行為によって、他の人が不利益を受ける

 ・その行為によって、他の人が不快を感じる


つまり、「不利益/不快」を産み出すということですね。

 

道路に平気でゴミを捨てたり、不適切な場所で喫煙したりする人は、私に不快感情を与えます。つまり迷惑です。だから、嫌い。

 

あと例えば、私達のビジネスに悪影響を与える人がいたとしますね。そうすると私は、その人から不利益を蒙りますから、つまり迷惑ですね。


「人に迷惑をかける人間になるな」


を、言い換えると

 

「人に不快感情や不利益を与える人間になるな」

 

と、いう事でしょう

 

まあ、その通りかな・・・


その通り・・・


その通りかな・・・という点について、アマノジャクな私は、最近こんなことを考えるのですよね

 

 「人に迷惑をかけるな」と、言われて育っているうちに、

 

 「人に頼るな/人に助けを求めるな」と、言われているように思い、

 

  それを追及するうちに、まるで

 

 「人に頼るのは全部悪!」と


 なんか、そんな風になってやしませんかね・・・そんな気がするんです。

 


人に何かを頼むのは、いろいろと、大変ですよね。

 

 ・買い物行ってきて

 ・背中かいて

 ・どいて

 ・静かにして

 ・ちゃんとお風呂に入って


みんな、頼むの、大変です

 

頼むと、嫌な顔をされるかも知れません。見返りも、必要ですね。

 

相手の感情と、お付き合いをしなければいけない


だからですね、相手に嫌な感情を持ってもらいたくないから、頭のいい人は、全部自分でやるんです。自分でやってしまう。

 

 買い物だって自分で行くし、

 背中がカユければ孫の手を買ってくる。

 どいて欲しくても自分の方が移動するし、

 静かにしてもらいたいけど我慢して耳栓をする。

 ちゃんとお風呂に入って欲しいけど、これ言ったら嫌な顔するだろうから、こっちが匂いを我慢して一日過ごすのが正解だ・・・


そうなんですかね?

 

そんな調子で、良いんでしょうか?

 

これっていわゆる、「傷付け合わない事だけを保障しあっている楽な関係」なだけで、

 

これ、本当にいいのでしょうか?

 

最近、本当にコレ、思うんです。

 

この

 「人に迷惑をかけるな」

が、

 「傷付け合わない事だけを保障しあっている楽な関係」

を、作り過ぎてはいないだろうか?


極端に大袈裟に言うと、これってもしかして人間の関係性の稀薄を産む原因だったりして、それが高じて自意識の低さや承認欲求の渇望を産み出してやしないかとすら思うのですが・・・


少なからずこの、「傷付け合わない事だけを保障しあっている楽な関係」からは


 ・何の助け合いも生まれないし

 ・何の議論も生まれないし

 ・何の変化も起きない


ような気がして、ならんのですよね・・・


なんででしょう?

 

いつからこんな風になっちゃったんでしょうかね?

 

私、いっつも気持ち悪いんですけれど


例えば社内の会議で、5人、いるとしますね

 

Aさんが、「商品Zを作りました」

Bさん「いいね!」

Cさん「いいね!」

Dさん「いいね!」

Eさん(えーぜんぜん良いと思わない。少なくともココ直した方が良い。あーでもみんないいね!って言っているし、ここは空気壊さないように、私は黙っておこう・・・)


これ、全然ダメな会議じゃないですか?

 

でもけっこうこれ、組織の中で起こりがちなことで、


ほんとうに気持ち悪い!


   ほ ん と う に 気 持 ち 悪 い !!


もうね

 

もっとこう、迷惑をかけあうべきだと思うんですよ。少なくとも、クリエイティブならば。


 迷惑もかけるし、

 人も傷つけるし、

 助けられたら、全力で有難う、言うし

 自分も全力で、助けるし

 傷つけられても、そこから何かを得て、リベンジしながら、成長する
 (むしろ傷つけてくれた人に、感謝!)


そういう事が、なんというかワリとこう・・・

 

 「人に迷惑をかけるな」

 

と、育てられた人には、課題となってしまい、


例えば何か議論すべき場がササクレ立つと、そのササクレからの熱で何かが産み出される、その産み出される前に、熱をさまさせてしまったり・・・


そうじゃない


もっと迷惑をかけあわないと


もっともっと、仲間に迷惑をかけて、自分を主張して、でも助けて、その輪を質の高いものにしていかないと、成長はない


だから私はおもうんですね。迷惑をかけましょう。迷惑をかけあいましょう。と

 

私の会社株式会社ソノリテには、いろいろな人がいます。尖がっている人もいるし、優しい人もいます。

 

その色々な人の中に、けっこう「人に迷惑をかけるな!」と考えて生きてきた人がいて、それは素晴らしい事なんですけれど、前述のような課題もあるな・・・と

 

どうでしょうかね?賛同していただけますでしょうか?

 

だから私は会社のなかで、言い続けようと思っています。

 

 「もっと人に迷惑をかけろ」

 

もちろん、会社の中で、ゴミをポイ捨てしてもいいよって事ではないですよ。