何のための共同編集か?

日本人にとって「書(しょ)」は、わりと「作品」なんじゃないかなと思うんですよね。

 

「書道」とかね。

 

まああるいは、作家が小説などの「作品」を産み出すとか、そういう「書」に関しても、例えばゴーストライターみたいなものに対する感覚って、日本人ってわりと、「ゴーストライター≒にせもの」みたいな感触もってますよね。たぶん。わりと。

 

だからなのか「共同編集」って、なんとなくあんまり利用されないかなという気がしますね。

 

でもそれは、私が割と年長者だからで(2023年4月現在56歳)

 

もっと若い人は、例えば学生時代でも論文なんかを共同編集したりしていると、聞きます。

 

だからそう、私なんかよりは、「共同編集」してるんじゃないかな。

 

世の中にWikiが登場したときに、ネット上のナレッジがどんどん統合されていった感じがありました。Wikipediaの登場は画期的でした。

 

当時はよく、wikipediaとEncartaが比較されました。

 

xtech.nikkei.com

 

集合知」というものが、ネット上で完全に完成したと感じました。

 

そしてChatGPTは新たに集合知の検索を容易にしてくれた。

 

もう、おそらく、人々は自分の知を垂れ流しておけばいい。

 

だれかがその知を必要とするとき、その知を他の知と併せて伝える役目は、AIがしてくれる。

 

これは、楽だなぁ

 

 アウトプット :垂れ流しておきましょう

 インプット  :AIが適切に編集してくれる

 

と、いうことなんだ

 

と、いうことは、あれ?「作品」ってのは、どうなっちゃうんだろうか?

 

AIが美少女を描いていますよね。可愛いです。

 

まあようするにあれも立派な作品で、

 

ネット上にいろいろな写真やらイラストがあって、それらが垂れ流されていて、それらを「ニーズ」として抽象化して、AIが再編成すると。美少女が出来上がる。

 

そうだとするとなんだろうね?僕らのアウトプットって、「いいね」とかそういう事をたくさんやっておくくらいかな?そうすれば好みの「AIが描いた作品」も、より精度高く手に入るようになる。

 

ただ、まあ

 

「作品」っていうのに、私が求めているものは…

 

まあ例えば、「意外性」だったりするんじゃぁ、ないのかな?

 

例えば私、先日あるお芝居を観に行ったんですが、何にも予備知識無しで観に行ったんですよ。

 

「観に行きたくて観に行った」ってのとは、ちょっと違う理由で、「観る機会があった」っていう事なんですが

 

それって?

 

それって、ニーズかな?

 

いや、そもそも私たちは、もう、手に入れたいものをいかに楽に手に入れるかっていう事が、「幸せ」だなんていう次元は、はるか昔に「違う」って気が付いているわけで

 

あ~でも

 

そうでもないのかな?

 

そういうことは メンドウクサイ のかな

 

例えば「仕事」

 

「仕事」って、 メンドウクサイ

 

では「作品」は?

 

「作品」って、

 

自分の「作品」って、すごく愛おしいものだったり、自分の命をかけてつくりたかったり、

 

そう。 創作意欲 と、いうのか

 

人間って、「創作」したいんじゃ、ないのかな?

 

私は、出来れば「作品」の「創作」を、「仕事」にしたい。

 

そして「創作」は「仕事」じゃ、ない。

 

そのへんだなきっと

 

私たちの会社は企業内情報のコラボレーションや情報共有、働き方改革なんかを提供する会社なんですけど

 

その提供するものの中には、共同編集ってのがあって

 

その共同編集ってのは、先のWikiみたいな考え方からくる集合知の概念が具現化しているわけなんですけれど

 

なんというか私は共同編集が苦手で

 

それはなぜかっていうと、私のアウトプットは、私の作品だと思っている部分が多いんですよね。

 

だから他人の手を借りたくない

 

でもそれは

 

仕事を「仕事」と思っているか「創作」と思っているかの違いで

 

「仕事」はどんどんAIが楽にしてくれるはず

 

じゃあ何を「創作」するの?という点において

 

私の「いいね」からAIが創作した「美少女CG」と競うんじゃないとするなら

 

私が偶然見た「お芝居」の中に込められた、なんらかの人間の肌感のようなものなのかな。

 

そしてその人間の肌感みたいなものは、

 

けっして私が欲しいと思っていたものではなく、けれども私の既成概念を凌駕する「人間の肌感」みたいな、ものなのかもしれない。

 

まあでも、そんなお芝居の脚本も、もうAIが書き始めているんだろうし

 

そしてそれはAIが編集するという形の集合知なのであろうと思うと

 

AIが考えるほどには、人間が、そのAIが描いた集合知的脚本を、演じきれなかったりするのかな。とも思うと

 

それはけっこう、好みかも知れない。

 

でも、やっぱり

 

何かしらの孤独が加速するような気がしてならないんですが…

 

共同編集の何が嫌かって、私の「創作」に対して他人の手が入ることなわけなんですが、

 

まあ、それを言い続けると、孤独になる。

 

人は、とくに完璧主義の人は、自分の仕事を自分で完結させたいから、他人の要素を入れたくない。

 

つまり創作意識の高さは孤独を生む。

 

でもまあAI化していく世界も孤独を生む。

 

じゃあ、なに?

 

孤独の反対がコミュニケーションだとすると

 

コミュニケーションって、例えば共同編集なんじゃないでしょうかね?

 

共同編集みたいな「古くさいほうほうで」「不完全なものを」「作品とはよべない、仕事みたいなことを」するのが、「コミュニケーション」なんだな という結論に達するよね。

 

つまり

 

よく「人の役に立とう」とかいうけど、もはや人の役に立つのはAIのほうがよっぽど優れているんだから

 

でも「寂しくなくなるように」「孤独にならないように」生きるってことは

 

「古くさいほうほうで」「不完全なものを」「作品とはよべない、仕事みたいなことを」

 

やるのかもですね

 

とりあえずいろいろな「共同編集」を、社内にもたらしておくと、「元気で」「コミュニケーションがとれている」組織が出来るかも知れませんね

 

それはとっても、古臭くて、不完全で、ビジネスライクな労働っぽい姿をしているタスクかもしれない。

 

 

 

もうちょっとライトに書こうと思っていたのに、やっぱり長くなった