多くの子供には、親がいる。
親がいる場合、その多くの親は、子供を育てる立場にある。
そして多くの場合、子供と言うのは無力なので、何か要求がある場合、親に頼む。
「お腹がすいたから、何か食べさせてくれ」
「つまらないから、遊びに連れて行ってくれ」
「アレが欲しいから、アレを買ってくれ」
など
無力な子供は、自分自身の力では、何か食べることも出来ないし、遊びに行くことも出来ないし、モノを買う事も出来ない。
だから、親に頼む。
そして多くの親は、子供への愛の証として、子供の要求に答えようとする。
だから子供は、自分の要求が満たされることで、愛を受け取る。
場合により、自分の要求が満たされないと、愛を受け取れなかったと感じる。
愛を受け取らなかったと感じた場合、
依存できるものが親しかなければ、その親から何とかして愛を受け取ろうとする。
または
親とは別の手段で、欲求を満たそうとする。
または
あきらめる
で、
1)親から何とかして愛を受け取ろうとする
2)別の手段で欲求を満たす
3)あきらめる
と、した場合
1)の方法として、「わがまま」を通す。というのがある。
駄々を捏ねたり、僻んだり、まあ、いろいろな手段を、親が折れるまで続ける。
この「わがまま」が成功体験としてあり、常態化すると、子供は、
「世界は自分専用である」という認識を持つような気がする。
そして「世界は自分専用なのに、なぜ私の要求が通らないのだ?」という認識から、なかなか、成長出来ない。
したがって、「世界は自分専用ではないので」
2)別の手段で欲求を満たす
3)あきらめる
この2つの手段に切り替えなければいけないということを、知らずに、成長してしまう。
私は、そのような人を見ると、「子供っぽい」と、思う。
まとめると、私は
1)だだをこねて自分の欲求を満たそうとする人は、「子供っぽい」と、思う
また、のこる2つであるが
2)欲求が満たせないと、他の手段を考えようとする人は「頭が良い」と、思う。
そして
3)欲求が満たせないとガマンする人は「おとなしい」と、思う。
だから私は、なんとなく、たいていの「こども」を見たときに
「子供っぽい」か「頭が良い」か「おとなしい」かに、分類したがっている(ような気がする)
そして私は、「頭がよいこども」が好きなので、目の前にいる「こども」が、上記3分類のうちの、どれなのかを知るために
その子供に「自分の欲求を満たせない状態」というのを、与え、その結果どのような行動(だだをこねるか/他の方法を考えるか/あきらめるか)をとるかを、知りたいと思う。
仮に「自分の欲求を満たせない状態」を私が与えられない「こども」だとしたら、その「こども」に、過去の挫折経験などを聞く。そしてその時どのような行動をしたかを、知ろうとする。
どのように「挫折を克服したか」を、聞く。
そして、聞くと
「子供っぽい」人は、「挫折を克服した経験」が、言えない。なぜなら、わがままを通してきたから。
また
「おとなしい」人も、「挫折を克服した経験」が、言えない。なぜなら、あきらめて来たから。
だから、おのずと、「挫折を克服したか」という質問は、「頭がよいこども」を知る手段として優秀なのです。
で、
私は
社会が間違った進化をすると、この「子供っぽいこども」か「おとなしいこども」が増えるように思え、「頭がよいこども」が増えない気がする。
などということを、
藤井聡太さんが八冠達成したニュースを聞きながら、考えたりしました。
ちなみに私は
「子供っぽこども」がそのまま「子供っぽいおとな」になると、やっかいだし
「おとなしいこども」がそのまま「おとなしいおとな」になるのも、もっとやっかいだ
と、思っております。
そして私は、
残念ながら「子供っぽいおとな」と「おとなしいおとな」が増えているという仮説をもっておりますし、
ですがそういう「子供っぽいおとな」と「おとなしいおとな」が作ってしまう残念な世界は
子供への愛の証として、子供の要求に答えるということが、出来なくなります。
そういう「挫折」を
これからの「こども」が、どのように克服するのか
1)わがままや不平不満や権利をSNSなどで叫ぶだけで自分は何もしない「子供っぽいおとな」で終わるのか
2)未来や社会を悲観し生きることに希望をもたない「おとなしいおとな」で終わるのか
3)オルタネイティブな社会を考えだす「頭が良いおとな」になるのか
もしアナタが、3)を選ぶなら、
私は、私の会社で、それを、応援したい。
お、
今回はわりと、ちゃんとオチがつけられたかもしれないな
おしまい