欲望のPDCA

PDCAとか、PDCAサイクルとか、もう何百年も言われてきたというか、今更もう言われ続けられていて逆に古いというか

 

「PDCAサイクルが回ってないぞ~」とか、まあ、言ったりするんですけど

 

本当にですね、回ってないんですよ。どこもかしこも

 

そう思いませんか?

 

PDCAサイクルって言葉を知らない人はいないと思うんですよね。ビジネスマンなら

 

でも、回ってない

 

ひどいもんだ

 

なんで回ってないのか?

 

IT業界では、いっとき、こんな言われ方をしました「PM能力が足りない」

 

そうPM、プロジェクトマネージャーですね。プロジェクトマネージメントでもいいけど

 

リーダーがPDCAサイクルを回さないから、回らない

 

なんとなくですね、これ、他責的な発想というのか…

 

「回す人がいないから、回っていない」

 

みたいなね

 

そのうちですね、「PMO」というのが出来ますね。「プロジェクトマネージメントオフィス」ですね

 

回す人の力が足りないし、回せる人が少ないから、プロジェクトを横断的に支援したり、監視したりしようという仕組み、組織、ですかね

 

はいでました、「仕組みでバックアップしよう」というやつね

 

ダメですね。すぐ形骸化します

 

「PMOの監査がめんどくさいから、この問題はだまっていよう」みたいなね

 

組織の形骸化能力をナメてたらだめですね

 

ナメたらいかんぜよ です

 

 

まあ

 

どうせですね

 

PDCAを回せる人なんて、限られているんですね

 

ホームランを打てる人が限られている。 というのと一緒だと思います。

 

PDCAをキチンと回さないと成功しないようなプロジェクトに、素人をアサインしちゃダメなんですよ

 

強敵を相手に試合をするなら、ホームランバッターやら、エースピッチャーやらを揃えるでしょ?

 

そこをですね、レギュラーを揃えられないで二軍三軍でなんとか回そうと思っても、それを老害ベンチがどんだけ後方支援したって

 

ダメなものは、ダメですよ

 

 

ダメなモノはダメだ と したうえで

 

 

なんでPDCAサイクルが回せないのか?って話ですけど

 

これ、私の持論ですと

 

サイクルを回す力が無いんじゃなくて

 

 P と D と C と A ですね

 

このそれぞれの力がないと

 

このそれぞれの力があれば、PDCAサイクルは自然と回せると思うんですよ

 

というのは、簡単に言えば

 

P:完成度の高いプランが描けないと納得できないし、なんとかして完成度の高いプランをたてようとする欲望

 

D:せっかく立てたプランを早く実行したい。実行して結果をみてみたい欲望

 

C:実行しているときにチームやマーケットに対する違和感を感じ、その解明に執着したくなる欲望

 

A:課題に対し解決策を見出すことが楽しくて、それを実行したくてしょうがない欲望

 

って、事ですよ

 

「なんちゃらというマネジメントフレームワークを熟知している」とか「なんちゃらいうプロジェクトのPMを10年やってきた」とか

 

そういう事じゃなくて

 

P・D・C・Aに対する欲望のかたまり

 

そういうのがあれば、サイクルなんて勝手にくるくる回り出すわけで

 

それをですね

 

スキルみたいに言ってもね…

 

 

おしまい

子供っぽいおとなとか、おとなしいおとなとか

多くの子供には、親がいる。

 

親がいる場合、その多くの親は、子供を育てる立場にある。

 

そして多くの場合、子供と言うのは無力なので、何か要求がある場合、親に頼む。

 

「お腹がすいたから、何か食べさせてくれ」

「つまらないから、遊びに連れて行ってくれ」

「アレが欲しいから、アレを買ってくれ」

 

など

 

無力な子供は、自分自身の力では、何か食べることも出来ないし、遊びに行くことも出来ないし、モノを買う事も出来ない。

 

だから、親に頼む。

 

そして多くの親は、子供への愛の証として、子供の要求に答えようとする。

 

だから子供は、自分の要求が満たされることで、愛を受け取る。

 

場合により、自分の要求が満たされないと、愛を受け取れなかったと感じる。

 

愛を受け取らなかったと感じた場合、

 

依存できるものが親しかなければ、その親から何とかして愛を受け取ろうとする。

 

または

 

親とは別の手段で、欲求を満たそうとする。

 

または

 

あきらめる

 

 

で、

 

1)親から何とかして愛を受け取ろうとする

2)別の手段で欲求を満たす

3)あきらめる

 

と、した場合

 

1)の方法として、「わがまま」を通す。というのがある。

 

 駄々を捏ねたり、僻んだり、まあ、いろいろな手段を、親が折れるまで続ける。

 

この「わがまま」が成功体験としてあり、常態化すると、子供は、

 

「世界は自分専用である」という認識を持つような気がする。

 

そして「世界は自分専用なのに、なぜ私の要求が通らないのだ?」という認識から、なかなか、成長出来ない。

 

したがって、「世界は自分専用ではないので」

 

 2)別の手段で欲求を満たす

 3)あきらめる

 

この2つの手段に切り替えなければいけないということを、知らずに、成長してしまう。

 

私は、そのような人を見ると、「子供っぽい」と、思う。

 

まとめると、私は

 

1)だだをこねて自分の欲求を満たそうとする人は、「子供っぽい」と、思う

 

また、のこる2つであるが

 

2)欲求が満たせないと、他の手段を考えようとする人は「頭が良い」と、思う。

 

そして

 

3)欲求が満たせないとガマンする人は「おとなしい」と、思う。

 

 

だから私は、なんとなく、たいていの「こども」を見たときに

 

 「子供っぽい」か「頭が良い」か「おとなしい」かに、分類したがっている(ような気がする)

 

そして私は、「頭がよいこども」が好きなので、目の前にいる「こども」が、上記3分類のうちの、どれなのかを知るために

 

その子供に「自分の欲求を満たせない状態」というのを、与え、その結果どのような行動(だだをこねるか/他の方法を考えるか/あきらめるか)をとるかを、知りたいと思う。

 

仮に「自分の欲求を満たせない状態」を私が与えられない「こども」だとしたら、その「こども」に、過去の挫折経験などを聞く。そしてその時どのような行動をしたかを、知ろうとする。

 

どのように「挫折を克服したか」を、聞く。

 

そして、聞くと

 

「子供っぽい」人は、「挫折を克服した経験」が、言えない。なぜなら、わがままを通してきたから。

 

また

 

「おとなしい」人も、「挫折を克服した経験」が、言えない。なぜなら、あきらめて来たから。

 

だから、おのずと、「挫折を克服したか」という質問は、「頭がよいこども」を知る手段として優秀なのです。

 

で、

 

私は

 

社会が間違った進化をすると、この「子供っぽいこども」か「おとなしいこども」が増えるように思え、「頭がよいこども」が増えない気がする。

 

などということを、

 

藤井聡太さんが八冠達成したニュースを聞きながら、考えたりしました。

 

 

ちなみに私は

 

「子供っぽこども」がそのまま「子供っぽいおとな」になると、やっかいだし

 

「おとなしいこども」がそのまま「おとなしいおとな」になるのも、もっとやっかいだ

 

と、思っております。

 

そして私は、

 

残念ながら「子供っぽいおとな」と「おとなしいおとな」が増えているという仮説をもっておりますし、

 

ですがそういう「子供っぽいおとな」と「おとなしいおとな」が作ってしまう残念な世界は

 

子供への愛の証として、子供の要求に答えるということが、出来なくなります。

 

そういう「挫折」を

 

これからの「こども」が、どのように克服するのか

 

1)わがままや不平不満や権利をSNSなどで叫ぶだけで自分は何もしない「子供っぽいおとな」で終わるのか

2)未来や社会を悲観し生きることに希望をもたない「おとなしいおとな」で終わるのか

3)オルタネイティブな社会を考えだす「頭が良いおとな」になるのか

 

もしアナタが、3)を選ぶなら、

 

私は、私の会社で、それを、応援したい。

 

 

お、

 

 

今回はわりと、ちゃんとオチがつけられたかもしれないな

 

 

おしまい

本能的に失敗しようとしている2

いつも通り無計画に、何を書こうか、オチをどうしようか考えもせず、したがきもせず、後から誤字脱字チェックもしないという決まり事で、気楽に書き始めますが

 

前回に引き続き「人間って本能的に失敗しようとするよね」っていう話ですが、

 

じゃあなんで「本能が失敗をしようとさせるの?」ってことで

 

私的にはタナトス要素で考えるのが一番しっくりくるんですけれどね。

 

つまり、人っていうものは、「生きたい!成功したい!楽をしたい!」っていう欲求と、

 

もしかしたら等価くらいじゃない?っていう程度に、「死にたい!失敗したい!苦労したい!」っていう根源的な欲求があるんじゃないかな~と思っています。

 

まあ、「本当か?」といわれると、私それを証明する術をもちませんが、

 

でもですね、なんとなくそういう気がするんですよね。

 

で、仮に、そうだとするとですね

 

例えばですね、「ホラー映画」なんかをみて、スッキリする人っていますよね。

 

ちなみに私はあんまりホラー映画が得意ではないのですが

 

あの、なんかこう、怖かったり、グロかったり、そういう作品を観て、スッキリするっていう感情は

 

もしかしたらタナトス的なモノが源流にあるんじゃないのかな?とか

 

あと「同情」とかそういう感情がエスカレートすると、「心中」とかそういうお話がありますよね?

 

で、「心中モノ」というような分野があるくらい、いろいろな作品(映像作品とか、芝居とか、歌とか)で「心中」っていうのは、美しさとして描かれる場合もあったりして

 

つまりですね、人は

 

 自分はどうやって生きるか

 

という事に、すごく興味があるけれど

 

 自分はどうやって死ぬか

 

っていう事にも、すごく興味があって

 

これがその、厄介な事には、例えば「理想的に生きる」よりも「理想的に死ぬ」ということの方が…

 

実は、実現可能性が高かったりして

 

まあ、生死の話は少し、行き過ぎかも知れません

 

でも、もしかして、例えば

 

 成功する/失敗する

 

の、話で言えばですね

 

例えば、どうでしょうね?

 

  ビジネスで成功する

 

のと

 

  ビジネスで失敗する

 

の、

 

どちらが成功確率が高いかと言えば、それは「失敗」の方なんですよね。間違いなく。

 

で、例えば、それで、「成功」にも「失敗」にも、それぞれに本能的な喜びがあったとするじゃないですか?仮にですけど。

 

で、まあ普通は、普通の人は、モチベーションというのは過去の成功体験(というか快感情体験と言い換えますね)の積み重ねによって強化されるとすると

 

そして「失敗」の方が発生確率が高いとすると

 

やっぱり人は「失敗」したがるんじゃないかなぁと思うんですよね

 

それに

 

もっと怖いのが、集団浅慮というやつで

 

「失敗」するモチベーションの方が、大多数を占めるとするならば、

 

大抵の「常識」というやつは、「失敗」するように出来ている。

 

「失敗」するように生きていないヤツは、愚かである。というような

 

社会的「強化」が「常識」というやつで、失敗の方向に成長してしまうわけですよ。

 

 

そんな気がしています。

 

だからですねぇ、やっぱり「stay foolish」が大切なんだと思うんですけれども

 

ただ

 

やっぱり

 

「なぜ、人は失敗したがるのか?」

 

という点ですね。

 

この点をすこしポジティブに捉えようとして見ると

 

見え方がガラリと変わるわけです

 

つまり「人と違う事をやる」という本能だと捉えてみれば、

 

例えば「突然変異」のような、進化に必要な重要な要素として捉えるべきであるわけですね。

 

ということは、「失敗したがる」というのは、例えば「冒険心」のようなポジティブな要素として捉えてみれば、わかりやすくなる。

 

「生きる」ことを「成功」だと捉えるなら、「無謀」な「冒険心」は、「失敗したがる人間の本能」であり、それは「死を恐れない」というポジティブ

 

ですが

 

「みんなで力を合わせて船を漕げ!そうすれば助かる!」と言うときに、例えば一人「これは運命だ。死を受け入れるべきだ」などという妄想に浸りだし、漕ぐことを手伝わない、みたいな「本能」もあったり

 

そんなことが

 

両方とも、同じような心の仕組みで出来ているように思うんですね

 

どちらにしても、人が「快感情体験」で意思決定しようとするときに、その目的が「生きたい!成功したい!楽をしたい!」だけではなく、言うなれば無意識的に「死にたい!失敗したい!苦労をしたい!」というほうに向かっている場合が、

 

これはもう確実にあると

 

そしてその仕組みは、生きるも/死ぬも おなじ仕組みなんじゃないかなと

 

最近よく、思います。

 

 

だから、ですね

 

生きるも/死ぬも 同じ仕組みなら

 

正義や/悪 を

 

簡単に、決められない

 

どっちが正義で、どっちが悪 かなんて、絶対的なモノはない。

 

 

なんてね、思うよね

 

 

 

 

おしまい

本能的に失敗しようとしている

私自身もそうだし、人を見ていると本当に「失敗しようとしているよな~」と思うんですよね。

 

本人はそんなつもりじゃあ無いのだろうけれど、ハタから見ていると、どうかんがえても失敗しようとしている。

 

失敗しそうなことにでもチャレンジする…とか、そんな格好の良い話ではなくて

 

「そんなことしちゃダメじゃん」って、ハタから見ていればわかることを、なんというか、本能的というか、本人は大まじめに、それが正解だと言わんばかりに、自身をもって、失敗するように行動している。

 

本人にとっては「もうそうするっきゃない!そうしないヤツはバカだ!これが正解だ!!」と、自信満々に、どう考えても失敗する方を選ぶ。

 

たぶんそういう「感情」に、なる。

 

失敗する方を選びたくなる心理というものがある。

 

もうちょっと言うと、やっぱり本能なんだと思う。

 

人間には失敗したいとする本能がある。

 

まあ例えば、プロスペクト理論のようなものも、私的には元来、人間が失敗の方を好むといった部分が根底にあるから、そういった心理的なモードになるのではないかと思うんだが

 

というか

 

私が好みの解釈としては、タナトスというかな、死の本能と言えば良いか

 

やっぱり人はタナトス的美学に酔いしれる本能があり、ほっておくと死のうとする。まあ実際死ぬわけではなくて、死に近づくことに酔いしれるというのか、殺してほしいみたいな言葉にある種の性的魅力のようなものを感じるとでも言うのか

 

まあいいけど

 

何しろシクジろうとするよね人ってやつは

 

気を抜くとシクジろうとする

 

だからですね

 

私は、 「人」 は 「失敗しようとする生物」 だと思っているので、

 

そんな私が考える、成功している「人」っていうのは

 

 ①人としては未成熟(例えば子供のような人)

 

 

 ②人としての欠点を、他の人と補完しあいながら成功しようとする「組織」を形成することに成功している

 

 

 ③人ならざる意思決定が出来る人(サイコパス

 

の、どれかだと思うんですよ

 

まあ、①と③は似ているかな

 

 

だから

 

理想的には、①か③でブートした組織を、なんとか②の組織に成長させていく、というのが成長のストーリーなんだと思うんですねどね

 

①か③がではですね、限界が来る。ある程度成功してくると、①か③の中にも「失敗しようとする本能」がしっかりと邪魔をしだすようになってくる。

 

そんなきがするよね

 

 

まあ

 

私も気を付けます

 

 

おしまい

 

どうせ出来ないとわかっていても、やらせる

まあタイトルの通りで

 

どうせ出来ないだろうと思っていますが、そういう態度は見せないで、やらせる。

 

やらせる。というと誤解があるかもしれませんが、「やる」と言ってくれたことなら、私は腹の中で「どうせ出来ない」と思っていたとしても、やってもらう。

 

そして私のほうが圧倒的に先に行く。少なくとも先に行く努力をする。

 

そして、やってもらいながら、圧倒的に先に行った立ち位置から、指摘をする。

 

そうすると、たいていの人(この場合社員)は

  • 早々にやる気をなくす
  • 指摘に対応することが仕事だと勘違いし、指示待ち体質になる
  • そもそも指摘の意味が理解できず、混乱する
  • 指摘を「わけのわからないことを言われ、邪魔されている」と受け取り、「自由にやらせてくれ」というような感じで拗ねる

等々の反応をする

 

なのでなかなか、上手くいかない

 

上手くいかないなら最初からやらせなければいい。どうせそうなる。

 

が、やらせる

 

なぜやらせるか

 

そもそも私は私を信じていないのである

 

  • どうせ上手くいかない(と、私が思っただけ)
  • 私のほうが圧倒的に先に行く(ということが、私はできると思っただけ)
  • どうせ私のいうことを理解できない(と、私が思っただけ)
  • どうせこの社員はやる気を無くす(と、私が思っただけ)

 

などなど

 

みんなみんな、私が思っただけだし、私の考え方や私の方法論や私の予見などを、いい意味で裏切る、素晴らしい結果が出るかも知れないのである

 

出ないけどね

 

まあ、ぜんぜん出ないけど、出るかも知れないのです

 

だからまあ、「どうせダメだろう」と思っても、やらせる。

 

やらせるし、容赦なく、先やら上からやらで指摘する。

 

だいたいそれで、「モチベーションが」とかなんとか言って離脱するのが多いけど

 

それでも、やらせるし、やってほしいし、続けてほしい。

 

続けてほしいけど、容赦はしないけどね。

 

 

このへんがな…

 

 

「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」

 

ってのがね

 

 

わかんないかな

 

 

わかんないのはナゼなんだろうね…

 

 

いや

 

 

わかっている社員はいるし、答えを出しているプロジェクトもあるんですよね

 

 

おそらく、この

 

「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」

 

ってのを理解する力量がある人っていうのは

 

やっぱり困難を乗り越える力があるというのか

 

と、いうより

 

「困難を乗り越えることが好き」なんでしょうね?

 

 

だから私は

 

「困難を乗り越えることが好き」な人が好きで

 

で、「困難を乗り越えることが好き」な人になら、「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」というスタンスで接するけど

 

でも誰が「困難を乗り越えることが好き」な人なのか、それを私が人選するということに対して

 

私は私を信じていないから

 

まあだいだい、だれに対しても「どうせ出来ないだろうけどやらせるし、続けてほしいけど容赦はしない」というスタンスで接することになり

 

そして多くの、途中脱落者と相対して、失望するというわけ。

 

でもね

 

「失望しないこと」が、年々、増えているような気がするから

 

いいんじゃないかな、これで

 

 

おしまい

 

 

能力を享受する厚かましさ

市川沙央さんの「ハンチバック」を読みました。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0C7TQPKWW/

 

まあ壮絶と言うか、壮絶で悲しいけどカワイイというか。憎しみの感情みたいなものがすごくてでもカワイイというか。

 

まああんまりよく説明できないです。

 

映画「ミッドサマー」を観たときに似たような感情を持ったかな?でもハンチバックのほうが何倍も色々な事を考えました。

 

読むことをお勧めするか…う~ん。どうなんだろ。

 

私は、読んで良かったと、思いました。

 

それでですね

 

読んで良かったし、市川沙央さんと言う人の書く文章に、これはもう、柔道の達人に連続で一般背負いで「スパン!」と投げ続けられたような感じで、私はもう成すすべもなくボロボロにされ、ぶん投げられ続け、でもなんというか、一本背負いの美しさの一部になったとでもいうのか、ただぶん投げられ続けてボロボロになったただのオジサンなんですけど、なんか一流の柔道の一部になったような誤解をして何かの達人にでもなったような悟り感を享受できたわけです。

 

ただのオジサンのくせに。

 

私はただのオジサンのくせに、市川沙央さんの人生によって、その影響によって、何らかの悟り感を享受できたわけ。

 

作品中の言葉を利用させていただくと、市川沙央さんのまねごとをさせていただけたとでも言えばいいのか。

 

本当に、壮絶な人生にたいして大した経緯もなく、「芥川賞かふ~ん」くらいのオジサンがですね。ほんと、厚かましいですよね。

 

かましい。そう。本当に私は厚かましい。

 

生きることは、厚かましいですね。

 

もしこの本を読むのでしたら、作者に敬意を表して電子書籍でお読みになることをお勧めします。

 

 

おしまい

入り込み過ぎている

昨今、よりLGBTQフレンドリーな会社になるべく、制度作りや社風改善なんかに意識が向いておりまして

 

様々なLGBTQ当事者の方々とお話ししたりしているわけなんですが

 

なんというか

 

やはりというか、結局と言うか

 

「職場」とか「会社組織」とか「就業規則」とか、あるいは「職場の人間関係」とか、あるいは「社風」みたいなモノがですね、そういうフォーマルな存在が、各個人のパーソナルな部分に、入り込みすぎなんだよな~

 

そしてその「入り込み過ぎている」というのが、古い習慣に根差しているんだよな~

 

かつ、

 

ちょっとそこに「法律」が入りこんできちゃっているから、面倒なんだよな~

 

というような、思いが強くあります。

 

うちの会社では、もう本当に、本格的に、「女性だから、男性だから」というような事柄は、完全に、

 

完全に、

 

完全に、無くしたい。

 

「無くしたい」が、「無くせた」にならないのは、「法律」があるから

 

例えばですね

 

「生理休暇」

 

労働基準法第六十八条に

 使用者は、生理日の就業が著しく困難な女性が休暇を請求したときは、その者を生理日に就業させてはならない

 

というのがあって

 

「女性」って、法律に、書いてある

 

だから当社も「女性」について、「生理休暇」を制定している。

 

というか、制定しなければ法律違反になる。

 

とても、アフォらしいが、生理休暇が無い会社は、あるいは生理休暇が取得しにくい会社は、今の日本では、「ブラック企業、女性の就労に理解が無い企業、法律に違反している企業」という解釈になる。

 

ダメダメ

 

こんなん、入り込みすぎですよ

 

ようするにですね、これは

 

「使用者は、就業が著しく困難な人が休暇を請求したときは、その者を就業させてはならない」

 

で、良いんですよ

 

というより、

 

「使用者は、人が休暇を請求したときは、その者を就業させてはならない」

 

で、良いんですよ

 

ようするに「女性だけ」「生理だけ」を、特別扱いすることが、不平等なんです。

 

いや、まあ、例えばそういう会社があってもいいんですよ

 

でもですね、それを「法律」が定めちゃ、ダメなんです。

 

そんなんね、法律がね 女性は~ とか そんなん、アフォかと

 

例えばトランス男性の人だって、いろいろな苦しみがあったり、通院が有ったり

 

そういうことはですね、人それぞれ なんであって

 

法律がですね、そういうことを「女性だけ~しなければならない」とか定義しちゃ、いかんのです。

 

そりゃぁ、昔は

 

 ・会社を休むということに今より罪悪感があった

 ・女性の就業率が低かった

 ・生理に対する社会的理解が低かった

 

とかまぁ、いろんな事があったのでしょう。そういう事情に対して、法律が後押しして、その当時の社会的弱者がもっと社会進出出来るようにしたっていうことで、まあ、そんな法律が出来たのでしょう けれど

 

もう古いよそんなの

 

女性以外の人間に対する逆差別になりかねないよ

 

こういうのはですね、アファマーティブなアクションとして制定した特定の定義であるならば、「もういらないな」とか「もう時代が変わったかな」という事をよく見ておかないと、逆差別につながるわけです。

 

会社の話とは違いますが、私がよく例として挙げるのは、電車の「女性専用車両」。

 

女性専用車両は、男性差別、ですよね

 

が、しかし、女性や障碍者の社会進出をより進めるために、女性専用車両は、アファマーティブな手段としては、必要なわけです。

 

社会の民度が上がり、電車のような公共の場において、痴漢のような犯罪とか、障碍者に対する無理解感とかが無くなって行けば、自然と女性専用車両は無意味なものとなり、むしろ男性差別のようなものとして浮き上がってくる。

 

そういうことなんで

 

当社は有給休暇も取りやすい会社になっているし、時間単位年休なんかも早々に取り入れているし、

 

そういう当社になった上で、この、「生理休暇」ってやつは、無くしたい

 

無くし、例えば必要なら相応の日数を、全社員分の有給休暇(もしくは何らかの特別休暇)として増やすとか、もうちょっと「公平性」などの議論を社員と行って、何か新しく、会社が社員のジェンダーに入り込まないような制度を考えたい。

 

 

何しろ「法律」が入り込んでいるからね

 

それにまあ、「常識」みたいな浅いものもあって

 

だから

 

この辺り間違えると、さっきも言ったけど

 

今の日本では、「ブラック企業、女性の就労に理解が無い企業、法律に違反している企業」という解釈になる。

 

なんでや

 

なんで「平等、公平」を考えようとすると、会社がブラック企業になっちゃうんだ?

 

ということで、いまだに当社は「生理休暇」を無くせていません

 

 

という悩みでした

 

 

おしまい